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 5.
 いくつか偶然が重なった。
 偶々、女に誘われて出掛けていった先にヤツがいたりであるとか。ちょっとした弾みで巻き込まれた厄介事に、
 手を貸してみてやったり。お返しとばかりに次は勝手に手を出されたり。そうして、ヤツが。
 チチオヤの「ビジネス」にほんの僅か関係していることを知った。やんわりと誘いを掛けられているらしいこと。
 
 「受けるのか…?」
 「さあ、」
 ヤツは肩をかるく竦めてタバコの煙を細く暗がりに昇らせていた。
 家の、バルコニーから。いつの間に、勝手に馴染んでいた。
 おれが呼ぶことも、アンジェが呼ぶこともあった。
 
 「断れよ」
 言ったなら、面白そうに片方だけ唇端を引き上げておれの方を。灰色がかった眼が闇色を落として見つめてきた。
 
 「フン。何故?」
 「おれが、先にオマエを拾ったんだから」
 ふ、と洩らされた煙が、夜に溶け込んでいった。わらったんだ。
 逆じゃないのか、と静かな声が返された。
 
 それには答えずに、灯かりの下へと戻った。
 アンジェの呼ぶ声がしたから。
 
 
 
 
 長い髪を、ふわりと揺らして。召し上がれ、とアンジェが微笑むのを見ていた。
 ダイニングの広いテーブルに着いて。
 注がれた白ワインを軽く含んで、彩りの華やかな皿の数々を眺める。
 カノジョは食が細い。次々に運ばれてくるよりも、あるだけをテーブルに並べさせそれをただ見て愉しんでいる節が
 ある。手近なプレートからミモレットを一切れ摘まんで口にした。
 
 不思議な食卓だった。アンジェは笑みを浮かべて、無表情で皿をキレイに片付けていくヤツのことを眺めていた。
 アンジェに視線を投げたなら、ふわりとおれを見て笑った。
 
 
 
 
 ゴチソウサマ、と声が聞こえた。
 ヒトを夕食に招いておいて、あのコドモが厭きて先にテーブルを立つのは常のことだから。放っておいた。
 出される食事は、必要以上に手の込んだものとわかる。
 この二人に仕える料理人は気の毒に、ふとそんなことがアタマを掠めた。ほとんどの皿を片付け終わり、席を
 立とうとしたならば。
 
 「オトコノコは見ていて気持ちが良いわね、」
 柔らかな口調が届いた。
 ゴチソウサマでした、と答え席を立とうとしたならば。呼び止められた。
 「何か御用ですか?」
 「ワインを取ってきてくださる?」
 見つめれば、笑みと一緒に返された。
 
 「ドウゾ、」
 デザートワインを注ぎいれて差し出せばまた、ふわりとわらった。
 「ねぇ、そこのオレンジも剥いてちょうだい?私、爪が邪魔だから」
 果物を手にする。果肉が紅かった。
 ブラッド・オレンジ。
 
 手元に視線を感じ。眼を上げれば光を乗せたソレとぶつかった。
 気配が動き、後ろ側にたっているのだとわかる。
 耳もと、柔らかな吐息が掠め。手が重ねられた。
 
 「手が、汚れますよ」
 ふわ、と微かに笑った気配が届いた。
 いい匂いね、と聞こえた。
 皮を剥き。
 赤の果汁が、白い、細い手に散った。
 
 「あァ、ほら……」
 
 コトバの続きを紡ぐ前に。頬にオレンジの香りが拡がった。
 濡れた指が、滑り。その後を唇が追った。
 深くなる笑みの気配がそれを追いかける。
 
 溜め息を飲み込み、背を片腕に抱いた。
 するり、と頬が寄せられた。
 そして、ぱたりと。静かにドアが開き、声が聞こえた。
 「アソンデクルネ、アンジェ」
 
 
 
 
 部屋に戻って。
 自分の内側をそろりと探った。そうしたならば、どこか。
 苛ついたキモチが見つかった。
 バカバカしい、そう思った。
 
 パケットから取り出し、ペーパーできっちりと細身に巻いてから。
 甘ったるい煙を吸い込んだ。
 神経が弛緩していく。ゆっくりと。
 眼を閉じる。
 
 音、流れてくる音が。
 蒼のスパークを乗せるのを眼を閉じて見つめる。
 キモチが凪いで、鼓動までテンポを落としたかと思う。
 息を長く洩らした。
 
 オーケイ、何処でもいい。出掛けよう。
 此処以外なら、何処でもいい。
 
 おれ、たしか。
 ヤツと何か話すつもりで呼んだんだけど。そうだ、シトリン、あの女ことだ。
 今朝、アパートメントで。死んでたんだ。
 アルコールと、睡眠薬の過剰摂取。
 
 あの女が、自分で死ぬなんてありえない話だ。
 
 いいや、もう。
 
 あのヒトも愉しそうだし。
 遊んでくる、と告げたなら。ヤツの膝の上から、アンジェはにこりとわらった。
 
 まるっきり、オモチャをみつけた子供みたいな笑顔だったから、思わずアンジェの頬にキスした。
 おれは、アナタにそんな顔、させてあげられないから。
 ヤツの眼を覗き込んで、わらった。アリガトウ、そう言って。
 そうしたなら、ヤツの表情が一瞬、傷むみたいに引き連れた。
 
 なんでだろう……?
 
 
 
 
 6.
 アンジェの発作、そう呼んでいた。
 唐突に起きるその発作の予想は出来なかった、ムカシから。
 ふ、とやってきて。それは例えば明け方だったり、夜更けだったり、午後の何でもない時間だったり。
 薄物を纏っただけであろうが、着飾っていようが関係なく。ただいつも、変わらないのは纏う香りだけで。
 何も言わず、抱きしめてくる。髪を、頬を撫でて。
 きゅう、と。
 寝椅子に身体を預けて、だから、じっとただ抱き合う。
 
 髪にアンジェが幾度も口付けてきて
 名前を呼んでしまいそうになるからおれは息を殺す。
 まれに、呼びかけられて。
 けれど必ず、アタマをきつくアンジェの肩口に押し当てられているから、カオは見えない。
 いつも、だから眼を閉じていた。
 
 いつだったか、偶々ヤツがアンジェと抱き合っているときに入ってきた。
 ヤツの立場は複雑なものに変わっていた、おれの知らない間に。
 「チチオヤ」公認のおれの「遊び相手」で「お目付け役」。
 アンジェの、「可愛がるもの」。
 バカバカしい、と当人はハナで笑っていた。
 
 また変わったばかりのメイドも、女主人の引き込む若い男の来訪をとうに告げなくなっていたからその静かな
 気配を感じて眼を開けた。
 ヤツはおれを眼を合わせると、肩を竦めてみせた。
 悪い、と言っているのではない、バカにしているのでもない、強いて言えば「あァ、どうぞ」が近い。
 「どうぞ、ご自由に」とでもいったところ。
 ヤツの気配がダイニングへと消えていくのを感じた。そしてまた、眼を閉じた。
 
 抱き込まれて、アンジェの線の細いことや、滑らかな背中のラインを知る。
 間近で鼓動がして、このヒトも生きているのだと何かに確かめる。
 アンジェは美しい女で。おれの「チチオヤ」はいつだったか言った。「いままで、あれほど美しい女はみたことがない」と。
 その「女」がたかだか15、6のコドモだった、けれどそれだけだ。
 どこまでもコドモで、なのに恐ろしいほどにオンナで。
 「傲慢な女だ、」と。何番目かの情人は言っていた。
 「なにも、見ようとすらしないヒトだ」と言っていたのは誰だったかな。
 
 おれにとってアンジェは。
 いままでみたなかでイチバン美しいオンナで。おれを16で生んだオンナ。
 「一族の子」で、「遺産相続人」。
 おれはカノジョを「アンジェ」と呼んで、カノジョはおれを「ベイビイ」とだけ呼ぶ。
 記憶をずっと辿っても、名前で呼ばれたことなど無い。
 だからメイドが最初、誰ノコトヲ呼んでいるのかわからなかった。
 
 不意に金色の滝のように。
 長いまっすぐな髪がさらさらとおれの目の前に降りてきて。ふわりと百合の香りがした。
 「ベイビイ、"それ"はあなたの名前よ、」
 歌うように呼びかけられた。
 それからしばらくたって。アンジェが「名前」で呼ぶのは自分の「オトコ」だけだと知った。
 
 身体を動かさずにいると、思考が勝手に流れていく。
 呼び方。
 「キミ」と呼ぶヤツはセックスが大抵下手だ。
 「オマエ」と呼ぶやつは独占欲が強いし、しつこい。
 おれのことを、なにも呼ばないヤツが、イチバンキモチイイ。
 女は誰でもあまくてやわらかい。気持ち良い。
 名前で呼んでも、フザケタ風に呼びかけてきても誰でも柔らかい。
 
 アレは、「あンた」と呼んできた。
 オモシロイ。
 突き放した、丁度良い距離だ。
 名前で呼ぶ事などない、ウン。気に入った。
 
 目線を、ダイニングへ投げた。
 なァ、オマエさ。やっぱりイイね、オモシロイよ。
 
 アンジェの背中に腕を一層まわして、肩にカオを埋めた。
 くう、と一瞬、きつく抱き込まれた。頬に、口付けが落ちてきた。
 合図。
 腕を緩めて眼を上げる。す、と突き放された。
 
 眼差しをあわせる。
 
 アンジェが、オンナの顔でわらった。少しだけ笑みをのせて返す。
 腕が伸ばされて、頬にほんの僅かの間留まった。
 眼を閉じた。
 ドアの閉ざされた微かな音だけが聞こえた。
 
 
 
 
 
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