Step 5-2
船に近づけば、見慣れない簡単なタラップが立てかけられていた。長い歩幅で何段もそれを抜かし
甲板に足を着けたとき、不覚にも自分が硬直したことを偽紳士は悟った。自分の方を向いてはいない、
少し離れた所に佇んでいたモノに。
すっかり暗くなり、わずかに海の際に薄明るい藤色を残して暮れてしまった空の下に。
明るいと先に思えたのは気のせいではなかったのだと。紡ぎだされたそのままの繭色をした絹の濡れた
ように艶を含んだ光が、包み込んでいた。普段は目になどしない裸の肩が当たり前のように、自分の手が
覚えているのと同じその線を見せていた。首から肩、肩から背へと続いてゆく流麗な流れ。
「まいったな、」
呟くと一歩を踏み出した。
コツリ、と軽く踵の甲板にあたる音にその姿が振り向いた。
じっと見つめられてしまうと非常にバツが悪い。
なにしろ自分は顔の仕上がりどころか全体像さえロクに鏡で見せてもらっていないのである。そうこうする
うちに視線が泳ぎかけ、負けちゃならねえときりりと目線を戻す。そしてまたひどく真剣な様子のミドリ眼と
ぶつかり内心でうろたえる。
なんだなんだいったいどうしたんだ?と。ばたばたいう自分の心音にさえ仰天だ。
落ち着け、落ち着くんだ自分。クソォ、詐欺だ。クソカッコ良いじゃねえかよチクショー。なんなンだよこの
「生まれた時から着てました」みてえなリラックス振りは!!おまけになんだあのタキシードは!ミッドナイト
ブルーってか、心底イヤミったらしいぜ。大人しく黒にしとけよ!てめえそうじゃなくても根がロクデナシなん
だからよぉ。なんでブラックタイのくせしてあんなに垂れ流しなわけ色気が!!ああわかったクッソ、
ジャンニだな。カンパーニャかよ、ヴィーダ、やりすぎ……確かに獣だし撓るしキレもあるしイイ身体して
やがるけどさぁ。けどなあ、これは反則だっての。こんなン、連れてっていいのかよ?目があっただけで
オンナノコニンシンしちゃうぜ?!おれァしらねえぞ?!しらねえからな!
一方、そのまあ酷い言われようなオトコはといえば。
時折わたる風の冷たさに内心溜め息をついていた。そして、さらりと上着を脱ぎ。問答無用で剥き出しの
肩に羽織らせた。
はさりと、突然に肩の辺りから温かくなったのにサンジがぎくっとし。
ようやく事態を認識する。なんだと?!なにしてやがるんだコイツハ!!おれァレディじゃねっての!!
おまけにこんなこたァおれ教えてねえぞ?!
くあああああ、と一人でじつは脳内大恐慌に陥っているなどとは。
憎たらしいくらい完璧に平静を保っているクールビューティ顔からは窺い知れない。
吃驚しすぎて却ってまっさらだ。
ゆっくりと息を一つつき、ようやくゾロが言った。
だんまりじゃあ、自分に分が悪すぎると踏んだのであろう。
「迎えに来た、」
「……ンだよ、遅えよテメ―――」
ぴし、と固まってしまった。サンジが。
なぜか。
すい、と袖口からちかりと銀に光を返すカフスの覗く腕が伸びてきて頬にそえられ、それがさらりと
髪に差し入れられたので。
「……おまえ、かみ?」
「―――んー、ソレな、付け毛。重てェの」
「ふうん、」
指先でなにやら確かめている風。
「変わらねぇな」
「アホ。そのあたりはおれンだよ」
「そうか」
にこり。
え??いま、にっこりって、コイツ?え?サンジがまたまたウロタエル。
ところがサンジといえば。ティティの手により前髪もすっきりと額がでるようにサイドに緩く流されて溶け込ま
されており。微かに空気を孕むように、ひどく柔らかなラインを描いて項の線を印象付けながら長い金の髪も
まとめ上げられていた。そんな風情の自分がうろたえてしまえば可憐にもみえてしまおうものだってことは。
ご本人様ばかりが預かり知らぬこと。
「見た目のワリには取るものカンタンだとさ」
すぐにでも取りたげな勢いでそれでもサンジがにやり、と答え。
それに応えるようにやわらかに目元で笑い。
「―――化けたな」
ゾロがわずかに節を付けるようにして言葉に乗せ、名残惜し気に腕を戻した。
「―――てめえもな」
唇端を引き上げ、いつものように笑ってみようとしても、それがどう贔屓目にみたって「花の綻ぶような」
微笑にしかみえない。それはきっとふわりと色をのせられた目元や、微かに上気したようにも見える絶妙な
頬の色のせいかもしれないが。
見慣れている筈なのに、別人。
そんなモノを前にして妙な居心地の悪さの混ざったような、それでいてどこかあまったるいような面妖なモノ
を感じながら腕を伸ばした距離を隔てて二人ともが立ち尽くしていた。しばらくの間。ナミがどこかでみていた
ならば、なに初々しいことしてるのよと大笑いしたであろうことは必至。
「いくか?」
偽紳士がわずかに首を傾け。
「―――あ、うん」
極上の美人が瞬きした。
「ああクソ!面倒くせえっての」
船から降りようとするのに、長く裾が後を引くのに苛ついたのかいきなり裾を片手に盛大にたくし上げ、
膝上近くまで絹を引き上げたまま片足を船ベリに掛けたのに偽紳士が硬直する。
「アホ、テメエ!」
「……あン?」
普段の口調で来られても。外見は完璧に美人を飛び越えているのだからタチが悪い。
おまけに船縁に足を高く掛けているものだからおいおいおいおい、薄い絹に包まれちゃったおミアシが
露わだぞ。いいのかサンジ。そして図らずも見えてしまったのはオトコの煩悩直撃アイテム・リストのベスト
スリーには必ずやランクインされている例のモノ。
このまま硬直して良いものやら、もっと笑うべきなのか、それともここはいっそ本能の赴くままに突き進む
べきなのか。笑いを頬に紳士らしく刻みながら瞬時にして考えた。
「おまえなァ……、」
まさにピンポイントで直撃をしでかしたご本人サマはまだ足をかけたまま振り向いた。
「なン?」
「ナリは完璧なんだ。仕舞え、アホ」
ゾロが。ぱしりと小さな頭にやさしく手をおくと、絹の感触の足首に手をかけそっと下ろさせる。
思いがけない仕種と、ひどく物柔らかな扱いにサンジの方がこんどは動けなくなった。
普段なら、軽く握ってそのまま宙へ放り投げるようなアツカイが。
いうなれば、いったん掌で受け止めてから、ゆっくりと地に下ろすまでの差だ。
「……バッ―――」
真っ赤。
「バカはてめえだろ」
にやりとミドリ眼でわらいかけられても、ペースが狂う。
「おっ、」
「おりるか?」
「―――先手ばっかとりやがって、てめえ!」
「おまえが言ったんじゃねえか」
「アァ?!」
「"レディの後手に周るような野暮はすンな。"」
たしかに、教えた覚えはあるが。それも随分ムダに気合入れて対レディのアツカイは教えた覚えはあるが。
まさか対自分用だとわーーーーッッとサンジが叫びだしたのを。
「ほら、だまれ」
ついと引き寄せ、偽紳士がかるく抱きこんだ。
「美人なんだから、イイコにしてろよ」
腕の中の美人は今度こそコーチョク。
適度に固まったのをいいことに、偽紳士はさっさと美人を抱え上げたたままタラップを降りていってしまった。
黒塗りのバックシートで。
今更に「美人」がなんともまあ!というほどに真っ赤になってしまっていたことは言うまでもなし。
静かに、窓の外を景色が流れて行っておりました。
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