*8*
薄曇の少し肌寒い天気の中で、軽い朝食を腹に詰め込んでから、ショーンはヴァンと湖面に釣り糸を垂れた。
夏の喧騒は遠のき、秋の空気が忍び寄ってくるのが解り。けれども時折覗く太陽は、まだどこか夏の光りを留めたままだった。
一泳ぎしてきたヴァンは、少し厚手の黒いパーカを被って、隣の椅子に座っていた。濡れた亜麻色の髪が、空気に冷えて寒そうだった。
けれど慣れているのか、寒いからあんたはよした方がいいね、そう言って笑って座っていた。
そういえば抱き締めて眠った身体は少し熱いほどだったと思い出す―――――まだコドモの体温、なのかもしれない。
9月半ばにしては、暑いほうなのか、寒いほうなのか。ロスから離れたこの山の中では解らなかった。水温はもう多分、ずいぶんと冷たいだろうことは想像できたけれども。
―――――9月。
釣り糸を垂れながら思い出す、自分がヴァンと同じ年頃だったころのこと。
バークレーは早いほうなのか、8月の終わりには授業が始まっていた。
高校でドロップアウトするヒトも、留年するヒトも珍しくは無い。大学に行かないでいることも、珍しくはないけれども――――ゴキゲンな様子でハナウタを歌いながら、脚をぶらぶらさせつつ釣り糸を垂れているヴァンを見詰めて思う。この子は、この先をどうしたいのだろう、と。
ショーン自身が18の頃は、親にバークレーを作曲科で入学したことを知られて勘当されたのをいいことに、一人暮らしを始めていた。
一人暮らし、とはいっても、倉庫だった場所を借りて、適当に家具を放り込んであっただけだ。
その時に必要だったのは格安で手に入れたアップライトのピアノと、大学で新しく組んだバンドの連中と練習をするための場所だけだった。そこにオンナノコとアルコールとドラッグが入ったのは、監視の厳しかった両親から離れた反動としては、あの時代のガキにしては当然のことだったように思う。
家賃と学費を払うために近場のスタジオでバイトも始めた―――――最初はスタジオミュージシャンとして。後は、レコーディング・ディレクタのアシスタントとして。
もちろん、それだけでは何もかもが足りなかったから、地元のラジオ局でもバイトを始めていた。裏方専門で、アンプを繋いだり、音を確認したり、時折緊急で休むDJの変わりに流す音を選んだり。
息を吐く暇もなく、バイトとバンドと学業とオンナノコに溺れて、気付けば適当なグレードで大学は卒業できていた。そのままバイト先で知り合ったヒトのツテで今の会社に就職して。気付けば大学を卒業してからもう6年も経っていた。
振り返ればいいことも悪いことも沢山あったけれども―――――1分1秒が何かに満たされていた。それだけ濃密な時間を過ごしていた。それが今の自分を形作っているのを理解している。けれど―――――ヴァンは?この静かなヴァカンスの土地で、ひっそりと不自由な父親と過ごしていくのか……ずっと?
高校では州のインターハイに水泳で出場できるだけの能力があったと叔父は言っていた。大学に入学願書を出していたように記憶している、奨学金付きで入学を望んでくれていた大学があったことも、と。
『ヴァンが行きたいのであれば、銀行に頼むつもりではあるんだ』
ヴァンが泳ぎに行っている間に釣り道具を用意していたショーンに、叔父は言った。
『ただ―――――投資に随分と失敗していてね。信用が、薄い。恥ずかしい話だが』
ショーンの両親が、叔父と疎遠になったのにはもう一つ理由があった。叔父の借金だ。それを、父親は肩代わりするのを拒んだ。離婚したとはいえ、妻の妹の夫であった筈の人なのに―――――ヴァンの父親であるのに……。
母親も、父親の決定には賛同していた。妹が見限ったのならば、それまで、と言って。
そのことを知って、ショーンは両親の冷たさに嫌気が差した。
それまでは、家族だからだのなんだのといって、毎年訪れていた叔父達のことだったのに、車一台分ぐらい、家に余っているのを売ってしまえば作れたにも関わらず。父親は、自分のコレクションを手放して、金を作ることを拒否した。
母親は、もう使いもしない貴金属や毛皮を売って、ほんの少し手助けすることを嫌った。
『あの人が、自分の息子のためにお金を使うのなら、差し出すのもいいの。でも、そうは思えないから手助け出来ないのよ』
ショーンの母は、真っ直ぐにショーンの目を見詰めて言った。
『本当なら、慎ましく生活できる分の貯金が妹たちならあったのよ。あの人が投資に失敗して、しかもアルコール漬けになる前までは』
叔父はすっかり変わってしまったのだ、と溜め息交じりに告げた母を、見捨てた叔母を冷たいヒトたちだとショーンは思った。
―――――今になるまで省みることをしなかったショーンも、同罪ではあるのだろうけれども。
銀行に信用がない、と言った叔父は、けれども。ショーンに“お願い”をしなかった。変わりに金を借りてくれ、とも。頭金になる分を貸してくれ、とも。
いまの叔父を見る限りでは、昔のままの頭の良い優しいヒトだと思った。ショーンが自分の父親よりも慕っていた、明るいヒトのままの。
けれども、ショーンは再会した直後に叔父がこっそりと洩らしていたことも忘れてはいなかった―――――ヴァンに寂しい思いをずっとさせていた、と言った叔父の言葉をを。
10年間も従弟のことを放置していた自分にこそ、信用がないのかもしれない。こうして温かく迎え入れてはくれたものの―――――血の繋がりを理由に、なにかを望まれるほどには頼れない存在だと思われているのかもしれない。
今更差し出がましいことかもしれない、と思いつつも。こうして会って一夜を同じ家で過ごし。あまつさえ、抱き締めて眠ったヴァンのことを、このまままた放置していくことは、ショーンはしたくなかった。
ショーンにしてやれることなど、大してないだろうけれども―――――今はもう“大人”だから、自分の両親がこの親子を見限った頃にはできなかった何かを、今なら出来るはずだった。それを―――――望んでさえくれれば。
* * *
餌ばかりが食い散らかされ、なんの収穫も無いまま1時間が過ぎた頃に、ショーンは静かにヴァンに訊いてみた。オマエ、これからどうすんの、と。
「これから?」
ヴァンが首を少し傾げて言っていた。
「魚が釣れたらフライにでもする?」
けれど、ショーンが問いかけた質問の意味をきちんと理解していたのか、ふ、とカオを真面目に戻し。
「大学には、アプリケーション出し直したんだ、前に受かってたのとは別のとこ」
そう言って、少し微笑んでいた。
「泳ぐの、やめちゃったしね」
にこ、と笑ったヴァンの笑顔が、少しばかり痛みを含んでいたから。ショーンは真っ直ぐにヴァンを見据えた。
「才能あるって、親父さん、言ってたぞ」
「ウン……?でも、もう―――いいんだ、」
そう呟いて、湖の対岸のほうを見詰めた。昔、彼らが住んでいた屋敷があった方角。
ヒトの気配の消えた、空っぽの家。温かな笑いに満ちていた場所。
あのさ、と小声でヴァンが言った。
ん、と静かに話を促してみる。
「少し前に、あそこの家にね、トモダチの家族が住んでたんだ。全米水泳リーグのチャンピオン」
ふい、と視線が合わせられて。その言葉が齎されたトーンとは裏腹に、傷がそこに隠れていることを読み取る。気付いたことを匂わせるほど、出来てないオトナではないけれども。
「奇妙な感じ、ヒトの家なのに全部中身わかってンだもん」
にっこりと、無理矢理浮かべたと解る笑顔に、ショーンは視線を対岸に向けた。
「全部が同じじゃなかっただろう?」
「うーん……半分家具つきでウッパラったからなぁ、」
半分一緒だったね、と。ひらりと手を上向けたヴァンに、ショーンはまた視線を戻す。
「いかにもプレップスクールのお坊ちゃんみたいなタイプだったけど、いいヤツだったし。家族もみんないいヒトたちだった。けど、」
途切れた言葉に、そのトモダチこそが、ヴァンが“死なせてしまった”子なんだろう、とショーンは叔父の言葉を思い出す。
「競泳で全米ナンヴァ1のくせに、溺れて死んじまった。そうさせた原因はおれにあるし…家族の人たちも葬儀が終わったらすぐに引っ越していって―――だから、もう水泳はいいんだ」
そう静かに言って、ヴァンが僅かに目線を揺らした。それから少しだけ口調を明るくして、言葉を継ぐ。
「非公式タイムだけど、おれの方が早かったしね」
「ヴァン」
この年のコドモが背負わなくてもいい筈の傷を、抱えてしまった従弟を見詰める。なに?と視線が訊いてくるのに、正直な気持ちで告げる。
「なにかしたいことが見つかったなら、今ならオレでも助けになるかもしれない」
手が欲しければ言ってくれればいい、と言葉を継いで、一瞬目を瞬いたヴァンからまた湖面に視線を戻す。
目の端で、ふわりとヴァンが笑うのが見えた。
「なに言ってンだよ、」
そう言って、こつんと爪先でショーンの足元を小突いた。
「大丈夫だよ。でも…ウン、ありがとう」
つんつん、と引かれる浮きに視線を向けたまま思った。
ヴァンに軽々しく、全てを無かったことにはできないけれども、遣りなおすことはできるんだ、とは言えなかった。忘れることなんかはできないし、きっとショーンがしたように切り捨てることもできないだろうし。
「むしろさ?」
そう言って見上げてきたヴァンに、視線を戻す。
「んん?」
「ショーンは、おれがまだここにいるのが意外なんじゃないの、」
「そうだなぁ……叔父さんと、もう別の土地に越していても、不思議じゃないとは思っていたよ」
誰だって痛みを直視する場所に留まることは避けたいのが本音だし、とは続けずにいれば。ヴァンが酷く寂しそうなカオをしていた。
「だから、ヴァン。車からオマエの後姿を見付けた時、驚いたと同時に嬉しかったよ」
真っ直ぐに視線を合わせたままで告げる。
「ここに上がってくるまでの道のりを、オレ自身は初めて運転してきたけど。記憶を頼りに戻ってこれたし――――戻ってくる間中、オマエと過ごした時のことばっかり、考えてた」
潤んだブルーアイズを見詰めて、泣き出しそうになっているヴァンを見詰めたまま、にこりと笑う。
「チビのオマエがいるとばっかり思い込んでいたのに、案外でっかく育っていて驚いたよ」
なにもかかりそうにない釣竿を地面に置いて、立ち上がってヴァンの側に立った。
すい、とヴァンが目を伏せて呟いた。
「―――――ゴーストじゃ、ねぇもん」
「まあな。生意気に煙草ふかしてるオマエを見て、10年も経ってたことを漸く知ったんだ」
まだ濡れて鈍い亜麻色の頭を、ぎゅうっと抱き締めた。
「オレのチビのヴァーニーが、一丁前のクソガキに育っていてアタリマエの時間をオレは逃しちまったんだ、ってな」
する、と額を胸元に押し当ててくるコドモの後頭部に口付ける。しばらくずっとそのままでいれば、ふ、とくぐもった声が静かに言葉を告いだ。
「家に一度電話した、」
「……何時?」
そんな話は知らない、とショーンは眉根を寄せる。
「かあさんが出て行ったとき」
最後に会った夏休みが終わって直ぐの頃の筈だ。
声がますます小さくなり。背中に回された手が、シャツの生地をきゅっと掴んだ。
「すごく、ショーンに会いたくて。でも、あんたいなくて…おばさんも連絡先がわからないって言うから」
ますます握り締められる手の強さに、どれだけこのコドモが寂しがりやだったかを思い出す。
「進路で揉めて、親父に勘当されて。暫く音信不通だったんだよ、両親とも」
さら、と背中を撫で下ろして、頭の横に唇を押し当てる。
「―――うん…、とうさん、も。環境が変わると大変なんだから、って言ってた」
「……オレはオマエを泣かせたんだな」
さら、と指に冷たい髪を梳く。
「オマエ、寂しがりやだもんな、ヴァーニー」
「へんだな、」
小さくヴァンが呟く。
「んん?」
「いまになって…なんかすげぇあんたがいるって実感してら、」
すい、と身体が僅かに離されて。泣き笑いのような表情で、ヴァンが見上げてきた。
「昨日は信用してなかったのかも、夢かもって?なっがすぎかぁ」
ふにゃ、と柔らかな笑みを浮かべたコドモの額に、トン、と唇を押し当てる。
「いまさらなにをしに来たんだ、って。言われるかもってどっかで覚悟はしていたんだ」
むしろ、それを覚悟していたから、結果的に10年も間が空いてしまったのかもしれなかった。
「だってさ、」
ヴァンの青がゆらりと揺れた。
「んん?」
「そんなこと言うはずないだろ…?何でおいてくんだっておれが大泣きするたびに、おれがここにいたらまた戻ってくるから、ってあんた言ってたじゃん―――ほっとかれたけどさ」
最後の辺りはからかうような口調になったヴァンを見下ろして、ごつん、と額を押し当てる。
「年月はヒトを変えるんだよ。でも―――――オマエはそのままの、オレのチビちゃいヴァーニーでよかったよ」
込み上げるままに、笑みを口端に刻む。
「―――――変わったよ」
拗ねた声に、喉奥で笑う。
「わらうな、それにヴァーニーって言うな」
「煙草も吸えるし、お酒も呑める、って?未成年」
ますます声が剥れたヴァンに、くくっと笑う。
「オマエだって、オレのことをずっとパットって呼んでるだろうが」
じとっと睨みあげてくるのを、笑みを浮かべて見詰め返す。
「きょうはまだ一回も言ってない、ヒトの話全然聞いてねぇな、あんた」
更に拗ねたブルーアイズを覗きこんで、ふにゃりとショーンも笑う。
「でもまだ呼ぶつもりはあるんだろう?」
目を細めたヴァンの頭を、ぐいぐい、と撫でて。とん、とその鼻先に口付けた。
* * *
「そういうの、良くないと思うよショーン」
「うん?なにが?」
間近でヴァンの双眸を覗き込む。
「あんた、面倒くさがってる」
「ごまかしてるって?」
「もっと悪い。聞く気ねぇもん」
拗ねまくったヴァンの声に、ショーンはますます声を和らげる。
「言いたいこと、全部言っていいよ」
「もう、いい」
「どうして?」
じっと見詰めてくるヴァンを、真顔に表情を戻して覗き込む。
「さっき流そうとしたなら、もういいよ。仕切り直されても嬉しくないもん。だから忘れていい、」
静かな口調でヴァンが告げて。一度、ぐっとショーンの首元にカオを埋めてから、すい、と離れていった。
まだまだ拗ねている背中を見詰めて、ショーンは小さく首を傾げた。そういえば、チビの頃もよくショーンには見当の付かない理由でよくショーンに対して拗ねていた、と。
「“パット”、ランチ作りにおれ戻るから。あんたはもう少し遊んでていいよ」
そう言って、ヴァンがすたすたとバンガロー目指して歩き出した。
すらりと伸びた手足がもうコドモのものでなくても。その手を握って、あの道を戻ってやりたいと未だに思うのは、奇妙な“年上の従兄”としての気概の表れなのか。
煙草を咥えて火を点けながら、遠のいていく後姿を見詰めた。
不意に記憶の中で、フェンが笑って言っていた。
『バカねえ、ショーン。あの子はアンタが好きなのよ。ただそれだけのこと』
オレもあの子がとても好きだよ。いまでも、フェン、そのことに変わりはないんだ。
静かに記憶の中に薄れていたフェンの面影に呟いた。
本物の兄貴だったなら、もしかしたらもっと大事に出来ていたかもしれない、と思える程。
『たまに会うから、いいもんなんだよ、ショーン』
クィンスの言葉がリフレインする。
それはそうかもしれない。けれども――――あの子が甘えてくれるのが、嫌だと思ったことなんか一度もないんだ、と脳裏で弁明する。
何故なのか、ショーンには解らないけれども。年下の、母方のサイドではたった一人の従弟は、ショーンが唯一大切にできなくもない相手だった。
そして、それは今でも変わらないことが、いまは酷く嬉しかった――――もうそうさせてくれるかどうかは解らないけれども。
柔らかな砂糖菓子のように甘い笑顔が変わらないことや、泣きそうに潤んだ青い双眸がとても美しく澄んだままだったことに、どれだけショーンがほっとしたかをきっとヴァンは知らない。
放置しっぱなしだった竿に視線を投げ掛ければ、道の途中でヴァンが振り向いていた。
「ハニーマスタードチキン、まだすきー?」
ショーン、と呼びかけてくるヴァンに振り返って、笑顔を足して大声で応える。
「もちろん大好きだよ、ヴァン」
「わかったー」
機嫌が直ったことをあまり悟られたくないのか、声を努めて平静にしたヴァンに、ちゅ、と投げキスを送る。
「おいしいランチの用意を頼むな、ヴァン」
「届かない!」
親指を下にし、へらっと笑ったヴァンが走ってバンガローに戻っていった。
その様子を笑って見詰めながら、ショーンは煙草の灰を落とした。
「なんだってああカワイイかな、アレは」
呟いて、懐かしい二人の面影を思い出す。
「あんだけカワイイんだから、愛さずにいられないわけがないだろうが」
可愛くない、父方の従姉弟の面影がちらりと浮んだのを頭から追い出す。
そういえば、あっちの従姉弟どもともちっとも会っていないけれども、なんの罪悪感も沸かない。あちらもショーンに会っていないことをなんとも思っていないだろう。
会いにこなかった10年間をヴァンにもし埋め合わせることができるとしたら、なにをしてやればあのコは喜ぶだろうか?
そうふっと思って、ショーンは小さく苦笑を浮かべた。
本当に、自分が甘やかせることができるのは、ヴァン一人だけかもしれない、と思い至って。
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