3.
予想していた通り、告げられた番地にはプレ・ウォーの優雅なアパートメントが建っていた。リフトで最上階へと上る。
明け方の早い時間、まだ誰も住人の起き出している気配はなかった。コドモにカギを出させ、エントランスを抜け、
開かれていたリヴィングへのドアを「荷物」を抱えたまま抜ける。
そのまま、ソファに降ろして帰ってしまえるはずだった。けれど、コドモが離れない。
くう、と首に両腕をまわしたまま、寝付いてしまっていた。
「―――おい、カンベンしろよ、あンた」

仕方ナシに自分もソファに身体を預け、ぴたり、と添えられた細い身体、その背の辺りを叩いてみる。却って、腕に力が
込められただけだった。諦めて、溜め息混じりに片足をソファに引き上げ、少しでも楽な姿勢を探す。高い窓の下からは、
動き始めた街の音が低く上ってきていた。その微かな音に耳を澄ますうちに自然と眼を閉じていた。半身から伝わる、
ほのかな熱と、穏かな吐息に知らずと笑みを刻んで。

さらり、と。
絹の流れる音がした、と思った。そしてふわりと、何かの花の香り。
眼を開く。さらさらと音を立てて自分の視界を金糸が流れていくかと。自分の頬を掠め、肩を辿り流れていく。
女が、これほど美しい女は見たことが無い、とただ思うしかないほどの造形が自分を覗き込んでいた。
陽に透けた夜明けの雲の色、透けるような藤色の眼がふう、と細められ。微笑んでいるのだとわかる。
淡く光を乗せて唇が、くぅと引き上げられた。

「ね、ソファで愛し合ったらだめよ―――?」
さらり、と女の指先が、肩口に顔を埋めたままのコドモの髪をするり、と弄ぶのを眼の端に捉え答えた。
「おれは送ってきただけなんですが、」
「あら。じゃあこの子が離れないのね?」
首を僅かに傾け、また笑みを刻んだ。
つ、と腕を伸ばし。コドモの髪を柔らかく撫でながら歌うように言葉にしていた。
ふわり、と香りが近づき。自分の肩越し、女がコドモの髪に口付け、そっと腕を解かせていた。ベイビイ、いいこね、と
蕩けるような声が耳に聞こえた。肩口にあった柔らかな重みがそうっと遠のくのを、名残惜しいと思う自分がいることを
意識した。そして、混ざり合う金と赤の色彩にゆっくりと瞬きした。

「じゃあ、ダーリン。あなたは私の部屋でお休みなさいな」
ふう、と髪に頬で触れたまま、女が自分に眼をあわせて来たとき断るだけの理由は何も無かった。




温かい水の中から出たみたいに。ふわ、と意識が戻った。
たしか、おれ―――路地で座り込んでなかったっけ……?
曖昧な記憶が揺れかけ、頭を振った。まぁ、いいや。なんだか…気持ちよかったし。
ああいう夢ならいくらでも見たってイイ。

ソファから起き上がった。
ひた、とフロアの冷えた感触が伝わって。あー、クツ。
片方だけ履いて来たんだ、と。小さく勝手に笑いが零れた。そのまま、片方裸足でキッチンまで行き。
メイドがいたけれど無視して。ミネラルウォーターの瓶を引き出して、飲んで。
喉を落ちていく冷たさが気持ちよかった。部屋まで帰った。
もう少し、寝る。だって、このままだったらおれ。また眠れそうだし。




短い時間の間に、理解した。
この女は、一度欲しいと思ったならばいともカンタンにそれを手に入れる女だと。自我を貫く。
くすくすと声を洩らし、蕩けそうな笑みを浮かべていた。
背に回されられた腕の柔らかな重みと、その下の細い骨。
時計はもう正午近くを指し、先に私室をでてダイニングへと向かった。
おかしなことに巻き込まれたな、とどこか冷めて考えながら。




次に眼が覚めたなら、昼近かった。
4時間近く眠れたんだな、とぼんやりと思った。枕に顔を埋める。まぶしー、……喉が渇いた。
あー、しらない間にまた服脱いでたんだ。
起き上がって気が付いた。適当に下だけ引っ掛けて。
ダイニングへ行った。メイドが多分、何か作ってるだろうと思ったから。

だけど、ダイニングにいたのは。逆光で最初よくわからなかったけど。
初めて見るヤツだった。
おれとそんなに年は変わらないのか……?
随分、縦に長いヤツだけど。
―――ダレだ?

「オマエ、だれ?」

だから、訊いた。
そうしたなら、心底呆れた、という風な表情を浮かべやがった。
そして、あっさり言ってきた。

「姉弟して連れ込むなよ」

どこか、耳に馴染む声が響いた。
―――ン?これ…おれ、夢で聞いてたよな?

「あぁ、あのヒト?おれのハハオヤだよ」
それでも返事をしてみた。
そうしたなら、初めてソイツが。吃驚していた。

「ハハオヤか、」
「ウン」
ソイツの声をアタマで反芻した。確かに、眠る前に聞いた声だ、これは。

「でもさ、おれ。オマエと寝てないだろ、きのう?」
すう、と首を傾けた。確認してみた。
ソイツの肩が、大きく上下していた。溜め息でも付いたか?ナマイキ。
「手なんか出すかよ、」
「ふうん?」
少しだけ笑った。

「なんだ、おれ。オマエのこと拾ってきたのか」
肩を掴んで、顔を近づけて言ったなら。また、ソイツのポーカーフェイスが少しだけ崩れた。
「オマエさ、名前。なんていうの?」
そのままの距離で続けた。
「先にあンたがいうのが筋だろう?」
「ヤダよ」
く、とソイツの眉根が寄せられた。

フウン?
コイツ、良く切れる刃物みたいな―――

「ベイビイ、」
声がした。おはよう、と続けられる穏かなそれ。思考が中断される。
「オハヨウ、」
頬に唇で触れた。

おともだち?と問われて、ソイツと顔を見合わせた。
知らない間に、トモダチにされちまっていた。名前を知るまで、それでも2週間近くかかった。
結局は、ヤツに最初に名乗らせた。不思議な語感の名前だった。
かきり、とした音が舌の上にいつまでも残るような。





                                    4.
「おまえは、」
深く、静かに響く声が僅かに愛情のカケラを覗わせながらゆらり、と空気を揺らした。
なに、と返事をするその代わりにく、と頤が心持引き上げられるのを言葉を留めて、目を逸らさずに見つめた。傲慢さと
無意識の媚。これの母親が丁度、同じような年頃の頃にしていたのとまるきり同じ仕種だな、と。薄く笑みを刷いた。

そして、いまこの部屋にいること自体が不思議なほどこの「子供」と顔をあわせていなかったことにふと思い当たる。
会いに来るように呼びつけて大人しく従うような性質ではない、だから自分から出向いていたが実際に顔を見たのは
数ヶ月振りだった。

「私のカオに泥を塗りつけたことを知っているか?」
平然と言葉に乗せる。おまえの遊びに私の側の者を巻き込むのは止めるようにと。
「さあ?知らない」
ぐ、と「チチオヤ」の眉根が寄せられるのを冴え冴えとした双眸が見ていた。
「ああいうときは正気じゃないから、大抵。顔なんか覚えてないし、アナタの部下だなんて知らなかったよ」
真意を見定めるような眼差しを受け止め、す、と首を僅かに傾け。第一、と続ける。
「アンジェの男なんだろう?知っていたら寝やしないよ」

そこまで趣味、悪くない。
そう言って口端を引き上げ微笑を浮かべる姿を目に留める。
「性質の悪い親子だな、おまえ達は」
アイシテイルくせに、と。
嘯き、渇いた笑みを整いすぎた顔に貼り付かせるのは。
紛れも無く自分の情婦の子供なのだと思い知らされる、艶然と嘲うその笑みで。

「おまえの容姿は誤解を生み易い、内(なか)で生きていこうとするなら今後は控えることだ」
くすくす、と齎される言葉に俯いて笑い、音を立てるようにその半顔を目を射るほどの色が覆い隠していく。
誤解じゃないかもしれないよ、とその下で言っていた。
だって、血は争えないっていうじゃないか、と。

「あの女とも、会う事はやめるように」
目の前の「子供」の纏う空気がすう、と冷えていくのをやはりな、という思いで捉える。身体ばかりが従順なわけではない、
作り物めいた表情の下には真意を悟るだけのアタマがあると。

「"会えなくなる"の……?」
「女だけならばおまえの不始末だ、まだ見逃すことも出来たがな、」
同じほど穏かな声が流れ込んでくるのを耳にし、こく、と喉が僅かに上下したのを感じた。
「チチオヤ」から続けられる言葉を予感し。
アレは私の部下だ、中々使える男だったのが惜しいな、と。


アンジェの情人だよ、おれのじゃない


「そんなことは分かっているさ、」
皮肉に歪められた線が口許に浮かんでいた。
「"おまえ"だと承知の上でアレは手を掛けた。その度胸は認めてやらねばなるまいな……?だがもちろん、
おまえの所為などではない、アレの未熟が招いたことだ」

ぎり、と唇を噛む姿に、「チチオヤ」が言葉の半ばに笑いかける。
「ああ、そうやって噛むのはやめなさい。アンジェがキスのときに嫌がるだろう」

「アナタも、もっとアンジェを構ってやれば良いのに」
にぃ、と。コドモの薄い唇が引き伸ばされた。
傷ついてなどやらない、目がそう告げてくるのをみとめ、男も薄く笑いを浮かべた。

「あのヒトはどの情人(オトコ)と会う時もキレイだけど、」
言葉の途中ですう、と細い姿がソファから立ち上がった。
「アナタと会うときがいちばん、キレイなオンナの顔をしてる」
「そうか、」
うん、と答えながら扉に向かう姿に声が掛けられる。

「それでも。おまえのハハオヤは私を殺そうとしたぞ」
「へえ?何時……、」
扉のノブに手をかけたままで振り向いていた。
「おまえを宿していると判ったときだ」
アイサレテルネ、渇いた笑い声が届けられた。

「もうひとつ、」
「なに?"オトウサン"」
にこり、と取ってつけたような微笑が貼り付けられる。
「おまえの最近の気に入りだが、」
す、と首を傾けていた。
「あぁ、アイツ?」
そして、やんわりと続きを遮る。
ダメだよ、おれがアナタより先に拾ったんだから、と閉じられた扉をすり抜けて言葉が部屋に留まった。

男には暴力的な死を。女には瞬時のソレを。
決定が脳裏を過ぎる。

「ビジネス」の至上命題は「カネ」であり、また「名誉」でもある。
経過の為に他者にもたらす死は「仕事」に他ならず、それを憤るだけの愚直さをアレもその母親も持ち合わせてはいない
らしい。「仕事」に「好き嫌い」もましてや「否や」を持ち込めるはずのないことも理解している。「感情」を持ち込むのは取るに
足らない「子供」のすることだ、と。何よりも剥き出しのコドモに他ならないだろうあの二人が、恐らく誰よりも理解している。

ふ、と笑みを零し。閉ざされた扉を男は見つめた。
唯一、僅かながらでもあのコドモが自分のものである、と主張した相手ならば。ここは見て見ぬ振りをしてやろうか、と。




next
back