14. 遠乗りから戻り、駿馬を馬房に引き入れた。 馬丁がそっと引綱を受け取り馬栓棒に結び付け、ブラシを掛け始めるのを、少し離れて見守るように していた。そして作業を続けながら手を休めずに馬丁の低く馬へ話し掛ける声を聞くともなく、聞いていた。午後の陽が厩の入り口から長いスリットになって差し込み、ゾロの足元まで届いていた。 一通りの手入れが終えられ、自分も固く絞った布で駿馬の目元を拭う。その手許に顔を近づけてくる のに小さく笑い、そのとき。 「それはおまえの馬か、」 突然に自分から多少距離を置いた空間にこの男が現れることに、ゾロはもう驚かなくなっていた。 最初に剣を交えてからは、時折思い出したかのように言葉を交わすようになっていた。そして、 なにより不死者に気配や足音のないのは当然のように思っていたから。 「これには近寄らない方が良い」 ちらりと視線だけをゾロは投げた。 それよりも。 陽射しを背に厩の入り口に現れたその影が自分の隣りにいつのまにか立ち並び、自分と馬丁の ほかには決して人を近づかせようとすらしない駿馬が、そのついと主の肩越しに鼻梁に向かって 伸ばされた手に、自分から頬を寄せるようにしたことに思わず眼を見開いた。そして、そのどこまでも 深い色の瞳の不死者が、温和といっても良い笑みを浮かべるのを見た。 「昔から、気性の激しい馬には好かれる、不思議とな」 そう応えて、ふと眼を細める。 「……なにを驚いている?」 「いや、」 相手を映したゾロの双眸に、初めて笑いの影がかすめた。 「おまえ、何者だ?」 「だから、」 「不死者だ、ということはわかっている。おれよりも多少剣の腕がたつこと。デアデビルが おまえを好いていることは。―――おまえは、何者なんだ?」 まっすぐに問い掛けてくる瞳に、永く忘れていた記憶がざわめいた。 そして自分の内で、何かが身じろぎするのを片隅で意識する。 「さあな。おれにもわからん」 前に立つようだった肩を押しやり、外へと向かおうとしたとき、声が背に投げかけられた。 かまわず進もうとし、名前を呼ばれる。ブラムは、ゆっくりと吐息をついた。 そして背後を振り向く。 「なんだ」 「まだ、夕刻までには時間がある。剣の相手をしてくれ」 命を下すことに慣れきった口振りと、それにそぐわない恰好の遊び相手をみつけた子どもの ような笑い顔が浮かぶ。酷く怜悧に大人びた平素のそれとの格差。 「―――いいだろう、剣をとってこい」 自分の答えに、直ぐ戻るから待っていろと言い残し横を走り向けていく姿に、不死者は 我知らず苦笑を浮かべた。 15. ご迷惑ではないのか、と。人気の無い大広間で一人、火をみつめていた客人に領主が語りかけた。 「ああ、領主。なにが?」 「息子のことだ。随分とあなたを"ひきずりまわし"ているようだが」 その端整な貌の眉根が僅かに寄せられるのにブラムが笑みを刷く。 「"引きずりまわす"?」 遠乗りに、剣の相手。気が向けば宴の間も、ナミの他の不死者とは常に一線を引いていたような ゾロが唯一、この不死者には親しくしているのは領主の他の誰が見ても如実に判るものだった。 "妹"が熱をだし、人払いをさせ夜半に熱がひくまでは兄さえも近づかせないようにしていることも、 一因ではあるかもしれないが。 「この"ムラ"には同じ年頃の者が見受けられない。丁度良い遊び相手とでも思われているのだろう、」 軽く首を傾けるようにする。 「案じられるな。おれもたしかに面白い」 「ならば良かった」 領主に穏やかな笑みが浮かべられる。 「―――領主、」 低い声。 「あなたの曾祖母は、おれの許婚だった。まだおれが、剣に生きようと思っていたころの話だが」 「そのようなことがあったとは、」 驚きを含む声に、知っている者はあなた方の間にはもう誰も生きてはいない、と静かに不死者が続ける。 「だからかな、」 僅かに俯くような貌に髪が落ちかかる。 「おれはあの眼で頼まれると、否やとは言えない」 そう言ってブラムは笑った。ひどく、楽しげに。 「どうだ、具合は」 妹の部屋から出てきた女に廊下に佇んでいたゾロが声をかける。 「もう、熱は下がられました」 「そうか、」 軽く膝を折り会釈をすると遠ざかる背中をしばらく見送り、ゾロは閉ざされていた扉を開けた。 「もう、良いのか」 高く積んだ枕に上体を預けた小さな姿に近づく。 「うん。随分と、らくになった」 そう答える少女の頬はそれでもやはり、どこか尖った線を描くようになっておりゾロの方が息苦しくなる。 この不規則な発熱は、身体が変化する兆しをみせているのだと。母に教えられた。その言葉に、 両親は妹の"サキヨミ"の力を確信しているのだと、ゾロは思い知らされた。自分がどれほど何も 知らないのかも。そしてそれは、そう遠くない将来、妹が"塔"へ移されることを意味する。 自分の微かな記憶にある、先代の"ヒメ"。その姿をぼんやりと思い出す。 妹が、あのようなモノになってしまうというのか―――? その思いを振り払うように、剣に打ち込みはしても。夜半にはやはり、妹を見舞っていた。 「ねえ、ゾロ、」 「なんだ?」 丈の高い寝台の傍らにイスを引き寄せる。 「不死者の心の中は、みんな。淵みたいに底のない部分があるのを感じる、」 「ああ」 枕に散る髪を、丸い肩にゾロは指先で流した。 「それは、ナミにもあった」 ゾロは頷く。最後の宵にナミの語った言葉を思い出していた。自分などの思い描くことの叶わない ほどの、孤独。 「でも、」 きり、と熱で赤く色をのせた唇を少女は噛みしめ。 傍らから手を伸ばし、それを止めさせる。そして問う。 「―――ブラムのことか?」 「うん」 あのひとは、すべてが冥らくて深くて自分はそれが怖いのだと、小さく続けられた。 「あの男の剣には、迷いは無いけどな」 自分の言葉が、僅かに相手を庇うようなのにゾロは気付かない。 「太陽が全て隠されてしまったときのこと、憶えてる?」 「"蝕"か、2年前の」 それがどうかしたか、と続けられた。 「まっくろの太陽の縁だけが、赤くひかっていたでしょう」 ああ、と答える兄の手が、まるで自分をあやすかのように肩をかるく撫でるのを感じていた。 「ゾロといるときだけ、あのひとの心のなかはああいう風になってる」 言い終えると、翠の双眸をみつめる。 そしてそれが、ふわりと穏やかになるのを、眼にした。 黙って頬にかるく接吻すると、一瞬だけ妹を抱きしめ、ゾロは出て行った。 ああ、このひとは何もわかっていない、と少女が小さく身体を震わせたことなど知らずに。 「ミコヒメの具合は、」 「あいつは、ヒメなどではない」 広間でまっすぐに火をみつめる。 革張りの長椅子に腰掛けていた姿が軽く肩をすくめるのを、壁に映る影でゾロは知る。自分が 広間に入ってきたとき、杯を片手にしたその姿を認めてなぜ安堵に似た気持が起こったのか、 深くは考えなかった。ただ、安堵したのだとそのままに受け止めていた。夜毎にナミの姿を認めて 自分が嬉しかったのと同じだろうと。 「おまえ。"始祖"の血統に生まれてきた運命は、変えようのないことだぞ」 氷の張った水面のような声に、ゾロは知らずその持ち主をみつめる。 「憶えておけ、変えようのないことは往々にして起こる。流されるな、けれども恨むな」 外から、まだ衰える事を知らないざわめきが広間にも届く。 また、知らぬ間に自分の傍らに影のように近づいた姿を見上げる。 不死者が僅かに、瞳を閉じるようにし外の物音に聞き入るようにした。 「恨んでしまえば、我らは。自らを滅ぼすほかは無くなる、」 「おまえは、恨むな」 「なにを―――」 「もう、休め」 ふわりと。何かが自分の唇を掠めたと思うのと同時に、暖炉の火が落ち。 広間に、一人残された。 next going back back to story five |