はろうしん
って



がが、とラジオが風邪を引いたアヒルのような音を立てたのに、ノーマンはびっくりして明るい黄色に塗られた木の椅子から転げ落ちそうになりました。
とてもお天気の良い午後で、ノーマンは窓を大きく開けてショーンが奥の「しょさい」でお勉強をしている間に ラジオで「くらしっく」を聞きながら、くるくるとよく動いてくれる箒と一緒にお掃除をしておりました。 さっきまで、ショーンに一度名前を教えてもらった曲が流れていたのに、急にがががが、とアヒルのようにラジオが鳴きだしたのです。
「あら?」
床に落ちたままでノーマンは首を傾げました。
ががが、が、という音の間から、なにかの声がします。 床をそのまま手と足を着いてラジオの置いてある棚の側にノーマンが近付いていきました。
『――――−…キングスタウンの……では、ことしも―――……』
「きんぐすたうん?」
ノーマンがもっと首を傾げました。
きんぐすたうん、というのは偶にショーンのお話にも出てくる、おうさまのすんでいるとおい街のことです。
このあいだ、教えてもらいました。 けれど、ノーマンは「おうさまのいる街」がどういったものか、想像できません。
けれど、ノーマンはうんとちいさいころに「ぱぱとまま」と一緒に住んでいた森の側の町についても、なんにも覚えていないのです。ショーンと一緒に住んでいたというおじさんのことも。
だから、「街」のことはショーンの読んでくれるお話や、絵本の挿絵で知っているだけです。もちろん、たまに ショーンのお話にも出てきます。
『−−−−−ハロウィーンの……パレードの先導は―――』
「はろ……?」
もっとノーマンは首を傾げました。
パレード、という言葉の意味はわかります、行進のことです。おうさまのいる街では、音楽隊が街をパレードする、というお話をショーンは指の先に絵を映し出す透明な四角い小さな箱を乗せて、以前ノーマンに話してくれたことがありましたから。
そして、その箱のなかで、キラキラと光る何色もの紙ふぶきが散っていてとてもきれいで、ノーマンは嬉しくなってショーンにしがみついていたのです。
『あれ、なぁに、あのキラキラ……!』
『紙吹雪だ。溶ける紙で作って仕込む。綺麗だろう?』
『つくって!ねえ、しょーん、あれいま作ってください!』
そうノーマンがまっさおの目をもっとキラキラとさせてお願いをしたなら、
『いまはお勉強の時間だからダメ』
『―――きらきら…』
そうしょんぼりと項垂れたなら、それにあれはお祝い事のためのものだからね、とショーンが囁いて、ノーマンの額にキスを落としてくれたことがありました。
けれど、それからしばらくして、その紙ふぶきをおうさまのために作ったのも大好きなショーンで、そのショーンがノーマンが間違えずにちゃんとアルファベットを全部書き終えてショーンの出した綴りのテストもパスしたときに、特製の紙ふぶきを作ってくれたのです。思いつく限りの色が全部ありました。
前に、なぜ毎日がお誕生日じゃなくてパーティーができないの、と訊いたときにショーンが答えてくれたように「特別な日に特別なことをやるから素敵なんだよ」といった通りでした。

「あれ、とっても素敵です」
紙ふぶきのことを思い出しただけで、ノーマンはにこにことしてしまいます。
「でも、」
むーん、とノーマンは四つんばいだったままから、お尻をおとして床に座り込みました。 がががーとラジオはまだアヒルになってしまったままです。
「……はろうしん」
なんのことかしら、と頭がぐるぐるします。
しかも、間違えています。
わからないことがあれば辞書をひきなさい、と言って。とてもきれいな絵のついた厚い辞書をショーンはノーマンにあげていたのですが、ノーマンはすっかりその「素敵なごほん」のことを忘れておりました。
「なにかしら」
ノーマンの耳はもう肩にくっついてしまいそうになっています。
はろうしん、ともう一度繰り返します。音だけでも、なんだかたのしそうな気がします。
「あー!!」
ぽん、とノーマンが両手をあわせました。
「素敵なご本がありました!」
わすれてしまってばかですねえ、と独り言を言いながらノーマンが立ち上がります。 そして本棚からドキドキとしながら辞書を引き出します。
そして辞書をもってテーブルに戻って、椅子に座る頃にはラジオもきれいな音楽を流し始めていました。
「あ。お風邪がなおってる」
ふふ、とわらってから、ノーマンが勢い込んで辞書の「H」のページを開きました。
その途端、ハープのような音が流れます。
ページをめくるごとに、ハープの弦が爪弾かれるようにショーンが魔法をかけていたのです。 挿絵も、自由自在に動きます、いまふうにいえば「動画」です。
「はろうしん、はろうしん、っと。ええと、エイチ、オー、エル、エル、オー、エスー…」
あぁ、もういけません、間違えています。
「エスー、エイチー、アイー…あら?」
ありませんよう、とノーマンがぽそりと呟きました。
よいしょ、と重たい辞書を持ち上げて裏返してみても、ありません。
「はろうしん、ないんですか」
そんなタイヘンなヒミツなのでしょうか。 なんだか心臓がドキドキとしてきました。
さっきの声は、そういえば急にがーがーといいだしたラジオから聞こえてきましたから、悪い妖精のナゾの通信だったのかもしれません。
頭ものんびりとしているノーマンは、ラジオにノイズが入って偶然、他所の局と混線したことなど、想像もつかないのです。
しょーんのお勉強部屋の、触ってはいけません、と言い含められている黒い大きな革のご本や、赤いご本の周りに偶に飛んでいる悪い妖精たちとおしゃべりをしてしまって、酷くショーンに怒られたことがありましたから、ノーマンにとっては電波の混線よりも、悪い妖精の方が身近なのです。
うううん、と何秒か辞書の裏側を眺めてからノーマンがぱたりと本を閉じました。
「またねー」
辞書の表紙に描かれている妖精たちの絵がくるくると円を描いて手を振ってくるのに答えると、ノーマンが溜息をつきました。
なんでも載っている辞書にない言葉なんて、どんなヒミツがあるのでしょう。 じっとショーンの書斎を見詰めます。
お勉強中は、入ってはいけませんよ、と。ショーンが以前優しい声で言っていたからです。

「でも」
もしかしたらとてもたいへんなヒミツかもしれません。きゅ、とノーマンが掌を握り締めました。 ごくん、と息を飲み込みます。ついでに、テーブルに出していたお水も飲みました。
よし、と覚悟を決めてノーマンはおそるおそるショーンの書斎に近付きます。そして、外からそうっと声をかけました。こんなことは、滅多にしません。
「−−−−しぉ…?」
コンコン、と小さくノックもします。
ぴったりとドアに耳をくっつけてみましたが、中からなんのお返事も聞こえません。
「しょおおん、」
もうすこし大きい声でショーンを呼びます。
またぴったりと耳をくっつけますが、しーんとしたままです。
「しよおおおおん」
少しだけ、ドキドキとしてノーマンは一所懸命ノックをしました。
手が痛くなるほど、分厚い木の扉を叩きます。なかでショーンはもしかしたら怪我でもしてしまったのではないかしらと気が気ではありません。
「しょおおんーーー」
はろうしんのひみつよりも、ショーンの方が心配になってきます。
ごんごん、と扉を叩けば。
ぎぃいいいい、と軋んだ音がしてノーマンが目を見開きました。知らない間に、いまにも泣きそうに目が潤んでいます。
ゆっくりとドアが開いて、煙と山火事のような匂いがふわりと漂うのに、ノーマンが目をまるくします。 ショーンのしょさいは、いつもハーブのすっきりとした香りがするのに。と、ノーマンはきゅうっと目を細めます。
ずる、と足を引き摺るようにしてショーンがドアに手を掛けて出てきました。小さく咳き込んだ瞬間に、火の粉がキラキラと散っていきます。
びっくりして立ちすくんでいたノーマンを、軽く身体で押し遣るようにしてショーンが黙ってリビングのほうへ 行ってしまいました。
「しぉ…」
振り向こうとしたとき、書斎の中が見えました。
いつもの本で沢山の天井まである本棚も、大きな机も窓もなくなっていて、お部屋のなかが全部お空のようでした。
それだけなら、あまり不思議には思いません、だってショーンは魔法使いで、しかもとっても魔力の強い人なのです。
けれど、そこに拡がっていたのは何度か遊びにいったことのある、湖や草原や真っ青なお空の広がるヒミツの場所でもばくて、火のようにまっかなお空でした。そして、とても「わるい」「こわい」「かなしい」気配がします。
ぶるぶる、と頭を横に振って、ノーマンは一所懸命ドアを閉じました。
「ドア、閉じて」
ショーンのいつもとてもやらかくて滑らかな声が、なんだかいまはたくさんけむりを吸ってしまったようにイガイガしています。
「はい、しました」
「ありがとう」
すぐにノーマンはキッチンへいって新しいお水をコップに汲むと氷もいれて、零さないように慌ててショーンの側へ向かいました。 暖炉の側の椅子にどっかりと座って眼を閉じたままのショーンは、なんだかいつもと少し違います。 ふわふわと柔らかなブロンドが、どこか硬いように思えます。
いま、眼を瞑っているけれどきっと瞼の下の目も、きっと少し色が違うね?とノーマンは思いました。 これは、「くま」であったころの長いノーマンの、本能的なカンというものです。
これは、きっと。
るーしー、がショーンの中でおっきくなっているのかしら、とノーマンは思いました。ショーンが前に話してくれました、魔法使いの力は「まもの」をつかまえて「きょうてい」を結ぶから強くなるんだよ、と。 ショーンの「きょうてい」の相手は、「るーしー」です。
悪い妖精たちは、みんな自分はるーしーのともだちだと言ってノーマンを信用させようとしていました。だからきっと、「るーしー」は森のボスのようなものです。
「しょおん、おみず」
そうっとノーマンはショーンに水を差し出しました。
掌に軽くコップを触れさせます。
「いりませんか?」
眼を瞑ったままショーンがコップを持ちます。
そうしたなら、お水が火にかけていないのに沸騰したように泡を登らせて、冷たいのに湯気まででてきます。
「ひゃあ、」
ノーマンが小さく感嘆の声をあげました。
けれど、煙のような匂いが昇るのに、ノーマンが口許を押さえます。
なぜなら。
うんとちいさいころ、自分に袋を被せたのと同じ影の小人たちがくるくると長く背を伸ばして周りを円を描いて回ったのです。
ぶるっと震えて、それでもノーマンはじっとしていました。ショーンといれば、怖いことは起こりっこありません。
そして、すううっと影が消えていって、ゆっくりとショーンが目を開けました。
「しぉ、」
がまん出来なくなってノーマンはもういつもの大好きなショーンに戻ったのをすぐに感じ取って、遠くの戦争から帰って来たばかりの魔法使いに抱きつきました。
もちろん、ノーマンはショーンがそんなところに行っていたことは知りませんでしたが。
もし、そんなオシゴトを頼まれている、と知ったなら。この世間知らずでも勇敢な元こぐまは、キングスタウンの魔法庁に抗議に飛び込んでいくに決まっています。
のんびりやなのに、妙なl行動力だけはあるのです。
きゅうきゅうと抱きついて、ショーンの首元に顔を埋めれば、「ただいま。」といつもの、それでもどこか草臥れたような声でショーンが言いました。
「髪、こげちゃったの??」
「うん?――――あぁ、」
コンロで前髪を焼いてしまったときと同じ匂いがショーンからして、ノーマンはハナを鳴らしました。 ぱしん、と指を鳴らしてショーンがすぐに身なりを整えていきます。
「今日は少し手間取った」
はぁ、とショーンは深い息を一つ零しました。
そしてコップを床に置くと、抱きついてきたまま見上げてきていたノーマンの頭をくしゃくしゃと乱してなでて、額にキスを落としてくれました。
「しょぉん、」
ふう、とノーマンも安心して息を洩らします。
「お怪我ないですか?」
「ああ、だいじょうぶだよ。オレは最強だからね―――――ったく。拗れるとロクなことになりゃしない」
じっと見詰めたまま、ちゅ、とノーマンはショーンの唇にキスをしました。
ふぃ、とショーンが笑って。 ノーマンも嬉しくなって額をもっと押し当てました。
そして、ふわふわと嬉しくなって、御用時を思い出したのです。
「しょぉ、あのね……?」
「んん?」
きゅ、と真面目な顔に戻ります。
「じしょにもない言葉があるの、」
柔らかい笑みを浮かべたままのショーンに言い募ります。
「悪いなぞの通信をきいちゃったかもしれないんです」
「謎の通信?」
「はい」
こきゅ、とノーマンが咽喉を鳴らしました。
魔法使いは、ふわ、と首を傾げるとそのままノーマンを膝に抱き上げます。
「あのね、」
ドキドキとしたまま、ノーマンはまっすぐにショーンのきれいなブルゥアイズを見詰めました。
「なに?」
「らじおがね、急にあひるになっちゃったの、それで」
「アヒル?」
「はい。がーがー言ったんですもの」
ノーマンは真剣そのものですが。 ぱち、とショーンが目を瞬きました。それから、ぱしん、と指を鳴らしてよその場所の「ゆうびんうけ」をあけていました。
「そんなのしないでくださいよう。タイヘンかもです、あのね。」
ノーマンは、ぐらぐらとショーンの肩を揺すりました。
「しょぉん、あのね―――はろうしん、ってなんですか」