* 弐拾参 *
江戸市内:勝海舟の屋敷の外
がこん、と木の扉が音を立てて開き。門番に挨拶をした男が、通用門からひょい、と出てきた。
借りたのだろう、堤燈が揺れる明かりがその持ち主の顔を照らしたところで、リカルドが気配を潜めるのを止めて、コーザ、と声を掛けた。
その声にリカルドだと気付いたのだろう、真夜中であって他に誰の気配もしないこともあって、コーザも僅かに声を低めただけで気軽に挨拶を返した。
「開国の派は相変わらず忙しいみたいだな」
並んで歩き出した忍びの男に、コーザは少しだけ笑って返事を返した。リカルドのほうが余程事情に通じているのを知っているので、敢えて追加情報は返さずにおく。
ふ、と言葉が途切れたところで、リカルドが何気なくコーザに告げた。
「ところで朱華楼の花魁、雪花太夫のことだが。今日で寝込んで二日目になる。原因に心当たりはないか?」
す、と表情を僅かに変えたコーザが、次の瞬間には苦笑を刻んだ。
「太夫が……、」
言葉を切った男を、リカルドは面白そうに目を細めた。
「思うだけでは夢にでれねェか、」
そう呟いた友の言葉に、リカルドはくぅっと口端を引き上げた。それに気付くことなく、コーザが続ける。
「おれだよ、病の素は」
そんなことは知っている、馬鹿め、とリカルドは口にはせずに笑った。それを見とめて、コーザも微かに笑う。
太夫の恋煩いの対象であることを自覚をしているのがこの友らしいところだ、とリカルドは思い。コーザが開国派の諸人物と接触を始めてから、時にはオープンに、時には隠れて監視し続けている忍びは静かに目を細めた――――この時代には珍しくもないが、一瞬の刹那を求めてただ生きているようだった好青年が。宛がわれた許婚でも、訪れた先々で世話になった公達や幕臣や思想人の姉妹娘でも、丸山や祗園などに繋がれたどこぞのオンナでも、私娼でもなく。吉原にたった一人隠されたイギリス人の青年に心底惚れて、なにやら生き甲斐にでもしようとしている所が微笑ましかった。太夫が見目麗しく、心根も優しい寂しい人だと、本人に接して知っているから尚のこと。
ふ、とコーザがリカルドを振り返った。
「なにか書くものおまえどうせ持ってるだろう?」
「絵師だからな、紙と筆がなければ勤まらん」
笑ってごそごそと懐から紙と既に乾いた墨の付いた筆を差し出す。
堤燈と引き換えにしてそれらを受け取ったコーザは、一瞬思案した後。僅かな明かりに構うことなく、さらさらと書き出した。
『約束を違えてしまったが、お許しくださいますように。行く日を数えて露に濡れることのなきよう、来る日を数えられよ』
そして着ていた上等な着物の片袖をびりっと破り取って。
「おまえに頼めば容易いよな?」
そう苦笑して、畳んだ手紙と共に差し出した。
「太夫に」
リカルドがきらりと目を煌かせた。
「馬鹿かオマエ」
「わかってやってるンだから言うな」
そうしれっと言って返したコーザに、くっと笑ってリカルドはそれを受け取り、風呂敷に包んで小脇に挟んだ。
それから、堤燈を先にコーザに返し。代わりに戻された紙の余りと筆を懐に仕舞った。
「まあでもオマエを馬鹿にする程の相手が見つかったことは、友としては嬉しい。返事を届けてはやれぬが、それは勘弁しろ」
そう言って、す、と気配を察知して顎で前方を示す。
「ここから五町程先にオマエを待ち伏せしている二人組みが居る。ここ二日ばかりオマエを付け回していた連中だ。行き掛けに斬っていってやろうか」
す、と表情を引き締め、コーザが首を横に振った。
「いや……斬る前に名乗らせるよ、」
ありがとう、と目で言いながらも気配を冴えさせたコーザに。に、とリカルドが笑って、気配をすぅっと押し殺した。
そしてコーザだけに聴こえるような囁き声で告げた。
「惚れた腫れたで鈍るような腕ではないか。ではまたな」
* 弐拾四 *
吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
夜中にそっとサンジに起こされ。しぃ、と合図されてから手渡され、暗い行灯の光で読んだ文を、明るい陽の中で読み返す。
どこで書いたものなのか、紙はいつもの優しい手触りのそれではなく。文字も多少流れてはいても、それは確かにコーザの手によるもので。
なにより一緒に渡された片袖には、知らない香の匂いに交じって、コーザがいつも纏っている匂いが確かに在った。
これでハンカチーフでも作りなさいということなのかな、と。ちらりと英語で考え、漸く僅かに笑う。
「あねさま、起きておりぃすかえ?」
ひょこ、とナミが顔を出し。太夫が起き上がっているのを見て、にっこりと笑った。
「今朝は顔色もよぅござんすねえ!ご内所さまがいらしておりぃすよ」
「あい」
手紙を畳み、袖も一緒に畳んで赤茶色のざんばら髪の楼主が入ってくるのを見遣った。
その姿に、布団の片隅でまだ寝ていた碧が、起き上がってぐうっと伸びをした。その背中を撫でてやる。
「雪花、今日の体調はどうだ?」
にこお、と笑ったシャンクスに、雪花はそっと頭を下げた。
「今朝は眩暈もせず、気分は良いようでありぃす、ご内所さま」
「そうか。なら良いよ――――オマエが笑っていないと、碧まで大人しいからね」
さら、と仔猫の頭を撫でた楼主が、にこ、と笑って雪花の頬を撫でた。
「ああ、熱もないようだね――――おや。その袖はどこから落ちてきたのかな?」
「コーザさまが」
「ああ、文と一緒に届いたか。よかったな」
「あい」
僅かに頬を染めて笑った雪花の様子に、くっくとシャンクスが笑った。
「今日は朝餉を台所の連中に奮発してもらおう。オマエはしっかりと体調を戻して、オマエが好いた旦那さまがいつ来てもいいようにしておきな。風呂も浴びるのだろう?今ならまだ誰も入ってはいないよ。一番風呂に行っておいで」
「あい」
小さな声で返事をした雪花の頭をくしゃくしゃと撫で。それから、シャンクスはむぎゅっと太夫を抱き締めた。
「こぉんなに可愛いオレの太夫だ、若くてオトコマエなお大尽と添えないわけがないさ」
度々抱擁して頭を撫でてくれる楼主の肩をするりと撫で、雪花が微笑んだ。
「ご内所さまにもご心配をしていただきんして、雪花は幸せものでありんす」
「オマエはだぁいじな預かりモノだけどな、それ以上にオレの自慢の太夫だ。このまま客があっちの黒くてでっかい馬鹿ダンナだけだったら、養子にでもしてやろうと思ってたけどナ」
「十の頃にでも授かりぃした?」
「そうそう。天女とでも契ってナ」
くすくすと笑った雪花の髪にそっとキスをして、ぽんぽん、と背中を叩いてやる。
「ほら、行っておいで。帰ってきたら眉と睫を黒くしないとナ?雛菊が、オマエが寝込んだと聞いて憤慨していたゾ。そんな軟弱な性質だとは知りんせんでしたぇ、このまま身罷りぃしたら、コーザの旦那さまはあちきが貰いぃす、ってナ」
「まあ」
ふふ、と雪花が笑みを零し、ぺこりとシャンクスに頭を下げた。
「後で雛菊さんにご挨拶に伺いぃす」
「そうしてやってくれ。あれは激しい娘だが、優しいところもあるからな。オマエが寝込んでいては張り合い甲斐がないのだろう。髪結いが終わったら、返事を出しておやり」
「あい」
シャンクスが、す、と腰を上げて出て行った。
そして、ナミもシャンクスも、こっそりと夜中にサンジが手紙を持ってきたのを不思議に思っていないことに気付き、首を傾げた。
「……夜中に来ぃしたお文でありぃすのにねえ?」
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