6.Scud

「スカッド、」
分厚い壁越しにでも重低音の響きが伝わってくる、残響。
深紅の布が張り詰められた「小部屋」は食事用に特別に作られたモノだった。柔らかな首筋に埋めていた顔を上げる。その口元は赤く濡れ光っていた。
「なんだよ」
唇に残った一滴一滴さえ、舐め取っていく。そうする合間にも絶えず感じて続けている微かな飢えは、知らず身体に馴染んでいた。
「おまえは随分と憎まれているようだ」
扉が開かれた所為で、クラブの揺れるほどの音響が一気に入り込み、うるせぇ、と呟く。そして手で扉を閉めるように促し。唇に残っていた最後の一滴を舌先に掬い取り、スカッドが侵入者に目を合わせた。
「勘違いすンなよ?マスタァは勝手に死んだンだ、おれは手出ししてねェよ」

新参者のナイトウォーカーは当初、自身のマスタァ殺しだと噂され、「古い血」をもつ眷属連中から消滅させられかけた。寧ろ、消えてしまえればよかったんだ、とスカッドは毒づいた。
自分を襲った連中が「生まれながらの吸血鬼」「もっとも古い血」をもつ怪物だったからといって、スカッドには何の意味も持たなかった、けれども。
いつの間にか、そのいわば「親殺し」の嫌疑が晴れてしまえば、新参者としては破格の待遇、とやらをスカッドは許容されているらしかった。血筋だ、階級だ、と。こっちの連中はとにかく「うるセェ」、それがただの感想だった。
ただ、新しい「都市」に流れるたびに、「親殺し」の真偽を未だに疑う「年寄り」がいるらしかった。

転化してすぐに、逃げるようにロスを離れ、東に行き。国内を彷徨い、古い連中に連れられて海を渡り。まさしく彼のその名前の通りに、風にそのまま運ばれるように都市の間を放浪していた。大抵は一人で。その間にも絶えず、「ハンタァ」の噂を聞かされていた。
『スカッド、おまえ一体何をしたんだよ?猟犬が追ってるぜ』
『ハンタァが獲物を探しているってさ、おまえらしいぜ』

「そう突っかかるなって、新入り」
に、と薄い唇を引き上げて「古い血」の持ち主がわらった。
だらりと寝椅子に身体を預けたままのオンナを床に落とし、ソレが静かに隣に座るのをスカッドの目が倦んだように追った。
「小汚いナリだな、スカッド」
「コレがいまのスタイルだよ、お貴族様」
くく、っとソレがわらった。
「食事のすぐ後か、まだ温かいな」
くん、とわざとハナを馴らすようにし、ソレが自分の首元に顔を寄せてくるのにスカッドがため息を吐いた。
「あんたたち“領主”の貪欲さには呆れ果てるぜ、」
「初夜権の行使のようなモノさ。ここはオレの領地、おまえはそこへやってきた、ならばありがたく所有権はいただくさ、おまえがここに在る間はな」
「……忙しいな、そりゃ。ゴマンとおれみたいな新参は徘徊してンだろうに――っ」
ぬる、と舌先で首筋を辿られ語尾が掠れかけるのを押さえれば。
肌を唇で味わいながら、ソレがまた小さくわらった。
「いや、おまえだから、古い権利をオレたちは振り翳すのさ。ハンタァの獲物だ、さぞ美味いだろうとな」
びくり、と微かに肩が揺らいだのにソレがまたわらった。
「……スカッド、知らなかったのか、それはそれは――――」
気の毒なことだ、と。
ソレが囁くように告げる。
「オマエが、良い器だということもあるがな」

びり、と生地の裂かれる音がし。
直に冷たい掌を感じ、スカッドが目を閉ざした。
ジェイ、と心のうちで呟く。

おれはなんで死んじまおうとしないんだろう、と。



7.Jake

一人で知らない街を、嗅覚ともいえるべき本能だけを頼りに歩くことにはもう慣れた。
育ったロスのエリアを離れ、大陸の端々まで顔を覗かせ。海を越え、別の大陸の街にも足を踏み入れた。
それがどこだろうとジェイクには一緒だった。エサとなるヒトが居て、狩るモノが在るならば―――――スカッドに繋がる存在が居るようであれば。

教会関係者であるという“免罪符”をホワイト枢機卿は手に入れ、それをジェイクに渡していたからジェイク自身が彷徨うだけでなく、武器の持ち運びも楽だった。
長年疎まれ続けながら育てられた教会に感謝できるものがあればそれくらいだ、とジェイクは思いながら武器の収めてあるケースをホテルのベッドの上に置いて蓋を開けた。
手に馴染んだリヴォルヴァに、封をしてあった祝福された銀の銃弾を装填していき。スピードローダーの支度も整えておく。
ついで自分で削った十字架の杭を取り出し、その隣に収めておいた銀のナイフも取り出した。柄の端に付けられたチャームが、きら、と光りを弾いた―――――銀細工の華美に装飾された剣。
ジェイクは指先でそのチャームをなぞった。

それは、スカッドが“行方不明”になったあの日、約束をしていた場所の近くに落ちていたチョーカーのペンダントヘッドだった。引きちぎられ、もう乾いてしまった血に塗れていた鎖に、辛うじて引っかかっていたモノ。
そして、ジェイクはスカッドに何があったかを確信した。
見覚えのあったソレは確かにあの怖いもの知らずの青年が首から下げていたもので、クセだったのかよく指先でなぞっていたものだった。そしてソレが落ちていた周囲には、血が散らされた跡が残っていた。
それが物語ることはたった一つ。スカッドは、ジェイクに懐いていたがために―――――ジェイクを狙っていたモノたちに、戯れに狙われてしまったのだ。

激しい憤怒に突き上げられるがままに、ジェイクはその日からスカッドを“殺した”モノたちを追い始めた。
大量の血がその場で乾いていたから、てっきり本当にスカッドは殺されてしまったのだと思った。
けれど。
『オマエのイイコはねぇ、ハンタァ、アタシの子に生まれ変らせてやったのよ。感謝なさい、ハーフブリード。オマエがこちらへと渡る理由を作ってやったのだから』
そう女吸血鬼は言って笑った。陰のように付き添っていたもう一匹はとっくに灰と化され、自らも腹部と胸に銀の銃弾を受けてでさえ、高慢なトーンで笑い、ジェイクに誇るようにその双眸を煌かせて。

『なぜ』
訊いたジェイクに、ヴァンパイアはくくっと笑って顔を歪めた。
『オマエが渡らないからサ、デーモン・チャイルド。オマエが自身を否定し、同胞に仇を為すからだ。ああ、あのコの血は美味しかったねえ、熱くって、甘みがあって……ああ、ほら、いま流れ出ているこの血、これはあのコのものだよ、ハンタァ。オマエも味わってみるがいい。オマエに恋をしたコドモの血だ、憐れなヒトのコのな……』

ぺろりと指先についた血を舌で舐め取ったモノの脳髄を、ジェイクは無言で打ち抜いた。
絶叫しのた打ち回る吸血鬼に跨り、心臓を手持ちの杭で貫いて、ソレは一瞬で灰となって崩れていった。

前日の夜遅くにヴァティカン総本部から送り込まれてきたヴァンパイア・ハンタァが告げた通りに残された灰を聖水で浸し。残された杭と弾丸は回収した。そうしてジェイクは始めて、スカッドを自分のせいで失くしてしまったことに気付いた。
ジェイクのストーカーとなっていた青年は、本物のストーカーになってしまった。日差しの中で柔らかく笑っていたまだ幼さが頬に残っていたコドモは、夜歩くモノへと変えられてしまったのだ――――自分という存在に、懐いていたがために。

ヴァンパイアも狩るヴァティカン公認のエクソシストで、短い間だけのことではあったがジェイクの師匠となった男は、その日足を引き摺るようにして教会に戻ってきたジェイクに静かな声で『全員殺したか』と訊いた。
『全員とは?』
『マスタァとすべてのチャイルドどもだ』
『―――――オレには見分ける方法がわかんねぇよ。一応オンナの形をしたのを二匹灰にした』

柔らかなグレイの双眸をした黒髪のエクソシストは、ジェイクの応えになにを見出したのか小さく頷き、トン、と吸っていた煙草の灰を灰皿に落としてから言った。
『マスタァに教育されたチャイルドは、やがてマスタァの元を去るように告げられるのが常だが、そうなるまでには何十年とかかる』
『だから?』
『転化させられたばかりのチャイルドが教育される前にマスタァを失くせば、そのチャイルドはオーファンと呼ばれるようになる。ヴァンパイアどもは奇妙に階級主義でな、古い血程クラスが高く、能力が上がり、力を持つようになる……吸血鬼同士どもで殺しあうことも度々あってな、そういったオーファンがエサ代わりに階級の高い連中に血を吸い尽くされることもある。戯れに嬲り殺されることもな』
目を細めたジェイクに、エクソシストは肩を竦めた。
『ダークサイドに堕ちたとはいえ、ヴァンパイア・チャイルドは元といえば人の子であり、引いては我らが神の子。憐れな運命を辿るくらいならば、いっそ殺してしまったほうが良いこともある、ということだ。いずれは我々に消されるのだから』
淡々とジェイクに告げた男は、少しばかり目を細めてジェイクに向き直った。
『オマエが堕ちたのならば、私が殺してやろう。私が堕ちたならば、オマエが殺しにきなさい。そして在るべき場所に魂を還すがいい――――ジェイコブ、それが慈悲というものだ』


効率よくヴァンパイアを殺す方法や、本業であるデーモンを仕留める方法を、灰色の目の男はジェイクに叩き込んでから帰っていった。スカッドのミニチュア・ソードを下げたナイフは、男がジェイクに授けていったものだ。
『聖遺物を溶かして作り直したものだ。ただ祝福してあるものよりは効力がある。これ自体が呪物のようなものだからな』
もちろん祝福もされているがな、と笑った男は、真っ直ぐにジェイクの目を見詰めて言った。
『為すべきことを為しなさい、ジェイク。オマエの魂が導くままに』

研ぎ澄まされたナイフのエッジを指先でなぞり、ジェイクは回想から意識を刃に刻み込まれた聖句に向けた。
細かな文字のラテン語で刻まれた、大天使ミカエルへの祈り。
『聖ミカエル、天の守護者よ、神に与えられし汝の力により、魂の破滅を招くためにこの世を彷徨うサタンと総ての悪霊を地獄へと送り返さん』
刻まれたその言葉通りに、ジェイクはこれで沢山のヴァンパイアたちとデーモンたちを屠ってきた。
そして、何度となくスカッドのことを問いただし、最後にソレらが“会った”という場所に赴いては、いつも捕まえられずに居た。
スカッドはジェイクが追っているのを知っているのか知らないのか、いつでもジェイクが彼に到達する前に、既に別の街へと移動してしまっていた。

スカッドを己が神の御許へと送り還す決意に変わりはなくても、その首を裂いて心臓に杭を打つことに自分が戸惑っていることを、ジェイクは自覚していた。
再会してしまえば、自分は必ずやそうしなければいけないことを解っているだけに、追いついてしまうことを多少躊躇っていた。
ヴァンパイアたちが“寵愛されし者”と密かに呼んでいるらしいスカッドを、自分は本当は――――――。

辿り着いたばかりのこの街で、今度こそ追いつけるだろうか。
“変わって”しまったコは他と同じように、自分を恐れ、疎んじるだろうか。他のヒトと、モノと同じように……?



8.Scud

「苦痛の家」と名付けられたクラブの小部屋で食事中に現われた「古い血」の持ち主、“エルダー”と呼ばれる最上位に属するソレはイシュトバーンと名乗った。
『おまえのマスタァ、ミナウはオレの古い友人だった。ミナウの子供はサディラただひとりかと思ったものを。……いまは亡き古からの血脈を引き継いだのがオマエなら、オレの館で過ごせば良い。この街に在る間はオマエの生命は保証しよう、ミナウの遺児(オーファン)よ』
後ろ盾の無いオーファンが長くは生きられない、その定石からは逸脱させれられてはいても、“寄る辺無い”存在であることに変わらない“ミナウのオーファン”は。新しい都市に行き着くたびにその代償を払わされることにも感情が揺れることは少なくなっていた。
髪をやんわりと掴まれ、顔を引き上げさせられながらその言葉を聞き。スカッドが視線を上げれば、さらりとイシュトバーンの肩から銀の髪が流れ落ちていた。脆弱な美しさとは無縁の存在に、スカッドが小さく頷いた。
そして、館に滞在する間にも、蜘蛛の糸のように張り巡らされた共通意識の網から、幾つもの声のなかからハンタァに関することだけを拾い上げてはただ一人の名を唇に上らせていた。

『ブダペストにハンタァが入ったらしい』
『イシュの領地だな』
『ハンタァは獲物をまだ見つけられないのか……?』
そして囁き声ほどの意識の集合体は、決まってスカッドの名を呼んでいた。
『寵愛されし者、おまえはどこへいる?』
囁き声が続ける。
『ハンタァならば………にいるぞ』

転化して以来、幾年も囁かれ続けていた言葉に、スカッドが唇を噛み締めた。大陸へ渡ってさえも、ハンタァが自分を追うというのならば―――もう、逃げることは辞めてしまおうか、とさえ思う。けれども何も決めることは出来ずに、徒に日々が過ぎていたのだ、いままでは。けれど、今回は。滞在が重なった。
ジェイ、とスカッドが呟いた。
「あんた、なんでおれを追う……?」
けれどその理由よりもなによりも、一目だけでもまたその姿を目にしたい、と一度焦がれる想いに気がついてしまえば、その感情を抑えることなど不可能に近かった。

真夜中にイシュトバーンの館を抜け出すときも、その内には誰の気配も感じることはできなかった。館の主は不在であるのか、あるいはなにかの気紛れを起こして地下にでも潜んでいるのか、スカッドはさほど気にも留めずに、旧市街にある古いホテルへと影の中を進んでいた。
意識を研ぎ澄まさせ、目指した建物の窓下にひっそりと佇む。その姿は真夜中の散歩者のようにも、もし人の目がスカッドを捕えることができたならば、そう映ったかもしれないものだった。
けれども石畳の細い側道から、上空の一点を見詰めスカッドは動けずにいた。

「……ジェイ、」
囁くのは、もう幾度唇に上らせたかすらわからない名前だった。
8階の窓へ向かって、けれど一瞬後にはその姿は跳躍し後にはなにも石畳には残っていなかった。

窓から灯りの燈されたままの室内を静かに窺がえば、部屋が無人になってからしばらくの時間が過ぎていたことが感じ取られた。けれども、確かに数時間前まではそこにジェイが居た気配はまだ濃密に残っており、その残像さえ瞳に写し取ることができるかと思え。
思わず窓に掌を押し付けていた、そして外から窓を開け、室内に音もなく滑り込み。
部屋に色濃く残る主の気配にスカッドが唇を噛んだ。僅かな荷物はクロゼットの中にしまわれ、そのなかには予備の銀弾もあるのだろう、ちりちりと神経を焼く熱がその方向から感じられ。
そして、使われたままにリネンの乱れたベッドが、なによりもジェイクの存在を色濃く語っていた。
不意に、耳に残るその声までもがあまりにくっきりと思い出される。初めて、自分の存在を認め、苦笑し、そして―――

「……っ、」
ほろ、とスカッドの瞳から涙が零れていた。ハンタァの使っていたベッドの端に力なく座り込み。
「ジェイ、も……ぅ、追いかけてくんなよぉ、」
ほと、と涙が膝の上で握り締められた拳に落ちていく。
だって、おれはもう戻れない、と。
「あんたに狩り出されて、殺させるくらいなら……」
押さえ込んでいた感情が一気に溢れ、揺れ。
スカッドがリネンを握り締めて掴み、そのまま立ち上がっていた。引き上げられ乱れ、リネンが音を立てて床に落ち。
ふら、とスカッドが窓辺へ近づいた。
最後に一瞥、室内を見遣り。

「―――ジェイ、」
そう小さな呟きが残される頃には、その姿は掻き消えていた。




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