4.
「そのヒトは―――、」
「エースか?」
「うん、」
暗がりの中、見えなくとも自分の背後にある存在が小さく揺れたのを感じた。そして、やがて届いた笑みの気配に
僅かばかり安堵した。
「そのヒトは、いまは―――?」
ああ、あいつなら存命だ、と背後から声が届いた。
「益々食えない男になっている。薬師も、まだ共に在ると思う」
そうか、それならばいい。なんとなく安心した、とサンジが答えれば。不意に下へと降り続けていた動きが
止まるのを感じ、振り向いた。
「どうした―――?」

聞いてくれるか、と。暗がりの中、在りえないほどに翠に光が乗せられた。燐光よりもなお。
そして、腕がゆっくりと伸ばされた。
「なにがあろうと、おれはおまえを愛しく思うだろう」

腕を取り、そっと掌に唇で触れることしかできなかった。
「うん、」






館の大門を抜け、誰もが寝静まった中それぞれの私室へ向かおうと広間の前を通り抜け別れかけたとき
薬師が回廊の中央に立っていた。
「おかえりなさい、ゾロ。エースも」
「ああ。無事、生きて連れ戻しただろう?冒険譚は明日話してやるから」
にかりと不死者が笑い、ゾロの頭に手を落としてくると、すかさずその掌の下からゾロは抜け出した。
「あ。恩知らずが」
「うるさい」

「無事でよかったわ、ゾロ」
ふわりと眼差しを和らげた薬師が2人へと歩を進めた。
ただいま、と柔らかな笑みに言葉を返し、ゾロもその場を離れようとした。
けれど、ああ。じゃあ、ロロ。オヤスミ、と聞こえた声と共に消えるかと思えた不死者は、ひたり、と上衣の背を掴む
たおやかな指に押しとめられていた。

「―――ア?」
「あなたたち、すぐに湯殿へ行ってちょうだい」
え?ともう一度不死者が問い返していた。
「ひどいにおい。埃だけじゃないわ、屍の臭いまでさせているじゃないの」
「あー、そりゃあ、我が愛しの君。墓暴きの後だから少しは―――」
「いいから二人とも」
ぴしりと薬師が言葉を断ち切った。不死者が軽く肩を竦めて見せていたがそれは数刻前までの同じ男だとは
思えないほどの、酷く穏やかな所作ではあった。
「ならば部屋に湯を―――」
「いいの、あなたもお黙りなさい、若サマ。寝付いた召使を起こす気なの?どうせ自分で湯を用意する気など
ないんでしょう」
「あー、ロロ。それ以上逆らわない方がいいぜ?」
唇を吊り上げて不死者が笑った。
鼻腔の前へゾロが腕を持ち上げてみても、既に霊廟の空気に馴染んでしまったものか特に不快には感じなかった。
ただ、暗がりでは気付かなかった塵や、蜘蛛の巣の残骸がまとわり着いている様に眉を跳ね上げた。
「早く行ってちょうだい。召使でも起きてきたなら、食屍鬼(グール)が来たかと思われるわ。酷い格好よ、あなた達?
着替えは後で持って行かせるから、早くして」
「ローロ、湯殿は?」
両手を高らかに差し上げて不死者が言った。



灯かりと、脱衣場でくべられている薪のはぜる音が扉の隙間から洩れてきていた。
「ここか、」
「ああ。普段は使われていないがな」
「なぜ?」
「―――広すぎる」
へえ?と不死者が片眉を引き上げた。

上衣を脱ぎ去りながら不死者がわらった。
「オマエじゃなく妙齢のご婦人とご一緒したいところだが」
「だまれ、愚か者」
言い残し、先にゾロが石造りの湯殿に向かった。
円形のひどく大きな浴槽に湛えられた湯水から立ち昇る幕を通し、朧な人影があった。湯女ならば必要ない、
外へいっているようにと声をかければ煙った幕の向こうで笑う声がした。
ゾロ、なにを言っているの?せっかくお姉さんから習って薬湯を作ってあげているのに、と。
「おまえ、」
うん。きょうはね、気分がよかったから、と少女の声が柔らかく響いた。

「ああ、良い香りがする」
不意に後ろから別の声がした。
「やあ、イモウトギミ。顔を見せてくれないか?大丈夫、下衣は脱いでいないから」
また、笑みを含んだ声が続き、ゾロもその頃になって何かの清廉な香りにこの場が包まれていることに気が付いた。
「これは―――?」
「ああ、ビビの得意だ。塵となり入り込んだ不浄を落とす」
「塵?けれど」
「うん、確かに広いな」

水音が勢いよく響き、ゾロの足元にも温水が満ち寄せてきた。
「ハハ!気分が良い」
この声は。どうせ足を投げ出して上機嫌な顔を作っているに違いない。
それに、自分の問いにもう答える気もないのだろうと見当をつけた。ならば、それはまた明日にでも聞けばいい、と
ゾロも湯に身体を伸ばすことにした。

「これをね、作っていたの」
膝下までの丈をした白の夜着をつけた少女が、手に束ねられた薬草を持って煙の向こうからやってきた。
ね?水にも幾つか浮いているでしょう、と言いながら。そして、不浄を清める呪もお姉さんからきょう習ったのよ、
と自慢気に微笑んだ。
「呪をすぐに覚えられたのか」
不死者がからかうような声色で言い、そうよ、とさも当たり前だというように少女が答えていた。
「水にも言祝ぎを与えておいたの。あなたならわかるでしょう?」
さらりと、掌に水を掬い上げてもそれはただの水でしかないと二人の交わす言葉を聞くともなく聞きながらゾロは思って
いたが。やがて、低く交わされる言葉に、意識を向けていった。



「イモウトギミは幾つになる、」
不死者が長く浴槽の縁に腕を伸ばし口に出した。兄と不死者とに水の入ったゴブレットを渡し終え、縁に座り両足を
湯に浸しゆらゆらと揺らしていた少女がまたわらった。12、もうすぐ13になるの、と。
「そうか」
「ええ」
白い布が水面で揺れ、長い模様を作っていた。

「―――ヒメ、」

ぽつりと。水滴が肩口に落ちてきたかと思った。
「貴女が望めば、この男は全てを投げ捨てるだろう」
ひたりと。二対の眼がゾロにあわせられた。
湯を含み温かく湿った空気のなかにいてもなお、蜜色の光を乗せる髪が揺らいだ。
「うん―――、しってる」
「そうか」
不死者の眼差しが、わずかに細められた。
「ル―――」
「でも、ゾロ?」
柔らかい、制止。
「わたしは、そんなこと望まない」

「アレが望んでもか」
「ええ。そんなのは嫌」
「そうか、」
「うん」

突然、水音が響いた。跳ね散る水滴と小さな悲鳴と。
僅かに咽るような呼吸と、空気を変えるほどの賑やかな笑い声。
「エースッ!」
あきれ返ったような声と。揺れる水面。

自分を湯に引き込んだ者の腕に捉まえられたまま、その胸の前で少女は眼を見開いていた。
その様子が酷く子供染みていたので、ゾロも思わず笑い顔を作った。蜜色の頭の上に、ヒトを食ったような
笑みを盛大に浮かべて不死者が眼差しをあわせた。

「ほら、コドモ。薬湯の気分はどうだ?」
濡れて長い髪を額に貼りつかせたまま少女は満面の笑みを浮かべて見せた。
兄と、不死者に向かって。






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