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夕暮れ時のマンハッタンの空は、黄金に輝いていた。
日本車のセダンのバックシートで、サンジの髪がその色を移しこんでいた。
眩い金に、甘い飴色。
膝の上に頭を引き寄せ寝かせ、目の上を掌で覆ってやる。
車は混んだレーンの中をゆっくりと進んでいく。
ふう、と深い息が聞こえた。
意識が戻ったか。
次いで、
「……ん、」
と唸り声。
手を退かしてやる。
「気分は、」
「首の…後ろが、痛い」
「吐き気は?」
「頭痛がする……つか、どこ向かって…?」
「シャンクスの家の一軒」
むく、と起き上がりながら、サンジが首の後ろを擦っていた。
「な、んで?」
「あの場所にはいられない」
戸惑う青を見詰める。
「……ア、イリンちゃんは?」
「華僑の連中に任せた。シャンクスの知り合いだ。だな、ベンさん」
「ああ。オレの昔馴染みでもある男だ。信用できない相手に任せはしないよ」
「…っ、」
サンジが頭を押さえた。
「いまは考えるな。目を閉じてろ」
髪を撫でてやる。
「カノジョは大丈夫…?」
「ああ。傷一つない。平気だ」
「そう…よかった、」
深く目を閉じたサンジの頭を引き寄せる。
「少し寝てろ、」
「…ん…」
ふう、と目を閉じ、サンジがまた息を吐いていた。
ベックマンとミラー越しに目が合った。
ああ、そうか。この先のことを説明してやらないと、不安がるか。
「着替えたら、子守にいく」
「…は?子守?」
「守られるのはオレらかもしれないけどな」
そう言えば、ベックマンが低く笑った。
「オマエ、ベンさんにリヴェッド・ホワイトという人の連絡先を貰っていただろう?彼女が結婚するらしい。弟さんと二人暮しだそうで、色々と忙しい間、誰か家に居て欲しいそうだ」
「…そう、なんだ…」
サンジが、くう、と笑みを浮かべた。どこか戸惑った顔。アタリマエか、いきなりそんな日常を突きつけられたら。
それでも静かに、言葉を呟いていた。
「…幸せになるのは、いいね」
どんな思いでその言葉を口にしたのかは、ゾロには解りかねたが。
「そうだな」
そう答えて頷いてやる。
サンジが僅かに安堵したかのように、体重を凭せ掛けてきた。
目を瞑り、静かに内面と向き合うかのように表情を落としていく。
それきり車内に沈黙が満ちる。
安定した不安定。
乖離していた"日常"に戻される―――まるきり違う"温度"だ、店の暗闇と他人に溢れたマンハッタンとは。
水槽で飼われていた熱帯魚が、新しい水槽に入れられたらこんな気分になるのだろうか。
サンジの目には、この世界はどう映っているのだろう。
"幸せ"を、オマエは手に入れられるんだぞ……?
「こんにちは、ミスタ・ベックマン」
「こんにちは、フェルーシア。ミズ・リヴェッドは?」
「姉はまだ帰っていないのです。どうぞお上がりください」
黒髪の利発そうな少年が見上げてくる。灰色の瞳に僅かに金の虹彩が混じっている、不思議な瞳。
ベックマンはドア口で丁寧にそれを辞退し、帰っていった。事後処理のためだろう。
遠のくベックマンの車を3人で見送り、ゾロとサンジは招かれて家の中に入った。
「世話になる」
手を差し出すと、握り返された。まだ小さな手。
「こんにちは、ミスタ。ボクはフェルーシア・ホワイトです」
「ゾロだ。こっちはサンジ」
紹介をすると、にこりとサンジが笑って少し背を屈めた。
真っ直ぐに目を見詰める位置になる。
「ハイ、フェルーシアくん?お世話になります」
黒い髪がさらりと横に流れた。
「サンジさん、車酔いなさいましたか?」
サンジが苦笑する。
「…顔色悪いかな、」
「ハイ。ひとまずこちらへどうぞ。ソファかベッドで横になってください」
「じゃあ、ソファ。いいかな?」
「どうぞ。ひざ掛けも出しますから、かけてくださいね。頭痛は?」
サンジがてきぱきと動く男の子に連れられて、リヴィングのソファに誘導されていった。
落ち着いたところで、フェルーシアは薬箱から頭痛薬を出し、コップ1杯の水と一緒に渡していた。
気が利くコドモのようだ。出来すぎな感も否めない。
サンジが目を瞑ったところで、フェルーシアがやってきた。
こちらへどうぞ、とキッチンへと案内される。
ウッドの家具で纏められた、落ち着いた空間。カントリィハウスのような、どこか懐かしいような雰囲気。
しばらく接することのなかったアットホームな空気に、僅かにゾロは痛みを感じる。
絶えず湧き上がる"罪悪感"が齎す軋み。
「お茶でも淹れましょうか?」
コドモらしくまだ甲高い声で訊かれて、ゾロは小さく笑う。
「あんまり気遣うな。ゲストとはいえ、いきなりやってきた他人だろう?」
「日頃お世話になっているミスタ・ベックマンが直々に紹介してくださった方ですから。信用してます」
「これは恐れ入ったな」
「姉は知らない方がいいと言いますけれど、やっぱりちゃんと知っておかないと、何かが起きたときに対処に困るでしょう?」
真っ直ぐに見上げてくる聡明さを宿した灰色の目に笑いかける。
「オレは姉さんに同意する。知らないでいいことも、世の中には沢山ある」
「―――オレはまだコドモだから。そうでもしないと、姉を守りきれない」
はた、と瞬いたコドモの髪を撫でる。
「今度からは協力者ができるんだろう?」
その言葉に、フェルーシアはふわりと笑みを浮かべ。こくり、と頷いた。
"姉"の結婚には好意的らしい。
「もう直ぐ新婚になるっていうのに、悪いな。部外者が二人で厄介になるなんて」
ゾロが言えば、湯を沸かし始めたフェルーシアが振り返って笑った。
「いえ。1週間もすれば式ですし。その後は新婚旅行に行ってしまいますから」
「帰ってきたらダンナさんもこっちに住むのか?」
紅茶のポットとソーサを支度しながら、フェルーシアが言う。
「ああ、この家は売りに出すんですよ。新居の方には帰ってきてから越すんです」
「ふぅん?」
「その支度をするのに残るって姉たちには言ってたんですけどね、一緒に行かないなら行かないって二人が言ってくれたんですよ」
「―――いい"兄貴"だな」
「ハイ。さすが姉が選んだ方です」
ふわりとフェルーシアが笑って、沸き出した薬缶の火を止める。
「やろうか?」
「いえ、慣れてますからお構いなく」
「いい手際だな」
「家事をするのは、好きなんです」
こぽこぽ、と優しい音を立てて、葉の入ったポットに湯が注がれていく。
「ゾロさん、ミルクは?」
「ゾロでいい。いただこうか。冷蔵庫の中か?」
「ハイ。ゾロ…も、家事はお好きですか?」
冷蔵庫を開けてカートンを出しながら、ゾロは小さく笑った。
「そういう風に考えたことはないな。ただするものだと考えていた」
フェルーシアが、どうやらクッキーかなにかを用意しているらしい。パッケージが破られる音がしていた。
そしてコドモの声が届く。
「誰かのためにするって考えると、遣り甲斐がありますよ」
「……言うな、オマエ」
ゾロが小さく笑ってカートンをテーブルに置いた。
フェルーシアが、はにかむように笑った。
「喜んでくださった時に見せてくださる笑顔が好きなんです」
紅茶を飲みながら、フェルーシアが差し出してくれた新聞に目を通した。
その間に、コドモはゾロの向かいで"宿題"をこなしていた。大人びた口調から判断すれば、必要はなさそうに思える"コドモの義務"。
さらさらと何の問題も無くこなしていく様に、気を引き締める。
聡明なコドモは鼻が利く。無用な心配をかけかねない。そしてそれはゾロが最も望まないこと。
ゾロは紙面に散った文字を追いながら、いきなり"日常"に滑り込んだことに奇妙な居場所の無さを噛み殺す。
赤い髪をキリリとアップに纏めた家主が帰ってきた時にもまたそれを感じた。
結婚間近の幸せに溢れた笑顔。ウェディング・ドレスの、最終フィッティングをしてきたと言っていた。
血に塗れて泣いていた黒髪のチャイニーズ・ガールから、ここはなんて遠い場所に在るのだろう。
まだシカゴに居た頃。仕事を終えて一人で日常に戻った時は、ワンクッションを置いてソレを無意識にコントロールしていた。
硝煙臭い服を安いモーテルの一室で着替え。コインランドリでそれらを洗い、車をスタンドでクリーニングさせている間に、珈琲を買った。
"儀式"、ゆっくりと日常に戻るための。
けれど今は―――。
落差に慣れている自分でさえコレだ。サンジにとっては、どんなものだろう。
ゾロがフェルーシアと一緒に支度した夕食を挟んで家主のリヴェッドとフェルーシア相手ににこやかに会話を交わしながら、家主の帰宅と共に起き出したサンジが、時折迷子のコドモのように視線を浮つかせていた。
戸惑った青い双眸。
まだ僅かに暗い翳が落ちていた。生来の懐っこさが潜められたまま。
リヴェッドが何かを言いたげに視線を寄越してきた。
静かに濃いエメラルド・グリーンの瞳を見返せば、僅かに目を細めてから伏せていた。
ベックマンの紹介という意味を汲み取ったのだろう。
そして…ああ。アンタも末端にいるのか、理不尽なあの世界の。
けれど。
「ミスタ・ベックマンがお父さんの代わりに横に立ってくださるんだそうです」
それに気付いた様子の無いフェリーシアの言葉に、サンジが大きく目を見開いていた。
ゾロも一息置く。
へえ?あの人が、なぁ?
サンジが首を僅かに傾けた。柔らかな笑みを夏の空のような青の双眸に浮かばせて。
「フェルーシアくんは?」
「ボクは指輪持ちです」
ふわふわと笑うフェルーシアの頭を、細長くてエレガントなリヴェッドの指が撫でていく。
そして柔らかく低い声が楽しげに言った。
「キャロル・ジーンがブライドメイドをやってくれるんだよな」
「"パパと結婚式に出れて嬉しい"ってボクに会う度に言うんだ」
目を細めたリヴェッドに、フェルーシアがクスクスと笑った。
「"お姉さまのお役に立てて嬉しい"ってね」
―――自分より十ほどしか違わないあの黒髪のオトコは。
多分、強靭な意志と精神の持ち主なのだろう。
こんな風に日常に違和感を覚えることを―――抑え込んでしまえるくらいに。
あの男の内側に潜む闇の深さを、ゾロは暫し思う。
ただ優秀なだけでは、赤髪の腹心は勤まらない―――シャンクスと結構な期間、接触してきたゾロだから解ること。目上の人材として、はたまた雇用主として。
流されない強靭さを持ちえているからこそ―――きっとベックマンはシャンクスの懐刀と成り得ているのだろう。ただ、いまの境地に達するまでに、どんなことを経てきたのか―――あるいは、覚悟の決め方が違うのか。
ゾロが思考を泳がしている間にも、優しい日常を溶かし込んだ会話は続く。
「ベンさんっていいお父さんなんだ?」
サンジが笑って訊く。フェルーシアがおかしそうにサンジに答えていた。
「キャロル・ジーンは"ダディは世界にたった一人よ"って言います」
「上司としては厳しいらしいがな。私たちにはとてもやさしくしてくださる」
リヴェッドがふわりと笑う。
「リヴェッドちゃんの上司は…?」
「キミたちと一緒だ。"赤髪のシャンクス"」
くすくす、とリヴェッドが笑う。
「でもベンさんが舅役なんですよね?」
「あの人を知っているならわかるだろう?大方何を言いそうか」
リヴェッドが更に笑った。
「あー…オレが結婚したくなっちゃうよ、とか?」
サンジもくすくすと笑った。
「いや、実際には。花婿に受け渡し拒否したくなるから、だったんだけどな?面白い冗談を言う」
「結構本気だったりしているのかも」
そう言って笑ったサンジに、リヴェッドはふわりと笑った。
「それもオモシロイ冗談だな」
そうやって暫く雑談を交わしてから、コドモがベッドに入れられた。
まだ具合が悪そうだったサンジも、強く勧められ。ゲストベッドルームへ眠りに行った。
リヴィングに残され。ゾロは静かに主と向き直る。
リヴェッドが静かにグラスを渡してきた。シングルモルト・ウィスキィ、オン・ザ・ロックス。
ゾロは軽くグラスを上げて、ゆっくりと芳醇な香りを放つ液体を口に含んだ。
「―――一応トラブルがあったことは聞いている」
強い声に、ゾロは方眉を引き上げる。
「瑣末まで知らないほうがいいとも。だから訊きはしない、オマエたちがここに来た経緯は」
「―――そりゃどうも」
「ただ―――サンジくんが。もしドクタを必要としているのであれば、ちゃんと診せることを強く勧める。あれはよくないモノを見たのだろう?」
ゾロは僅かに眼を細め、翠の双眸を見返した。
リヴェッドが軽く手を振った。
「どうするかはオマエたちが決めることだ、ワタシがどうこう口出す問題じゃないな」
「―――いや、ここはアンタの家だし。見て取れるくらいであれば口出しする権利はあると思うぜ」
「いや、もう言いはしない。オマエは解っている眼をしている。それだけで十分だ」
「迷惑なら言ってくれ。とっとと出て行くぜ?」
ゾロの言葉にリヴェッドが低く笑った。
「今のところ助かっている。ルシーアが嬉しそうにしていた、それだけでここに居てもらう理由としては十分だ」
「―――なあ、アンタの恋人は」
嫌がりはしないか、と訊けば。
リヴェッドは肩を揺らして、また静かに笑った。
「お互いを信頼しているし、アレはシャンクスを疑いはしない」
―――"シャンクス"が切り札か。
クエナイオトナのしらっとした笑みが脳裏に浮かぶ。にこやかな風情の下にいつも透けてみえる切れ味の良さも。
「―――夜中、サンジくんが魘されるようであれば、対処してやれよ」
そう言って、あっさりとグラス1杯のウィスキィを飲み干したリヴェッドが立ち上がった。
自室に篭るらしい。
「ゲストバスルームの洗面台、鏡の横が開くようになっていて。中に頭痛薬が入っている。必要なら飲ませてやれ。安定剤か睡眠誘導剤が欲しければ、ここの棚にある酒瓶の1本でも持っていけ。他になにかあれば、寝付いた後でもドアをノックしてくれて構わない。ではおやすみ」
すらすらと言い残し、リヴィングを後にするリヴェッドに。ゾロは小さくグラスの中身を揺らして応えた。
「おやすみ、ミス・リヴェッド」
アンタは、いい夢を見続けてくれよ、と言葉にはせずに続けた。
ひら、と優雅に手だけが返事をし。ぱた、と静かにドアが閉められた。
グラスの中身を飲み干し。好意で置いていってくれたらしいウィスキィのボトルを傾けてもう1杯注ぎながら、ゾロはそうっとソファに沈み込んだ。
―――どうやら。もう一波乱、ありそうな気配、だ。
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