16.
口接けられたのだ、と気がつくまで時間がかかった。
暗がり。外はまだ樂の音が絶えていない。
羽根のようだったそれ。形良い眉根が気難し気に寄せられる。
がたりと。椅子が鳴った。



居室は判っていた。奥まった位置にある広い部屋を目指し、途中、何人かの使用人とすれ違う。
ゾロの行く先がわかったのか、もうお休みですよと物柔らかに語りかけてくるのに、ただ頷いて
返答とし。やがて現れた、閉ざされていた扉を声も掛けずに押し開いた。
ゾロの眼の端にちらりと、無造作に小卓に投げかけられた菫色の絹のガウンが映った。
これの持ち主は知っている、酷く華奢でいて美しい、母親の側に仕えている女だ、そう思いながら
寝台に向かって呼びかける。



「ブラム。話がある」
「とりこみ中だ、」
天蓋から下りる織物の背後で一人ではない気配がした。密な空気。
すいと近づき、その布を引き開ける。



「すまないが、外してくれないか?」
そして、呼びかけた相手の腕の中にいる美しい女に向かって言葉を続ける。長い睫に縁取られた
薄青の瞳が驚きに見開かれるようだったが、直ぐにその顔に朱が刷かれた。腕の中から離れ、
薄物を纏い慌てたように寝台を下りる女には眼を遣らず、不死者は足元に立つ姿に眼差をあわせる。
ゾロの背後で、音もたてずに扉が閉ざされた。



「行儀を知らない若君だな」
からかうような声。
「構わない。ここは父の館だ」
少しは構えよ、と笑いを含むようにブラムが言った。



「ブラム。寝台から下りてきてくれないか。これでは話も出来ない」
「おまえが、服を脱いでこちらに来れば良い」
自分の傍らに空いてしまった場所に腕を伸ばしたまま、不死者の薄い唇が笑みを模る。
かるく肩を竦めるようにすると、ゾロは着衣のまま寝台に片膝を乗り上げ、真近で問い掛ける。



「さっきの接吻は、なんだ?」
「あれか。意味などない」
その返答に、ゾロが片眉を引き上げるようにするのを、ブラムが笑みを湛えた眼でみていた。
「そうか。ならば良い」
今度は、ブラムの片眉が跳ね上がる。
「"良い"だと―――?」



「ああ。おれはおまえが気にいっているが、想いなどかけられても返せないからな」
「成る程。おれもおまえが気にいっているが、その場合はどうなる?」
「別に何も。次におまえがここを訪れた時には剣で負かしてやる、それだけだ」
ゆっくりと伸ばされた不死者の冷たい手、その甲が自分の頬に数度触れるのを感じる。



「ならば大人の邪魔などせず、部屋に戻って眠れ」
ああ、その前に。さっきの女も連れ戻してくれればありがたいがな、とブラムが付け足す。
「おまえ、ひとのことを子どもだと思っているだろう」
「数え年の15など。まだ子どもだ、」
触れてきたのと同じほどの時間をかけて、その手が離れる。
「そうか」
「そうだ」
翡翠の双眸が、悪戯気に光をのせた。



「ならばおれはここで眠る。部屋まで戻るのは面倒だ」
「冗談が過ぎるぞ、戻れ」
「気にするな、子どもの気紛れだ」
ゾロが長靴を寝台から床に投げ下ろし、にやりとわらった。そして襟元を寛げると半ば横たわった
ままの身体を乗り越えるようにして寝台の端に移ると高く積まれた枕に頭を預け、女の髪はあまい
匂いがするな、とのんびりとした感想を漏らした。



「なるほど、自分が追い出した女の代わりにおまえが伽をするか、」
「伽?さあな」
「生憎と。おれは抱くなら女が良い」
「おれも、組み敷かれるのは性にあわない。退け、」
自分の肩を押さえ込み、真近に覗き込むようにする相手にゾロが眼をあわせる。
小さく吐息をつき、唇の触れる距離まで不死者が顔を寄せる。



「おまえ、おれに口接けられたのがそれほど口惜しいか……?」
「当たり前だ」
降参だ、とでもいう風に不死者が両手を差し上げた。
「好きにしろ、」
言うと、自分も隣りに身体を投げ出しブラムは眼を閉じた。
「そうさせてもらう」



声が自分の上から落ちてくるのに眼を開ける。
笑みを刻んだままの唇がせつな、重ねられた。
「返礼だ。これでまた対等だな」
「おまえ、好奇心は身を滅ぼすという言葉を知らないのか?」
「おまえが?だれを滅ぼすって」
笑いかけられ、一瞬、瞼を閉じる。おれが、おまえをだよ、と。渇きが込上がるのを、飢えは満たされて
いるはずなのに渇いているのを感じ取る。限界だな、と自嘲にも似た思いで。







17.
今日は遠乗りに出て行くな、との父親の言葉にゾロが眉を寄せた。
「何故、」
「頭首が到着される。おまえも、お迎えするように」
朝食を取る長い卓には、自分たちの他だれも同席していなかった。また、妹の熱が酷くなり母親も
給仕をする女中もその自室へと世話に向かっていた。
「間もなく着かれるのですか」
首が横に振られるのを確めると、席を立つ。待ちなさい、との声に扉の側で振り返る。
夕刻までには戻るからと告げ、そのまま出て行く姿を無理に引き止めることを領主は諦めた。
苦しんでいるのに何もしてやれず、側にいることも許されないのであれば屋敷を離れていたくなるのも
仕方のないことかと。



二頭の駿馬が立ち並び、響いてくる鋼の打ち合わされる音に時折、その耳を小刻みに震わせていた。
やがてその音が止み、首を差し上げても自分たちの名が呼ばれないのにまた草を噛み始める。
穏やかな午後に、風がそのたてがみを柔らかく撫でていっていた。



「出て行く……?」
「ああ。おれにしては長居した方だ。”ここ”を出て以来、これほどまでに留まったことなど無い」
驚きに双眸が見開かれるようなのに、そう答える。だから、剣の相手をしてやれるのも今日で
最後だ、と。
「頭首が、今日には到着すると父上が言っていた。逢わずに行くのか?」
「そうだな、ならば益々丁度良い。おれは、あの方は苦手なんだよ。勝てた試しが無い」
剣を片手にしたまま冗談めかしてそう言うのに、ゾロはただじっと相手をみつめている。



「最後だから、不死者の見分け方をおまえに教えてやろうか」
そう言った。次に逢うまでにおまえが好奇心で身を滅ぼしていたならつまらないからな、と。
「眼だ、」
長い指が己の左眼を指す。
「虹彩の彩りがガラスのように光を返せば、それはヒトではない。そして、瞳の中心がネコの
それのように細まるのであれば、それは不死者だ」



何の疑いも持たずに、その双眸を真近でみつめていた。
剣を傍らに置き、幹に凭れ汗の薄く浮いた肌を抜ける風が熱を奪うのに任せていた。
ただ、その変わる色彩をみるともなしに、みつめていた。



「おれとおなじ瞳を持つものがおまえの近くに来たならば、気をつけることだ。食されるぞ」
「―――な」
その言葉に身を起こそうとする。
「不死者のことをおまえは知りたがっていただろう?おれが教えてやろう」
そう言って、すいと貌が近づく。



「おれは、考えていたんだよ。ずっと。おまえを取り押さえて組み敷き、抗うおまえの血を味わうのは
どれほどの快楽だろうかとね」



「不死者はな、いつも餓えている。糧となるものと、欲するモノとが等しい場合など滅多に無いからな」



視力が、捉えることができなかった。
ガラスのような光を返すその爪が自分の喉元へあてられるのを。
思わず、息をのむ。



「触れる、相手からその生命の上澄みだけを汲み上げる、普通は」
「はなせ、」
すう、とその瞳孔が細まった。
さわりと。何かが自分のなかから抜けていくような感覚が足元から首筋まで遡る。
「やはり、おまえは美味いな。思ったとおりだ、」
穏やかな口振で続けられる。



「気に入れば、もっと深いものを味わうこともある」
その爪が角度を変え、指先が血の流れを辿るかのように首筋を這い。



背の中心を伝い落ちる痺れ。
痛みとも快楽ともつかないものに息がつまる。
「ああ、気が変わった。おまえを食そうか」
言葉を紡ぎながら、舌先が唇を辿り。唇を割って入りこんできたことにも気付かないほど
瀬戸際まで追い詰められたような波が引き起こされ、潮が満ち指の触れた箇所から長く
余波を引きずり、うねるように悦楽の流れていくのにきつく瞳を閉じていた。自分の手が握り
締めているのが太刀であると意識するのと、不死者の手がゆっくりと放されたのは同時だった。





「―――お、まえ……っ」
半秒にも満たない瞬間、剣先は止まるのだと。
頂点から一気に振り下ろされる瞬間それは虚空で静止するのだと、知った。
確かに肩口に刃先が沈んだ感覚が伝わってきたのに、そのまま骨にあたりその硬質な抵抗と、
肉を裁ち引き降ろす感触すら剣が伝えてきたはずが。



それが、ふわりと。後ずさり。
自分の半身を、斜めに浅く切り裂く刃の痕に初めて気付いたかのように"嘲った"。



「おやおや。血族について教えてやったというのに、」
歌うような口調。
「失せろ。」
酷く楽しそうな笑い声。
「どうやらご機嫌が悪いようだな―――?」



その声に視界が歪み、瞬間、意識が浮きかける。
ほんの刹那の空白、その間に真近に引き込まれていた。
歯噛みするも、掴まれ縫い止められたように腕すら動かせず。指の間から、太刀が抜け落ちていく。
「そう、悔しがるな。おまえはただのヒトの子に過ぎないからな、少なくともいまは」
その虹彩が拡がり、色彩が変わり始める。
「手に入れることが叶わぬなら。奪うまでだろう?」
「だれが――――」
「おまえは。まだ抗うか、面白い」



髪に手を差し入れ頤を反らせ、まだ"子ども"のすんなりとした線を残す首に、唇を寄せる。
自分を押し返そうと抗うのを笑い、僅かに切っ先をあてがい、極薄く、ゆっくりとその薄い
皮フを噛み破る。



腕の中の身体の微かに弾かれるような動きに、口中に拡がる熱を持った雫に首筋に当てた唇を
引き上げた。更に深く貪ろうとする本能と、破滅の縁に自ら足を掛けるのかと自嘲する理性と。
永過ぎる生だ、それもまた悪くない、との自分の思いの狭間で笑みを深く刻む。直系の、血である
のだから。甘美な事などわかりきっていた。想いをかけても手になど入らないことも。いずれ、この
身体も、自分と同じように変成を迎えるのだろうと。その血を口に含み、確信する。



そして直接に語り込む、これが不死者の正体だ、と。触れている間の交感を通して。
目も眩むほどの言葉にならない拒絶が還されるのに、また、笑いかける自分がいるのを
どこか深く、舌の上にあまく流れ込んでくる血の味と意識に酔うかのように、感じ取っていた。
瞳を開いていても、色彩の渦を瞼の裏に感じる。ああこの子どもは生命に溢れているのだと。
ほんの瞬きの間、牙をいっそう深く挿し入れる。



苦しげに息を呑む音が耳に届く。その音に、微かに混ざる苦痛以外の物を認め
反り返るような背に腕をまわし、まるで愛撫するかのように抱きとめる。
瞳を閉じて、口中に拡がる熱に酔った。ほんの、数滴。



膝を地に着くこともできずに、そのまま崩れ落ちるように。腕が離され、倒れこむ。
さらりと。何かが、自分のカオをかすめるのを、沈みかける意識がそれでも拒絶する。
「……さわ、るな」
首筋を伝う、熱を持った液体の軌跡を指先が追い、掬いとり口許に塗り込められた、そして
ふれてくる唇と舌がそれをすべて絡め取り。
また、視界が色を失った。








一人、残されたのだと本能が告げてくる、もう安全だと。
自分を迎え入れた地面の、草の感触が手に頬に感じられても。
腕を付き半身を起こす事さえ出来なかった。












草が揺れた。
自分の頭上近く。そして。多分いま、
喉にほど近い、首許を鋭い刃先が切り開いたのだと理解した。再び流れ出ていくもの。
―――ちくしょう。



眼を開くのに、暗い闇に飲まれていくだけのような。
そのとき。――――声が。



「許せ。あれは、限度を知らぬ」
深い、声が届いた。地の裂け目から響いてくるような。
そして。切り裂かれた傷が、その口を閉じていくのを、感じた。






パピエ・ダルメニ。
アルメニアの秘薬の香りが、拡がった。








「不浄を、受け入れてはならぬ」









氷の熱が、滴となってあたる。口許。唇へ散る。
肌にあたり、その滴の飛散していくごとに秘薬の香りが強まる。








「―――――しばらく見ぬ間に、ヒトとは成長するものだったな」













風。
打ち鳴らされる梢。
頬に触れていた草。反転した空。
夜より黒い人影。
そして暗転する。深い淵へと。








18.
自分の両脇で、音を立てて流れるように緑が揺れる。
足下に感じられるのは、遥か以前には石で舗装されていたにちがいない道の名残。
「この先には―――?」
サンジがそっと問い掛けた。
「"塔"がある、」
なだらかに目前に広がる景色に、そう呼べるほどの高さの物が何もないのに僅かに眉を
寄せるようにするサンジに、ゾロが微かに笑みを浮かべた。



「通り過ぎてきた廃墟と一緒だ。その名残だけがある」
その声に含まれる物に、サンジが思い出すのは。何も語らずに、その場所を過ぎながら
それでも傍らにいる自分が息苦しくなるほどの痛みに似た感情がゾロの中に興ったこと。
その廃墟で、待っているという。
「どうして、」
言葉を紡ごうとするのを、唇にゾロは指を滑らせ留める。



「"塔"は、東北の境に建っていた。墓所しか側になかったような場所だ。すぐ後ろにはもう"森"が
迫ってきていた。その森には、"守護"がいた。まだ滅んでいなければ、それも待っているはずだ」
「それは、おまえの妹を護っているのか?」
「違う、」
翡翠の碧が、深い色へ変わる。



「おれの妹を護っていたのは、"守人"だ」
「モリヒト?」
「そうだよ」
そのまま、頬を伝い髪に手を滑らせた。
「おまえには、まだ伝えていないことがたくさんある」







ふと、自分たちの両脇をすり抜けていくようだった風が"変わった"、と。サンジは思った。
ゾロの瞳が少し離れたさき、そこへ突然のように現れた石畳の小道を捕らえていた。
「この先だ、」
サンジの眼も捕らえていた。その道の続く先に、ぽかりと緑が途絶え土が剥き出しになっていること。
そして、崩れた石組みを。








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