7.
偶に、おれとアンジェは良く似ている、と言われた。
アンジェはただ微笑んで、私のベイビイだもの、とだけ言った。
ガラス板をわざわざツメで引っ掻くような、そんな女で。
身持ちの堅い男をひどく好んで。
手に入れると決めたものは。絶対に全部手に入れなければ、気のすまないヒトだった。そしてそれを手に入れた
瞬間には、グチャグチャにするのを楽しむようなオンナだった。
おれのチチオヤがそれでも、アンジェに踏みつけられないでいたのは。経済的な基盤とかそういったことよりも。
「一族の子」であるアンジェに相応しくない「ビジネス」に手を染める男だったからだろうと思う。
「あンたのアンジェは、」
いつの間にかしっくりと家の空気に馴染んだヤツが、いつだったか言ったことがある。
「豪奢でプライドの高い、女王猫だな」
その通りだと思った。
だけど、それだけじゃない。
「"おれの"アンジェは、ニンフォマニアなんだよ」
言った。
「色狂い。それにさ、ほんとうは男を憎んでいるのか好きなのかおれにもわからないな。なァ、オマエは
どう思う―――?」
おれは、あのヒトを抱いたことがないから、と付け足す。
く、とヤツの眉が顰められた。
けれどそれはおれの不躾な問いかけに対してであって、アンジェを"抱いている"ことには何の罪悪感も持って
いないのだとわかる。
「あのひとはおそろしくコドモで、そして同時にどこまでも―――。……あの人は、産まれついてのオンナだ」
「―――そう、」
枕に頬をつけた。
「あぁ。おれはもう行くぞ」
おれは覚えた。
この男に、―――「男」と言うにはまだ少しなにか足りねぇけど。だけど、おれみたいにオンナから「男の子」とだけは
呼ばれないような、中途半端な具合、あー、アレだな。雄になりかけ、そんな感じの物騒な、―――こいつになにか
させようと思ったら、理を言ったらダメなんだ。理屈で返されてオシマイ。
だから、思いつくままに言い切るに限る。
そう、さっきまで。
シュミの悪いパーティにいた。ちょいとばかり気紛れが過ぎて、よろしくないトリップしちまって。
カラダ動かねぇし、いつまでも重てぇし、厭きたから、呼んだ。そうしたら、
気が付いたら、横にいた。
モンドウムヨウで引っ剥がされて。ああ、そのときの誰かのカオ、アレはおもしろかった。
ハラ曝して驚いてて。みっともなくて。わらっちまった。
雑に服着せられて、バックシートに放り込まれた。
驚くメイドを下がらせて、ヒトのこと水風呂に浸けやがった。
おかげでこうして意識、戻ったけど。さみィ。
トナリにいろ、といったなら。
フザケルな、と押し殺した声が返された。
「フザケテない。寒ィ」
それでもドアを出て行こうとしやがるから。
「…アンジェなら寝れンのに」
そう言い返せば、すげえイキオイで戻ってきた。
今度こそ殴られるかと思った。
けど。
息が詰まるくらい、アタマ抱え込まれて。
おれが押し倒した、ヤツのこと。
胸にアタマを乗せて眠った。ぐっすり。
肩に額を押し当てて、このコドモは眠る。
そんなことを思った。
冗談じゃあない、と一瞬は思う、けれど最後は。勝手に身体が動く。
何かを必至で押さえ込んで。あンたは何を怖がっているのかと思う。全身を緊張で硬くして。
あのとき、最初に「会った」とき。
あんなに、無防備にシアワセそうに笑う顔を見るのが、アレが多分最後だと知っていたなら、もっと抱きしめて
やったのに。
だから、せめて。あンたの言ったコトバだけでも
遣ろうと思うのは、おれの傲慢か……?
首を傾けて、頬にあたる髪に口付けようとする衝動を抑え込む。
アンジェに恋していないように、おれはあンたに恋してはいないと思う。
けれど、アンジェを欲しいと思う以上に、おれはあンたを欲しいのかもしれない。
目を逸らせないモノをみつけてしまった、それに近いのかもしれない。
あンたのハハオヤは、おれに何かを見ている。
それが何であるのか、おれにはわからない。オトナのオンナが、ガキに本気であるはずもないから。
けれど同じ眼を、あのヒトもする。
底が見えないほどの、なにかを希求してでもいるかのような。
だから、おれはあのヒトも無視しておくことは出来ない。
大人であることを、いまほど欲しいと思った事はない。叶わない、とわかってはいても。
自分はまだほんのガキで。それでも、
護りたい、と思う欲求はどうしようもなく膨らむ。
せめて、あンたの眠っている間だけでも。
眼を閉じた。
あンたが、少しでも良い夢をみられたらいいと、そう思う。
8.
日常は、ほんとうは奇跡が連続しているだけなんだ、と。
突然知る。
変わることのないと思っている日常が。得がたいものだと。アタリマエのようにコトバを交わして、
その姿を目にとめるのは、幸運の連続でしかないのだと。
そして、それに気付くのは、いつも何かが起こった後だ。
いつもよりも夕刻、少しばかり早く家へと戻った。特に理由はなくて、ただ。
アンジェのカオがみたかった。
メイドは数日前からいなかった。これも、日常茶飯事で。
感情の起伏の激しい女主人に当り散らされて、早々に辞めて行く者も多かったから。
エレベーターホールを抜け、ドアへと近づく。
カギがかけられていなかった。ヤツがいつも来る時間には、まだ少し早くないか?
それに、アイツならこんな中途半端なことはしないはずだ、なかば開きかけたドアを見つめた。
ふ、と何かの予感が足元に寄って来た。
「アンジェ―――?」
エントランスから声をかける。
どこかから、流れてきていた。イタリア・オペラ。ソプラノで歌われるアリア。
バルコニーに向って開け放たれたリビングの窓から、風がエントランスまで吹き込んでくる。
飾られていた百合の香りが漂って。
不意に、男の呻めくような声がした。アンジェの私室から。
足音と気配を殺して、躊躇わずに声の方へ向う。
ひろく開かれた扉、その中ほどにアンジェが立っていた。
繭白のドレスガウンだけを纏って、金の髪が半身を長く光の薄膜で覆うように流れて。
す、と視線が流れた、おれの方へ。
そして、口許に貼り付けられていた冷笑が穏かに溶けていった。
おれに向かって。
ほんの、一瞬。
ぜんぶが、同時におこって、なにもかもが停止していた。
扉の影にいた男が、おれを一瞬見遣ったこと。
まっすぐに向けられた銃口が、ぎらりと光を弾いたのと。
アンジェがおれに微笑んで名前で呼んだのと。
おれが部屋へ走りこんでいったのと。
銃声が聞こえたこと。
一発目の銃弾が、羽根を部屋中に撒き散らしたこと。
すぐに、二発目が真っ白の胸に穴を穿ったこと、朱が散って。
ゆっくりと、身体が傾ぎ。
その後を、金の布のように閃いて長い髪が追ったこと。
散る羽根。
浮かぶ笑み、呼ぶ声。
ああ、アンジェ。あんたは、地獄のようなオンナだ。
あんたは あんたは、 あんたは。
いまになって、いまさらになって
わらうんだ?
見たことも、むけられらことすら無い
そんなに あまやかなカオを
いまになって
おれにくれたって、
顔に、汚れた金の髪を張り付かせて
赤く汚れたそれが
うで、まっしろの
羽根がまだ漂って
赤いモノ、しろいままのもの、
あんたの、髪に肩に降り積もって
うでが、さしのばされる
招いて
アンジェ。
ふわふわと、羽根が舞い上がる
あんたの血に染まって
「ベイビイ、」
そう言って腕を差し伸ばして
近づいたなら、頬に触れられた
わざと、血を擦り付けるように撫でて
うたうように、微かな声は
「ベイビイ、アナタが無事でよかったわ、」
と言った。
アンジェ?
ああ、また。
あんたは微笑む。
なんてこった、あんたは本当に奇麗な女だ。
こんなことになっても。
「ねえ、キスしてちょうだい、」
うっとりと目を閉じる 美しい女が
「私の最後のキス、ベイビイ、あなたとしたいわ」
アンジェ、眼、開けてくれよ。
みせてくれよ、あんたの色を。
「あなたを、あいしてるわ」
アンジェ、
ハハオヤとの最初で最後のキスは
咽るほどの鉄の味を残した。
羽根が散って
いつまでも空気を漂って
おれの後ろで
銃声がした
アンジェを
撃った同じ銃で
何番目かの情人が自分のアタマを吹っ飛ばした。
アンジェ。
あんたは。ひどいオンナだ
最後におれを
縛り付けるなんて
あんたに。
ひらひらと、舞う羽根。
こんなにも、赤い、
かくりと膝が崩れた。
「ベン……ベック―――?」
口が勝手に言葉を拾った。腕、アンジェを抱きしめていた。
おまえ、いまどこにいる――――――、
アンジェが、なぁ、ベック、
アンジェが
強いものの気配が、取巻いたかと
声、聞こえた。
呼んでる、おれのことか……?
目を開けた、ずっと開けていたけれど
視界は、笑みを刻んだキレイなオンナだけで占められていて
自分の腕が、熱く濡れているのがわかる、
赤、止まることなく流れていく
腕の中のアンジェごと、包み込まれて骨が軋んだ
強い声、耳に落とし込まれる。
滑らかな絹を握り締めていた手を、開いた。指の力が僅かに抜け落ちた。
体の中からまた、きしり、と骨の撓んだ音が響く。
「―――っぅ、」
息が零れた。
一音、一音刻み込まれるように音が、おれの名前、だ
耳朶を掠め滑り落ちていく。
「―――ック、」
喉がひりついた。
「…ア…ジェ、が―――」
濡れた背中、自分の片腕が滑り落ちた。
半ばまで埋まるほど、柔らかなラグに手を投げだしたままに。
甲にじわりと濡れ拡がるのは―――止まらない、なぜだろう
心臓は、もう動いていないのに、それでもまだ温かい
やわらかくて、滑らかなままの肌。
朱に汚れていても、信じられないほど柔らかい頬。
上向けたままの掌、ひらひらと。抱きしめた肩越し、最後の羽根が舞い散るのが見える。
掌に羽根の感触、握り締めた。
硬質な、それでいて穏かな抑揚の声が何かを話し掛けてくる。
間近に鼓動が伝わる。額を押し当てた。
どうしよう?キレイなキレイな女が、壊れた。
手が、伸ばされたのが見えた。長い指、アンジェの髪を撫でていた。
息が、とまるかと
幾つもの足音が近づくのが聞こえた。
耳の底、遠くで。
アンジェ、眼
頼むから、あけて――――――?
指に絡みつく黄金の髪、
両腕にまた抱きしめて、口付けた
おれのこと、罠に嵌めたのはあなたじゃないか
なんでもういないんだよ……?
引き剥がされた、腕に。
いやだ、と喚く声がする、おれの?
放せ、
だってもうアンジェがいないんだ
無理矢理に押さえ込まれた、手足。
鼓動しか聞こえなくなる、おれ以外の刻むリズム
視界まで、奪われた
あたま押し当てられて、胸元に……?
ふ、と香る
乾いた、タバコの苦い甘さ。
「―――ベック…?」
ぎり、とまた背骨が軋んで。小さく、呻いた。
放すかよ、と。押し殺した声が響いた。
あンたまで、放せるかよ
聞こえた。
見上げることも出来ずに
与えられた音だけで無理矢理に充たされた。
抱き込まれた後ろを、幾つもの足音と押し殺した怒声が通り過ぎていった。
サイレン、近づき。
掌に羽根を握りこみ、背中を抱いた。
いまだけは、と。
おれのハハオヤが死んだのは、こいつを拾って半年も経たなかった頃だった。
血塗れの赤い羽根。ふわふわと舞う中。
おれに呪いをかけていった、キレイなキレイな女。
あなたは何かを縛り付けていった
おれと、
こいつとに。
First Part Completed
あとがき
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