Your Love Is King
1,
このクスリは好きだ―――
浅くベッドの端に腰を下ろして思っていた。
音が、ぜんぶ。眼に見えるようになる。
聞こえている音、あたまの中で思い出す声、ぜんぶ。
カタチに見える。
たとえば
リヴィングから流れてくる、イタリア・オペラ。
アリア、ソプラノの。美しい旋律。
恋の多さを自慢げに歌う若い女の、
―――あぁ、これ。
アンジェがいつか聞いていたことがある。
ローズ・クォーツのカケラ。
アリア、
キラキラと零れる。空を転がる。
―――アンジェ、
手、伸ばしたくなる。虚空を転がり落ちる、光るカケラ。
視界を過ぎる、アンジェの声。
イメージ。
尖った、蒼のガラス。
アリアを歌う声はオパールの陰、浮かべて。
ちらちらと色の膜を変えて、流れて
流れて
ハハ、とおれが。わらった、のかな。
クリアなカタチ、朱と空の混ざった
床に零れる。
呼ばれる、オンナの声に。
あまい、柔らかい、かなしいほどに
やわらかい。
トパーズ、シトリン、黄水晶。
結晶。
きらきらと粒が降る―――
おれの上に。
手、伸ばした。シトリン。
すう、と掌の上で消えていく。
パールの粒。
わらった、
代わりに降る、おれの掌に。
おれはこのヒトがすきだ、と。思う。
抱く腕と、受け止めるカラダ。
奇麗な容、ウタを紡ぐ唇。
一回りも年の違うガキ相手に、すう、と
あまい色を刷いて欲情していく。
キレイな牝。
ノドが渇くな、
あんたのなかでいい、ねぇ、飲ませて。
クスリで緩くなったあたま、抱き込まれて。
口付けて。
肩紐、唇で触れて口付けて浮かせてなめらかな線をたどって
落として
あがる声、
溶けたシトリン、きらきらと角の無いまるい珠
舌のうえで転がす
抱き合おう……?
時間の感覚が浮いて、漂う
不意にそれが消える、きりり、と
何かが混ざった。
固くなった、オンナの声。
―――言っている、何かを。おれを、通り越してる……?
これは、鉱石の重さ。あのヒトたちの声だ、ブラッドストーン、ぎらりと光を刷く
ヘマタイト、刻み付ける、鉱石。
チチオヤの部下達
―――やばい、
アタマのなかで何かが呟いた。
"やばい、オトコが帰ってきた"
ボスのガキが、情婦とオタノシミ中に。
―――あぁ、マズイ。そうどこかで思った。
背中、何かが動いた。
でも、
まぁ、いいや。メンドウくさい
おれ、撃たれるのかな―――?ハハ、アンジェ、バイバイ。
また、いつか。何処かで。
すう、と瞼。幕の代わりに落とす。
けれど。
首筋、当てられたのは。鋼の冷たさじゃなかった。
濡れた舌。
ハハ、とわらった。
おれ、―――サイアクだ。
オンナを抱いて、抱かれてるのか。
アハハハ、サイアクだ、
サイアク。―――気持ち良い。
ん、ンん……、
カラダ、反されて。声が漏れてきた。
開けた、眼。
ああ―――黒い髪だ。
この声、
アンジェが何度か部屋に呼んでいたよな―――?
『ステキな声で私を呼ぶのよ。』
アンジェの。
ひり、と冴えた、それでも節のとろりと溶けた声、甦る。
ン―――ぁ、
呼ばれた
なんだ、こいつ
おれの名前知ってンの―――
ぎりぎり、と
脚を掴まれた。内腿、這い上ってくる。
言わない、なにも。
何か言ったなら、こういう連中はヨロコブだけだ。
おれは、あんたたちを悦ばせるつもり、ねえもん。
あんたたちがおれのこと、引き摺り上げろよ―――
わらった。
声が、喉奥に溜まった
舌が、差し込まれた
う、と詰まる
おと、喉奥。
キスなんざ、嫌いだ―――
手指、傍にある柔らかな乳房に伸ばそうとしても、押さえ込まれた
強い腕にジャマされた。
後のことは、よく覚えていない。
世界が輪郭を取り戻し始めるその前に、わざと啼いた。
もっとくれよ、と。
もっとあんたを感じさせてくれ、と。
蕩けた声でクスリを強請った。
オンナの腕を抱いて、柔らかな胸元にカオを埋めていても
低い、喉奥で笑うオトコの声がした、おれの、背骨の上から。
腰を掴まれて、イタイ、と言った。
また、わらい声がした。
舌の上、細い指先が錠剤を飲み込ませて
おれのうちがわ、別の指が擦り上げた。
オンナの腕を掴んで、息を声にしてみた。
正気に戻るのなんか、まっぴら、だ。
カタチを作れないほど溶けて、滴り落ちる音が、零れた。
そこを明け方に抜け出して。
歩くのも、メンドウになって。乾いた細い場所があったから壁に凭れてわらった。
なぁんだ、バカみてえー―――、そんなことを言う声がした、多分、自分の。
あー、ラクだ。そう思っていた。
冷たい石の感触。頬に。
倒れたんだ?でも、きもち、い―――――
でも、夢をみていて。
大きな手が、額を撫で上げるのを。きちり、と影が容をとった。
低い声が降ってきていた。
手、伸ばしても
掌に落ちるそれは、消えなかった。
残っていた。
なんだか嬉しくなってわらった。
容に、腕を伸ばして抱きこんでみた。
消えなかった。
驚いたけど、またわらった。
柔らかな声で何か言っていた。
無視した。
どうせ夢に見ているのなら、消えちまうんだろう
だったら、
歌うように勝手にコトバがあふれて
受け止められたんだな、とわかって
腕に力を入れてみた。
とくん、とくん、と。
静かな、しっかりしたリズム、鼓動だ。聞こえてきて。
額を押しあてた。
ねむい、
きもちいい。
あったかい。
何か言ってる、声。
2.
明け方に近い時刻。
一緒に時間を過ごしていた数人と別れて冴えた空気の中を行く姿が、石畳に何の足音もさせずに過ぎて行っていた。
考えに沈んでいるというわけもない、かといって夜を徹して騒ぎ疲れているわけでもない、一定の歩調で。
まさに動き始めようとする朝の光景から、半歩ほど身体を引いてでもいるような佇まいで。
自宅へと向う明け方の広い道、いつもならば眼もとめないような瀟洒な建物の間の暗がりにその時ばかりは視線を
投げたのは何故だろう、と後になって追想してみても何も理由が彼には思い浮かばなかった。ただ、単に眼差しを
投げた、それだけが理由にも思える。そして、自分は眼にしたのだ、と。
酷く奇妙な光景を。暗がり、現実から酷くかけはなれた光景。
最初は、人形のモノかと思った。暗がり、剥き出しの人の踵から先があった。ちがう、足首から先。明るくなり始めた
陽射しに慣れた眼は最初そう捉えた。やがて、その暗さに慣れた眼は見つけた。それが足先などではなく、暗いイン
ディゴのデニムからなぜか剥き出しに伸びた足の一部であること、そしてもう一方にだけクツを履いて本来落ち着くべき
場所に裾が降りていたので、まるで足先だけが1つ。ぽかりとあるように見えたこと。
珍しくも無い「路上生活者」、もしくは「ストリート・チルドレン」。そう結論付けるのに瞬間脳が躊躇ったのは、なんの変哲
も無い踝から下を形作るはずの線が流麗だったから、かもしれない。一歩、近寄り。デニムの先、もう冬に近いというのに
薄手のオレンジのニットだけの上半身が続いていた。細い線、まだ「ほんのコドモ」だと何故かそう思った。
自分も、成人からはまだ遥かに遠く思えるというのに。
暴力沙汰に巻き込まれたわけでは無いらしい、とその着衣に何らそれらしい跡が無いの事になぜか安堵しかけた。
そして、目が射抜かれたかと。在り得ないほどの色に、暗がりで沈むカーマイン(深紅)。眼が惹きつけられた。
そして、思ったのだ。目を、開かないかと。
想像もつかなかった、どういった色彩がこのカーマインと引き合うのかなど。
傍らに、膝をつく。
ゆら、と閉ざされていた睫が揺れ。
ゆっくりと、茫と緩みとろり、と蕩けたような瞳が現れた。
金茶の光を乗せる淡いミドリ。
突然、イメージした。
光に色を幾度でも変える、金緑石(クリソベリル)。アレキサンドライト・キャッツアイ。
それが、すう、と自分にあわせられる。
何故、とどれほど自問してもわからない。ただ、その。壊れたように崩れていた「コドモ」を自分は気付いたら
引き起こしていたのだと。
それだけが、事実で。
眼差しが間近であわせられ。瞳が細められた。
酷く柔らかな笑みが浮かんだ。白々しいほど、いっそ痛々しいほど整い過ぎた顔に。
なぁ、消えちまわないで……?置いて行かないでくれよ。
歌うように囁かれた。
身体の強張りをすべて解いて、腕の中にそのまま預けられる。
移り香らしい、甘い香りが冴えた空気にほわりと漂った。
この手のドラッグは抜け切るまでに時間がかかる。
このままここに残していけば、タイヘンな目に遭いそうだなと。確信にも似て思った。
閉ざされてしまった目を開けさせようと、目元を隠すように落ちかかる前髪をもう一度梳き上げた。
指の間を流れ落ちるその滑らかな感触に、僅かに驚きながら。
「―――ん…、」
「あンたの家、どこだよ」
ゆらり、とまた色を変えそうな瞳が現れる。
「いえ……?」
そうだ、と返せば。聞き覚えのある通りの名と、いまにも消え入りそうな声でどうにか数字が告げられた。
さほど離れてはいない、充分に歩いていける距離。
連れて行ってやるしか、ないか。
そう思い、驚くほど軽い身体を引き上げる。肩に腕を回させ、立ち上がらせようとした。
けれど、くすくすと上機嫌に笑うばかりでこのコドモが一切、「歩く」ということをしようとしない、という事実に、細道を
抜ける前に気付いた。
正気な者にならば、いい加減にしろと言う事もできるが何しろ相手は良い具合にまだ酩酊中なのだ。
諦めて背負った。
コドモがまた一層くつくつ、とわらって。力を抜いてくたり、と背に身体をぴたりと添わせ、耳もとに額を押し当ててくる。
「おい、落とすぞ」
「―――んん、」
きゅう、と自分の胸元に回された腕に、力がわずかに入ったのがわかった。
それどころか。
耳もと、ふと熱いなにかが掠め。吐息だ、と気付くのとほぼ同時に。かぷり、と「噛まれた」。
「―――おい、」
とうに返事などする気もないらしいコドモは、軽く歯を立て当てては唇で食み、小さく笑い声を上げていた。
そしてまた、額を肩口に埋めて長く吐息を零して。
自分は何故こんなバカをしているんだ、と思い。
なんだこいつは、なんだこいつはなんだこいつはなんなんだ、こいつは。そう呪文のようにアタマの中で繰り返し、
それでも背負ってしまったものを道に捨て置いていくということは思いもよらずに、ただ。告げられた場所へと向っていき。
そして、
「あったかいね、オマエ」
あぁ、―――――おれのだったらいいのに。
そう、呟かれた微かな音を聞いてしまった。
next
|