3.
「若、妹君を。禁足地へお連れしましたね」
厩番が言った。
「ならば、何とする」
囲いのすぐ手前、壁にもたれかかるようにしていた姿がふい、と顔を上げた。
「これが、不浄の気を放っておりますゆえ。すぐにわかりました」
ゆっくりと、手を休めずに男は駿馬の体を梳くようにしていた。
「不浄、か。彼の地は聖地ではなかったのか。おれはそう思っていたぞ」
「それは、」
男が言いよどんだ。
「巫女姫が存命ならば、彼の地は聖地なれど。不在のいまは、不浄のものが蟠る地に他なりません、若、」
「案ずるな、」
壁から離れ、ゾロが言った。
「妹には、触れさせていない。何も見てはいないだろう」
「―――若?」
「おれが受けた、」
ほら、と言いながら薄くわらい、一歩近づき。上衣の胸元を寛げて見せるようにした。
左胸から肩、肘にかけて幾つもの手が、爪が掻き裂いたような痕が残っていた。男が思わず小さく声を漏らした、これは、と。
「惨い」
「これも、」
柔らかく和んだ翠の眼差しが駿馬に向けられた。
「足に、いくつか掻き傷があるかもしれない。気をつけて見てやってくれ」
「―――はい、ですが若」
「なあ、ああいうモノ共は幻かと思っていたが。痛みがあるとはな、予想外だ」
のんびりと、小さく笑う。

そして、搭へ妹に請われるまま行きはしたが馬から降りるまでもなく、不浄な気を感じたのだと、話し始める。
そこここへ蹲る黒いものが見えた気がした、と。やがてそれが人型をぼんやりと模り幾つも近づいてくるようだった。
妹の眼はただ瞬きさえも忘れたように搭の頂きにあわせられ、自分が何を語っても返事すらなく。体が細かく震え始め
ていた。馬が前足を蹴り上げ、抑えようと手綱を引き絞った自分の目の先、搭の頂きに確かになにかが過ぎたのを眼に
した。白い長い髪。自分の記憶に僅かに残る、先の姫と同じ色。けれど確かめる間もなく、足元に蟠るようだった形無い
モノを刃で薙ぎ、馬首を戻したのだと。何でもないことのように告げていた。

黙して自分の話を聞き終えた男が屋敷へ使いを呼びにやろうとするのを、押しとめた。
「良い、構うな。父上に知れたら厄介だ。それより―――旅人の中に癒し手はいるか?」
「今朝方到着した方のなかに、薬師がいらしたかと」
「それは調度良かった」
厩の入り口へと向かおうとする背にかける言葉を男は捜し、やがて密かに唇を噛んだ。


4.
バカだねェ、と。黒髪の男は片方の眉を引き上げて見せた。
「本当のことを言うものじゃないわ」
長い、薄青にもみえる白金の髪を揺らして女がわらった。
「噂には聞いちゃァいたが。若サマ、あんたは実に無謀なヤツだ」
にかりと人懐こい笑みが男に浮かぶ。
「気が散るわ。あなたはあっちへ行っていて」
静かな声で女が言う。
祭りの喧騒が窓からかすかに伝わってくる屋敷の大広間に薬師とその男はいた。

さらりと、取り出した香油の瓶に浸したたおやかな指先で疵に触れると、口内で小さく何事か唱えはじめる。
背後の暖炉の灯かりが、女の顔に複雑な模様を落とすのをゾロは見ていたが。やがて、熱を伴っていた
疼痛がその低い声と一緒に引いていくのをただ感じていた。
「おまえも不死者なのか―――?」
「私?私はね、違うわ。あの人の輪に巻き込まれたというべきかしら」
女の、淡い紫色をした瞳があわせられた。
自分達の背後で笑い声が一頻り上がる。エース!久しいな!と、それは口々に嬉しそうに。
「私がこのムラヘ来たのは初めてよ。あの人は……さあ、どれくらいになるのかしら」
幾度目か指先が肩口から肘までゆっくりと香油を染み渡らせていき、惨い疵、と小さく口にした。
「悪魔払いでもしたかったの?若サマは」
僅かに女の唇端が吊り上げられた。美貌に、からかうような笑みが浮かぶ。
「その眼を。掻き出されなかっただけ感謝なさい。ナミの言っていた通りね、きれいな翠だわ」
「ナミを知って―――」

「これを、」
ゾロの言葉を遮ると、女が胸元に挿していた草の葉を手に取った。
「身に付けていて。そして日に二度、一葉を口に含んで。でも、嚥下してはだめよ、捨ててしまうの」
言いながら女の細い指が葉を、ぷつりと引きちぎる。いつかと同じ香りが立ち昇り、ゾロが瞬きをした。
「パピエ・ダルメニの葉よ。呪をかけてあるから枯れはしないわ。無くなりもしない」
そう言って、ゾロの胸元に押し当てるようにした。

「世話をかけた」
そう言って立ち上がろうとするのを、声が呼び止めた。待って、と。
「待って。私―――私たち、ナミに頼まれて来たのよ。ここへ」

背後の火が。暖炉にくべられていた薪が崩れ、火の粉が舞い上がった。


5.
石畳の途切れた先は。荒れた黒土の覗く地面と、大きな石組みの名残と崩れ落ちた石が散らばり時間を
経ても尚、そこここに転がる砕かれた石には焼け焦げた痕が残っていた。古い城砦の跡に残るものとは違う、
未だに生々しく疵をみせつけるような景色にサンジは小さく息をのんだ。それでも、この場所には清廉な
気配もそれ以上に強く残っており。特別な場所であっただろうことは容易に像像がついた。

黒土の続く先、それほど遠くない先には森の入り口があった。ぐるりと半面を囲まれ。自分達の抜けてきたのと
同じほど薄暗く、同じほど時を経てきた物なのだろうと思わせた。
ここで待つようにと言い残しゾロは崩れた搭の後ろ側に行き、まだ戻ってきてはいなかった。
森と、墓所しかないような場所だと言っていた。反対側にはきっと、荒れた墓所があるのだろう、そんなことを
思いサンジはゆっくりと眼を伏せた。風が、戻ってきていた。それは自分の両脇を抜け、何の音もさせずに森
へと吸い込まれていく。

ふと、水の匂いを感じた。
自分のすぐ傍らから、まるで小川に足を浸してでもいるかのように。その音さえ聞こえたかと思った。

ぎくりとして眼を上げれば、その先。森の入り口に、―――少女がいた。

眼差しがあい、動けなくなった。
やわらかに、微笑むようだったけれども――――




「サンジ、」
肩をきつく掴まれる感触、これは。この声、
相手の名を呼べば、サンジは酷く安堵した風に髪を撫でられた。
「いつ、もどって……?」
「たったいまだ。どうした、」
「ゾロ、」
間近にある瞳を覗きこむようにした。

「みたよ、女の子だ。わらっていた。あそこに、立っていた」
そう言って、ほっそりとした指先が森の一点を示す。

「あのこが、そうなのか―――?」

蜜色の髪をしていたか、と低い声がまるで囁くようにいった。
「金色の波が、体の横を流れ落ちるみたいだった」
眼をあわせたまま、そう言葉に乗せた。

そうか、おまえに会いに来たのだな、と。ゾロが言った。

おれはな、約束していたんだよ。あれと………妹と。妹の亡骸と。
いつか、必ず逢いに戻ると。

自分の傍らへとサンジの身体を引き寄せるようにし。
聞いてくれるか、長い話になる、とその頭を抱くようにしてゾロが言った。

「おれは命に代えても護ると誓ったものを亡くしたんだ、この地で。きっと連れて行くと約束を交わしたのに、
それさえも違えた」
ゾロ、と呼びかけるのに、腕に一層の力が込められた。
「だから。あれと最後に交わしたものは、守りたかった」







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