34.
そういえば、とゾロが一口、グラスを満たしていた強いアルコールで唇を濡らした。
昨夜の被害者もブルネットだったな、と。そして、どうやらおれは黒髪と縁がないのかもしれない、と無理に口元を笑みのカタチに持っていこうとしていた。
「おれの、家の隣に同じ年のガキがいたんだ、それこそ一緒に育ったようなモンで……もちろんそいつも、そいつの両親も、死んじまったよ」
淡々と告げられる言葉に、サンジが漸く息をゆっくりと吐いていた。
「そうか、」
それだけを言葉にする。
からり、とグラスのなかで氷の崩れた音が静かに上がった。
「あと、ほんの何秒か早くにおれがその部屋に入れていれば。声に気づいていれば……伸ばされた腕を掴んでやれたかもしれない」

いつだかの異母兄の口調がサンジの頭のなかでエコーした。
『あのクソガーディアン共は。いまのとこ黒星ゼロなンだよ、むしろそっちが奇跡だけどな』
黒星、とは救出できなかった人間のことを言うだろう。
けれど、と。グラスの縁に視線を落とした相手にサンジが静かに眼差しを合わせた。
家族を亡くし、友人を亡くし仲間を亡くし。それでもなお、炎に挑むことを止めることをしないこの男の声音が、隠しきれない慙愧めいたモノに微かに彩られていた。
手の先から零れ落ちていった生命に、また総てを再び亡くしでもしたかのように。

そうじゃないだろ、とサンジが唇を噛んだ。
ゾロ、違うよ。そうじゃない。

「良かったじゃねえかよ」
声に、ゾロが顔を上げた。
「何だと……?」
すう、と翠が僅かに細められるのを見据え、サンジが言葉を継ぐ。この、押し殺した声は自分のものだろうか。タバコを唇から引き抜き、灰皿に押し当てていた。
「だから。よかったじゃねえか、って言っ―――」
言葉は途中で立ち消え、サンジの身体が作り付けの棚にぶつかりグラスが幾つか床に落ちて乾いた音を立てて割れ。口の中が切れたのか、サンジが僅かに顔を顰めるとカウンターの内側にあるシンクに血を吐き捨てた。拳で口元を拭い、静かに上げられた蒼が不穏な光を乗せた。

「訂正しろ、」
ゾロの声が軋みかけるのを聞く。
「しねェよ」
く、とサンジがバックドアを顎で示した。なァ、中じゃ店の迷惑だ、外で話そうぜ、と。


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押さえた、それでもどこか荒い息が聞こえる。
外でしていた「話」は殴り合いだった。場馴れしている点ではゾロに利があり、意外にも俊敏なことにはサンジが若干リードがあった。バーのなかでは、敢えて一回殴られていただけであったのかとゾロが思うほどに。
「ジョウダンじゃねェぞ、」
これはサンジだった。
「おまえこそ、ふざけるな」
噛み締めるようにゾロが言葉にし。
石造りの壁に身体のあたる鈍い音と、壁に沿って積み上げられていたワインの木箱が崩れる音が響く。建物と建物の間の細い路地で。
肩を壁に強か打ちつけ、サンジが小さく呻き。
ゾロも蹴り上げられた鳩尾に手を当て小さく毒づき。
壁にぶつかった反動を利用して攻勢に転じようとした相手をゾロが腕ごと掴みまた壁際に押し付けた。掌を通して決して軽くはない衝撃が伝わり。
刹那、酷く間近で眼差しがぶつかり合う。

「おまえ、何で―――」
蒼が、涙を滲ませているのを間近でみ、ゾロが小さく搾り出すように呟いた。
自分の襟元を掴みあげていたサンジの両手が微かに震えていた。零下の温度の為ばかりでは、おそらく無い。
「―――ってよ、」
ぐ、と嗚咽を呑みこむようなサンジの仕種に、ゾロがまた唇を噛み締め。とうに切れていた所為で口中に血の味がまた広がるのに眉根を寄せた。
良かったじゃねェかよ、と。また同じ言葉が繰り返されたが、その声が震えるような様子にゾロがまた手に力を込めた。

「……そのこは、最後に。ジンセイの最後に、命がけで自分を救おうとしている腕をみたんだろ?自分を救おうとしているニンゲンがいるってこと、知ったんだろ?」
サンジは必死に言葉を継いだ。
自分を真正面から見据えてくる翠から目を逸らさずに続ける。
「その子は。最後に声を聴いてもらえたんだろ?だったら、十分じゃないか。最後に、ソレを見られたのなら。ただ、見捨てられて誰にも省みられずに死んでいったわけじゃない。最後に、伸ばされた腕を……、」
サンジが言葉を詰まらせた。
そして、手を顎に添え僅かに俯き。痛っ、と小さく毒づいていた。

「……何をおいても自分を引き戻そうとした存在を知ったんだ、だから。良かったじゃねえかよ」
言葉を続け、サンジがゆっくりと顔を上げていた。
「なあ、ゾロ。―――おれがその子ならダレも怨まねぇよ。ちょっとは哀しいかもしれないけど、絶望して死んでいきはしない、だから。
よかったじゃないか、おまえが、おまえらが、無茶しでかして引き戻すのも―――」

不意に、息が詰まるほどきつく抱きしめられサンジが目を見開いた。
鼓動が直に伝わってくるほどきつく、固く、胸をあわせるように。冷えた外気よりも触れた体から熱が包み。
名を呟こうとしたなら、また抱きしめられる。
所在無げに下ろしていた腕を、ゆっくりと相手の背にまわし、サンジが宥めるように掌を背に添わせた。

「―――――――悪ィ、」
酷く小さな声がおそろしく近くから聞こえる。
鼓動が痛いほどだ、身体の内で打つ。
「おまえのこと……」
ゾロの言葉が途切れ、また抱きしめられる。
「―――いいって、」
サンジが息を押し出すように言葉にする。実際、容赦なく抱きすくめられて勝手に白いソレが零れてくる、切れてぴりぴりと痛む唇から。そしてそれが本当に不快では無い。
「おれも相当、手加減しなかったし」
そう答え、くすん、と僅かにわらうようにしたつもりが勝手に涙が落ちていった。
「ばーか、おまえ痛ェんだよ」
横を向き、ぐしゃりとそれでもゾロの短い髪を掴むようにする。そして、あァおれは何で泣いちまってる、とサンジが思う。

悪かった、とまた苦しげに告げられ。
不意に、冷え切った頬を親指の腹で触れられ。
ひくり、とサンジの肩が竦んだ。ゆっくりと、涙の跡を拭うように触れられる。顔を戻し翠を見詰めれば、それが僅かに濡れたようになっていた。
「何、おまえ泣きそうなンだよ」
「おまえを殴っちまったからだ」
「……アホ、何言って…」
ただもう、すべてがイトオシ過ぎてむしろ笑い出しそうだ、とサンジが思う。
こんなにも明白だ、自分はコイツが好きなんだ、と手放しで白状したくなる。
言葉にせずとも、全身がそれしか言っていないに違いない。いま。

「サンジ、」
名を呼ばれ、サンジがほんの少しばかり顔を斜めにする。するり、と落ちかかる前髪を指先で梳き上げられほんの少しだけ驚いた。
「―――アホウ、」
言葉と、唇が額にそうっと落ちてくる。
「バカだぞ、おまえ」
そのまま、問答無用にアタマごと両腕に抱きとめられサンジが一瞬言葉を忘れた。


                                  36.
ダメだ、と思った。
蒼が、泣き笑いめいた表情を浮かべ。
際限が無いかと思う。薄々感じてはいたモノの正体をいきなり自覚したときには、後戻りなど効かないほど魅かれていたことに気づく。
額に口付け、腕に抱きこみ。
途方に暮れそうになる、腕のなかにすんなりと収まった相手に。サンジ、とまた名を呼び。外気に冷え切った金色に口付ける。
痛いほど後ろ頭ごと髪を引っ張られゾロが小さくわらった。そして、間近で相手の顔を見詰める。
かなり本気で殴りあったから、結構ボロボロでお互いに。おまけに―――泣いてやがる、と。

「サンジ、」
もう一度呼び、唇に触れる。
ひく、とまたサンジの肩が揺れ。もう一度、啄ばむ。サンジ、と直前まで名前を唇に乗せながら。



片眉を引き上げるようにして見せた相手を、真っ白になりかけたアタマでもどうにか後ろ頭を掴んで引き寄せてから、口端に着いていた乾きかけた血、それをサンジが舌先を伸ばして取り去り。
すぐに重ねられた唇に、ゆっくりと、出来る限りゆっくりと目を閉じていく。
恋をしている、と自覚する。
恋を通り越している、と確認する。
触れ合う熱の熱さに眩暈がするかと思う。舌先に感じる微かな錆びの味にバカみたいに本気で殴りあった後なんだ、ということを思い知る。

抱きしめられ、抱きしめ返す。

おまえが着地に失敗しそうになったら、いつだっておれが居場所確保してやるから、と。
切れ切れに思い、言葉にするよりも抱き合うことで伝えたいと願い。
ゆっくりと口付けが解かれていくのに、相手の唇を柔らかに啄ばむ。
逸らされない視線がすぐ側でまた絡み。それは笑みに満ちていて、くく、とどちらからともなく笑い出した。互いにしっかりとまわした腕を解こうとは思いつきもせずに。
こつん、と額をぶつけるようにされて、サンジがわらう。けれど、なぜか涙腺は壊れっぱなしだ。

なんだか、幾つかプロセスを飛び越したような気もするけれども、そんなことすら些細なことで。
いま自分の、そしておそらく自分たちの、内側を呆れかえるほどのスピードで充たしていっている感情こそが、最も大事なことだと。最優先事項だと知っている。
「ゾロ、」
翠が静かに見詰め返してくる。
「おまえは、いつだってバカみてェに全力なんだ。だから、いつだって戻る場所でいてやるから、」
クソガーディアンだからって、飛びっぱなしってワケにはいかないだろ、とサンジがまた泣き笑いめいた表情で告げれば。

「セーフティネットか、おまえが?」
ゾロの翠が笑みに和らぐ。
「あァ、いままでだってけっこうイイ線いってたけどな?多分」
「―――だな、」
腕に抱きしめ直し、認める。確かに、自分はサンジの「カオ」をみればその日は無事に終わったのだと確認していたのだから。
ゾロが極僅か、くしゃりと笑みを作る。切れた唇だかアザになること確実の腹だかが痛みでもしたのか、小さな痛み交じりのようにもみえる笑み。

そして、こつ、と。
ゾロの拳の裏が軽くサンジの額に触れた。
「ブッ細工、」
囁きまで落とした声が次いで落ちてき。
く、とまた2人して喉奥でわらった。


濡らしたタオルで顔のあちこちを拭い、痛ェだのバカ力、だの軽口を交わしながら暖められた店内の空気で凍え切るようだった身体をどうにか戻し終え。オフィスの灯りを落として戻ってきたサンジが言った。
「なぁ、もう帰ろう」
「クルマ拾うか、」
ゾロが返し。
「アホ、だれが、」
サンジがまた小さく皮肉めいた笑みを乗せてみせた。それが一瞬で柔らかなソレに変わっていく。
「おまえのとこ、行こうぜ?そのほうが近いだろ」
「―――あァ」
とん、とその肩にサンジが軽く掌を弾ませ、扉に促しかければ。
あぁそういえば、とでもいう口調でゾロが口を開いた。

「……けどな、」
「―--ン?」
がしゃり、とバックドアの鍵をサンジが掛けている。その後姿に告げる。
背中越し、体温の近づくのを感じ振り向こうとしたそのとき、ふ、と耳元に顔の寄せられるのを感じた。
サンジがゆっくりと目を伏せ僅かに背中をゾロに預けるようにすれば、耳元に声が落とされた。
「抱いちまうと思う、おまえのこと」




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