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 吉原夢想
 
 
 
 
 * 壱 *
 
 1848年
 江戸市内:ベックマン邸
 
 す、と障子の後ろに立った影に、ベックマンは薄く眼を開いた。
 気配は馴染んだモノ、隠密頭であるベックマンに仕える忍びの者のそれだ。
 まだ月明かりが煌煌と庭を照らしているのに、障子に映りこんだ影がより濃い闇を映していた。
 「何だ」
 ベックマンが低く問えば、妙なモノを拾いました、と囁きのような声が聴こえてきた。
 「夕刻、漁師が騒ぎ立てていた銀色の髪の妖にございます」
 「流れ着いた死体だったか?」
 「いえ。息はございます――――如何処分いたしましょう」
 「漁師どもの首尾は」
 寝床から起き上がり、衣服を直し始めた隠密頭に、忍びは障子越しとはいえ、静かに頭を垂れた。
 「香袋を用いまして、記憶のほうを多少弄りました」
 「最初から妖だと思っているのなら、その程度で良い。拾い物はどうした」
 「何分目立つ容姿のため、街道沿いの小屋に預けてございます」
 忍びの隠れ家の総てを把握している隠密頭は、ふむ、と低く唸って、刀を腰に差した。
 「薬屋の所か」
 「蘭学を齧りましてございますから、意思疎通ができぬものかと」
 「できたのか?」
 「いえ。音韻に近いものはあるようでございますが」
 ひとつ深い息を吐いて、ベックマンはからりと障子を開けた。
 「白鷲、先に小熊の下へ。私も直ぐに行く」
 「御意」
 
 深く頭を垂れてから、見回りに気付かせることなく庭の塀を越えていった部下を一瞬眼で追ってから、軽く手を打ち鳴らして家の人間を起こした。
 「馬の支度を。出かける」
 深い朗々とした声に気付いた下男が、直ぐにお支度いたします、と慌てて厩にかけていった音を聴きながら、ベックマンはゆっくりと廊下を歩き出した。
 「南蛮船の数は減るどころか増えてばかりだな……鎖国では最早立ち行かぬ…か?」
 
 
 
 * 弐 *
 
 吉原:『朱華楼』楼主の部屋
 
 「ベックの旦那。ウチが欲しいのは旦那衆を悦ばすオンナノコでさあ?いくらこのキンキラキンが見栄えよくてもだね、付いてるものが付いてちゃあ商売にならねぇのヨ。そこんとこ、ご理解頂けてる?しかも年いっちゃってるじゃないのヨ」
 早朝、用心棒の目を掻い潜って部屋までやってきた忍びが耳打ちし。異人の子供を引き受けて欲しい、と頼まれた朱華楼の主シャンクスは、面倒な客が片眉を軽く引き上げたのに、低く溜め息を吐いた。
 隣の部屋には、ベックマンの籠に乗って一緒にやってきた異人の子供が布団に寝かされている。
 「そりゃあ旦那とは懇意にしてるし。器量ヨシなオンナノコたちを融通して貰ってるし。ツケもない良い客だし、長い付き合いだし、こっちも商売だしネ?旦那のところの薬屋にはお世話になってるしサ、断れない仕事だってのは解ってるけどさァ?」
 「ならば引き受けてくれ」
 「あーのねえ、ウチで引き受けるからにはアレよ?このコ、身を売ることになるのヨ?こんな器量ヨシを下男とか下女とかなんとかで置いておくわけにはいかないのヨ?」
 「知識は与えろ。言葉も喋れるように仕込め。ただし客は取らせるな。引き込み禿だと言えばいい。朱駒太夫に預けろ、サンジと一緒にな。サンジほどに幼ければもう少し隠しておけるのだが致し方がない」
 「――――暁には太夫人形を置けって?」
 「遠目に崇められれば幸運だ、くらいのな。幽霊でも妖でもいい、でっちあげて一部屋開けろ」
 
 無理難題を平気で告げる口調に、シャンクスは溜め息を吐いた。
 「市井にこんなキラッキラを置いておくわけにもいかないのは解る。旦那の実家だって、こんな目立つようなのは置いておけない。お屋敷は更に人の出入りが怪しいから、こんなのを匿っといたらお仕事取り上げられるどころか逆賊の刑で首がチョン、だわナ」
 そうからりと笑って告げた楼主に、ベックマンはにぃ、と口端を引き上げた。
 「よく解っているじゃないか」
 「まぁ廓は華やかな座敷牢と一緒だからねェ。旦那でもやっぱり、こんなきらっきらを蔵にでも押し込めておくのは気が引けるか?」
 「セトという名だ。あれはどうやら英吉利の者らしい」
 「―――――阿蘭陀でも葡萄牙でもなく?」
 「ああ」
 「―――――そいつぁまた」
 「南京条約が(天保)13年(1842年)に締結されたのはご存知か?清は香港島を英吉利に差し出したという。粗方そこに向かっていた商船に乗り合わせていた子供だろう」
 
 胡坐をかいたまま気楽に湯のみから茶を啜った相手に、シャンクスは派手な赤茶の乱れ髪をカシカシと掻いた。
 「………旦那ァ」
 「なんだ」
 「ナンデモナイコトのようにそんな重要な機密をオレに洩らさないで貰いたいってェの」
 「取引だろう?」
 に、と笑ったベックマンに、シャンクスはぐるりと目を回した。
 「まぁな。それを旦那に持ちかけたのはオレだ。旦那が誰だか知って、ナ」
 「その者が回復して、無事に意思疎通が出来るようになったところで、英吉利の言葉を習いに通わせて貰うよ」
 「んー、せいぜいお綺麗な人形にしたてあげておくサ――――サンジ!」
 廊下から、あぃただいまぁ、と長閑な返事がして。11歳くらいの小さな長い流し髪の子供が覗いた。
 
 「ベックの旦那さま、いらっしゃいまし」
 ぺこりと頭を下げたサンジに、ベックマンも小さく会釈を返す。
 「元気そうだな、サンジ。こちらでの暮らしは?」
 「楽で困ってしまいぃす。綺麗な姉様方に囲まれてサンジは幸せでありんす」
 「オマエはここが好きか、サンジ」
 「あい」
 「ではオマエが新しい禿を助けておやり。朱駒の年明きまであと4年。それまでオマエを禿のまま置いてやろうと思っていたが、もう少し伸びるやもしれん」
 「あい解りんした」
 「近くナミとノジコを新しい禿として連れてこよう」
 ベックマンの言葉に、サンジはぱあっと顔を輝かせた。
 「ナミとノジコ?二人は大きくなりぃしたか?」
 「来年で六歳になる。オマエが朱駒のところに来たのと同じ年だな」
 「里を離れた頃には、二人はまだ言葉も」
 「男衆そっちのけで元気なものだ。オマエのような淑やかさが身に付くといいのだがな」
 「サンジがしっかりと面倒を見ぃす、旦那さまのご心配には及びになりんせんえ」
 「そのことだが、オマエはそろそろありんす言葉を改める訓練を始めておけ」
 「あい――――解りました」
 
 ぺこりと両手をついて頭を下げた子供の髪をさらりと撫でて、ベックマンは楼主に向き直った。部屋を出て行った子供がきちんと障子を閉めるのを横目で見届けてから、静かに湯飲みを引き上げた。
 「時世が動くやもしれん。太平の世はもう保たないと覚悟しておけ」
 「あっちこっちに綻びが出来ているのは知っているヨ。堀に囲まれたこの色の世界の中でもナ」
 「楼主の目が節穴であっては困る――――これでも頼りにしている、ご内所」
 「そう言うんなら旦那ァ、少しはお時間を頂きたいねえ」
 に、と笑ったシャンクスに、ベックマンは静かに口端を引き上げた。
 「秘密の代価としては随分と安く自分を売られるな、毎度のことながら」
 「しょうがないねえ、最初に旦那に惚れちまったオレの負けサ――――安いと思うのなら存分にオレを味わえ、ベック」
 「時間の許す限り味わわせていただこうか、シャンクス」
 
 
 
 
 
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