バスルームは快適な温度に保たれ。
何も纏わない肌はさらりと表面を冷まされる。
それでも冷め切れない熱。
消えることのない情熱。
シャワーから水が出る音。
それより強く響いてるように感じる鼓動。
流れ出る湯に皮膚を曝し。
ジンジンと痺れる脳を落ち着けようとする。
すぐに扉が開き。
エースが入ってきた。
力強い筋肉を纏ったオスの肉体。
均整の取れた、オトコの身体。
眩暈がしそうだ。
「いいかな?」
ちっとも悪いと思ってない声が言って。
笑ってエースに手を伸ばした。
するりと寄ってきて。
熱い皮膚が直接重ねあって、飢餓感が募る。
「ダイジョウブ、リヴェ?」
水に濡れた髪を漉いて。
エースが覗き込んできた。
「あんた、なんか痛そうな顔してた」
抱き込まれて。
首に手をまわす。
すぐ近くで覗き込む目。
優しさと欲情を混ぜた眼差し。
キラキラと輝いて、ワタシを見詰める黒曜石の双眸。
「…ダイジョウブだ、エース」
微笑んで。
「…どうしようもないくらい、オマエが好きだと思っただけだ」
伸び上がって口付けると。
目が柔らかく蕩けて。
すぐに応えられる。
甘い気持ちになる。
濡れる背中を、オトコの手は滑り。
触れられた先から、感覚が目覚める。
オトコの広い背は力強く。
下腹部に触れる昂ぶりは、火傷しそうに熱くて。
遮るものがないまま、全身で触れ合うことの喜び。
冴えた指先や唇で、このオトコを知ることの歓び。
遠慮を知らない指や唇に、暴かれることの悦び。
快楽が、触れられる先から生まれ。
じわりじわりと思考を侵す。
熱い吐息ばかりが零れて。
身体まで蕩けて甘くなる。
まだ足りなくて。
もっと欲しくて。
舌で。
唇で。
指先で。
喘ぐ声で。
先を強請る。
意識して煽る。
ワタシを満たして、と。
♪♪☆
シャワーを止められて。
外への扉を開けられた途端、篭っていた水蒸気が逃げ出して。
急速に開けてくる視界に。
気恥ずかしくなる。
タオルを取って、渡すと。
ファサ、と布が広げられる音がして。
タオルで背中から包まれる。
そのまま、抱きしめられ。
「なんか、おれ。あんた抱き上げてばっかりな気がする」
「はは」
そう言った先から抱き上げられ。
「ケド。おれがあんたを運びたいって、思うんだ」
「…そうか」
くったりと寄りかかりながら、肩の上から見える臀部だとか、踵だとかに。
笑ってしまえるくらいに欲情を覚え。
背中をソロソロと指で触る。
「リヴェ、こら。くすぐったい」
笑って、脇の柔らかいところを甘噛みされ。
決して遠のいてはいなかった快感が、ビリビリと拡散し。
クスクスと漏れる笑いに、喘ぎを滑り込ませた。
「はーい、到着デス」
する、と下ろされて。
ベッドの端に、腰をかける。
そのまま、エースの首を引いて、身体を引き寄せて。
「おれ、濡れてるよ?」
笑いながらタオルを取るエースの首に、同じように笑いながら噛み付いて。
更に湧き上がった笑い声が、直接喉から響いてくるのを楽しんで。
ぺろり、と舐め上げ、小さく溜め息。
そのまま、上体を押し倒されて、今日何十回目のキスを交わす。
軽いキスを、何度も交わして。
指が露わになった身体を辿っていく。
左側の乳房が大きな手で包まれ。
キシ、と僅かにマットレスが鳴いて。
オトコの両足がワタシを挟んだ。
口付けが解かれ。
替わりに頬を指が滑って。
唇を叩いたソレを、口腔に迎え入れた。
僅かに甘い皮膚。
ザラザラとした指の表面。
爪のエナメルは、舌先に冷たく感じて。
くちゅ、と音を立てて吸い付いた。
エースの手は相変わらず乳房を離さず。
かわりに体がずらされて、ゆっくりと下降し始める。
舌が、唇が、やわやわと這っていき。
上がるばかりの息に、エースの指を齧って。
くす、とエースが笑った声がして。
辿り着いた反対側の乳房を食んだ。
オトコの指を舌先で追い出して。
黒髪に手を入れて、掻き混ぜる。
残っていた水滴が、熱くなった身体に降って。
身体が震えた。
宥めるように、脇腹を空いた手が撫で下ろして。
その濡れた感触が、外気に冷えていくのを。
敏感になり始めた皮膚で味わう。
エースの舌が、尖った先端を避けるように、乳房の上で遊び。
そのじれったさに、くしゃり、とオトコの髪を混ぜる。
くく、と笑い声が漏れて。
ぺろり、とそれを舐められた。
舌先で転がされ。
きつく緩く舐られて。
上ずる息に、とまらない声が漏れ始め。
意識が快楽だけを追うようになった。
空いた手は、身体を滑り始め。
太ももを擽り。
内側の柔らかいところを、何度も何度も繰り返して辿った。
漏れる吐息。
零れる声。
気持ちイイから、頭を撫でて。
もっと欲しくて、背中に爪を立てる。
空いている方の足で。
エースの足から尻にかけて辿る。
そんな仕種を戒めるように。
かり、と歯を立てられて。
そこから身体の中心に向かって、電流みたいに快楽が流れた。
思わず声を上げると。
「…イイ、リヴェ?」
くぐもった声が訊いた。
バカ、と答えたかったけれど、コトバを紡ぐことが出来ず。
溜め息を零しながら、キリ、と背中に爪を食い込ませた。
♪♪★
乳房が好きなのは。
オトコもオンナも基本的には一緒だと思う。
やわらかい膨らみは、母を連想させるから。
膨らんだ乳房は、安心を与えるから。
生まれる快楽。
飽くことなく触れられて、舐られて。
擦れた声は、静かになった部屋に篭り。
けれど、その疼くような感覚とは別に。
酷くいとおしい気持ちが生まれる。
このやさしいオトコを、やさしく包みたくなる。
背中を撫でて。
熱い吐息にオトコの名前を滑り込ませる。
愛しさも。
切なさも。
全部、それに混めて。
「…甘いな」
エースが笑って。
イタズラな指が、そろりと中心まで伸びてきた。
「イイね、リヴェ。もっと感じて?」
エースの上体がゆったりと降りていき。
唐突に縋るものを失った手が彷徨う。
ひんやりと冷たいシーツに落とし、その冷たさに振え。
それでも他に縋るものがなく、滑らかな生地を握り締める。
「もっと声、聴かせて…」
足を割られて。
日に当たらない内腿の柔らかいところを吸われた。
身体がサカナのように跳ねて。
そろりと濡れた中心を撫でる指に、思わず声を上げた。
「…いー声。低くて病み付きになる」
はしたないとか。
恥ずかしいとか。
喜んでほしいとか。
もっと煽られて、夢中になって欲しいとか。
矛盾した感情が、白く霞んだ頭にコトバを浮かび上がらせ。
けれど、それらを形付けられるほどの余裕はとうになく。
このオトコが求めるままに、歌う羽目になる。
コドモのように無邪気に告げるオトコの声とは裏腹に。
遠慮を知らない指は、潤んだ泉と膨らんだ先端を弄り。
敏感な場所を探り当てて、開いていく。
ダイレクトに与えられる快感は、脊髄を駆け上り。
頭がその刺激に痺れ、白く霞んでいく。
甘い痺れは、四肢を駆け巡り。
指はシーツを掴み、つま先はネコのように丸くなる。
熱い舌が辿り着いて。
ぺろりと舐め上げられて、身体が跳ねた。
とうに蕩けきっていたと思った体が、その形を思い出し。
けれど、熟れすぎた果実のように、難なく弾けて。
抑えがたく、蕩け出した蜜が溢れ出る。
焦らすことを知っている舌先は。
時々ダイレクトに、時々すこし外して、最奥の疼きに火を点ける。
高まった行き先を知っているこの身体は。
その疼きに更なる快楽を得ようと勝手気ままに揺れて。
その意味を知るオトコは誘われるままに。
硬く尖った先端を吸い上げた。
手を伸ばして、黒い髪を撫でる。
きつく吸われて、チリと痛みが走って。
けれど、それはカンタンに快楽へと姿を変えて、全身を駆け巡る。
溢れ出る声で。
このオトコのためだけに歌う。
自分のことだけで満たされてほしい、と思いを込めて。
もっと貪欲に欲しがって、と。
甘い声で、無意識に強請る。
もっとも原始的な、魔法。
純粋な欲望。
思う様貪って、満足したエースが。
濡れた口付けをワザと落としてから伸び上がってくる。
霞んだ視界の先で。
エースはエサを食い終わった大型犬のように、純粋に満たされた顔でペロリと唇を舐めた。
そんな仕種にすら、欲望を煽られて。
きっと餓えた目をしているだろう、と自覚している眼差しをもってオトコの首を引き寄せる。
赤く充血した唇を舐めて。
薄く開いた唇から、舌を滑り込ませる。
手が頬を包んで。
同じ激しさで、吸い返される。
そのことに、どうしようもなく安堵して。
上がり続けた吐息を宥めて、溜め息を吐く。
エースが小さく笑い。
そのやさしい音に、どうしようもなく嬉しくなる。
「んん」
声が漏れて。
このオトコにのぼせている自分を、笑った。
★ ♪♪
深く浅く口付けを繰り返し。
熱くなった塊が先を強請るようにこすり付けられるのに欲情を覚え。
そうっと手を伸ばして、それに触れる。
口角が上がった唇が、何度も降らされて。
ゆっくりと手のものを握りこむ。
弾力のあるその手触りに、身体の中心がどうしようもなく疼いて。
少し力を入れて上下に扱く。
「ん…」
エースが小さくうめいて。
その声に更に熱くなる。
笑みがどうしようもなく口角を押上げる。
口付けが遠のいて。
耳元に息が吹きかけられて。
餓えた声が、脳に響く。
「…いれてイイ?」
目を開けて。
直ぐ近くで野犬のように輝くオトコの双眸を覗き込む。
凶暴な餓えに襲われ、しかしそれを我慢している瞳が、不意に和らいで。
「ほしくて、たまんねぇ」
隠さない声で、告げられる。
こんな風に無邪気に乞われて。
落ちないオンナがいるだろうか。
だから、自分から足をオトコの腰に回して。
オトコの腰を引き寄せる。
早く満たされたい、と眼差しで告げる。
肩口に顔を埋められて。
強い手が、両足を抱え上げて。
ぐ、と突かれたのを感じて目を閉じる。
横顔に頬を摺り寄せて、先を強請る。
一度少し引いてから、少しアングルを変えて。
ぐぐ、と最後まで突き入れられて。
身体が拓かれる音無き音を感じながら、それが齎す痛みに悦ぶ。
一瞬頭の中でフラッシュが光り。
質の違う快楽が、内奥からジワジワと広がり始める。
馴染ませるように収縮する襞で、その形状を図り。
熱を生むそれを締め付ける。
隙間無く満たされる悦び。
このオトコを迎え入れる歓び。
もっと欲しくて、耳朶を舐め上げる。
背中を撫でて、臀部を柔らかく爪でなぞり。
ぎゅうう、と力強く抱きしめてくるオトコの耳に、口付けを送る。
「すげぇイイ」
深い溜め息と共にエースが呟くように言い。
その低くうめような声に。
身体が無意識に揺れて。
駆け巡る快楽に、我を忘れていく。
このオトコだけが持つリズムで追い立てられ。
従順な身体は、跳ねる。
力強く突き入れられる度に。
脳は快楽に侵され、思考は白く濁る。
しかし不意に降ってくる汗の雫に力の入らぬ目で見上げると。
少し苦しそうに眉をひそめ、快楽を与えるいとおしいオトコの顔が見え。
わけもわからず、幸福な気持ちになって。
甘えた声で、もっと、と強請る。
スキだから、欲しい気持ちが止まらなくて。
惹かれているから、もっと気持ちよくなって欲しくて。
もっと貪欲に貪って欲しいから。
もっと大胆に与えて欲しいから。
気持ちを隠さず。
感じていることも隠さず。
受け取る快楽の全てを迎え入れる。
スピードがあがり。
手加減なしで突き入れられて。
内壁がオトコをぎゅうと締め付ける。
身体が勝手に反り返って。
「…ッ」
急いで引き抜こうとしたオトコの腰を、足で抱え込んで。
自分でもっと、と引き寄せる。
フル、とエースの身体が震えて。
熱を身体の一番奥深いところに、情熱を注ぎ込まれる。
その熱さに、身体が震えて。
ざああ、と意識が一瞬白くなり。
爪先と手は丸まって、背中はグ、と反り返った。
身体が一瞬、火を点けられたように熱くなり。
すべてが、溢れた。
★ ♪♪
空が明るむまで求め合い。
意識が飛ぶまで抱かれた朝。
気付いたら昼過ぎで。
散々ワタシを舞い上がらせたオトコは、すっかり満足しきったコドモの顔で。
ワタシを抱え込んで眠っていた。
手を伸ばし。
雀斑が散った頬を撫でて。
甘く気だるい身体を起こして、エースの頬に口付けて。
パチリ、と開いた目が柔らかく笑って。
「オハヨウ、リヴェ」
やさしい声が囁いた。
暖かい腕が回されて。
覆い被さるように、引き寄せられて。
「…おはよう、エース」
やさしい口付けを交わした。
エースの胸に頬を寄せて。
抱き込まれたままに、凭れかかった。
大きな手が、やさしく髪を撫でていって。
小さなオンナノコに戻ってしまったかのように、不意に不安に襲われた。
心が揺れた。
自分が立っている場所が不意にぐらついて。
自分を失ってしまいそうになる。
「…リヴェ…スキだよ」
溜め息と共にエースが言って。
その声を、記憶の底に刻む込む。
「…ああ」
スリ、と頭を摺り寄せて。
「好きだ…エース…」
小さく呟いた。
シャワーを浴びて。
髪を乾かしている間に、エースが先にバスルームを出て行って。
服を着て。
情交の後が拭いきれないベッドルームを後にして。
そうして、整えられたダイニングのテーブルの上を見る。
サンドウィッチと、シザリアン・サラダ。
ボールに入ったヴィシソワーズ。
ポットからはコーヒーがいい香りを放っていて。
別れの時が、容赦なく近づいているのを知った。
イスを引かれて、素直に座り。
その後に、エースが向かい側に座るのを、ぼんやりと見ていた。
「リヴェは紅茶の方がよかったかな?」
「あ、いや…ブラックで…」
「任せとけ」
ふわり、エースが笑って。
「ゴメンな…おれ、頑張りすぎちった?」
ああ、このオトコは。
最後まで、微笑みを与えてくれようとするのだな。
柔らかな雰囲気を纏って。
やんちゃな顔で笑うのに、目は優しいオトコのもので。
言い返せるコトバなど、見つかるはずもなく。
「…ありがとう」
それだけを、どうにか音にした。
ゆっくりと食事をして。
けれど、交わす言葉は思いつかず。
柔らかな沈黙は、食器が立てる音に彩られ。
初めて二人で交わす食事。
そして、これが最後。
きゅう、と鳴く胸の痛みはずっと収まることは無く。
けれども、口の端に上った笑みは、消えることが無く。
食事を終えて。
ソファに二人で抱き合って寝そべる。
性的な欲求はなく、しかし、離れることができず。
お互いに優しいキスを贈り贈られながら。
命が尽きる前のような、静かでやさしい時間。
まどろむ様に、夢見るように。
最後の時間を使いきっていく。
不意に汽笛が鳴らされ。
夢の時間が、終わったことを知った。
☆ ☆☆
見慣れた島。
見慣れた港。
乗船時と同じように、抱えて降ろされて。
迎えに来ていた人型の使い魔、フェルーシアが。
腰を深く折って、エースにお辞儀した。
目を閉じて。
エースの早い鼓動を聴き。
少し身じろいで、降ろしてもらう。
エースが背後で溜め息を吐いた音がして。
そこで、幕が引かれた気がした。
二人を繋いでいたものが、プツリと切れた気がした。
息を吸って。
それからエースに向き直って。
ゆっくりと見上げた。
エースは横を向いており。
その視線の先には…。
「ベックマンさん…」
港の明かりの下に、背の高い男が独り、立っていた。
黒いフィッシャーマン・セーターに色が褪せた黒いジーンズ。
解れた前髪が、さらりと揺れて。
咥えタバコのまま、近寄ってくる。
エースの腕が伸ばされて。
引き寄せられて。
男から目を離し、エースの胸に顔を埋めた。
「…さぁ」
低く、男が囁いて。
この男が、エースを連れて行ってしまうのだろう。
離れがたいと喚く、この思いを振り切らせるために。
いやだ、と泣いてしまいたいこの思いを、曝してしまわないように。
ぎゅ、とワタシを抱きしめる力が一瞬強くなって。
エースが小さく首を振った。
けれども。
二人とも、知っているから。
ここで別れなければいけないことを。
この恋を貫くためには。
「…エース」
割れた声で、いとしいオトコの名前を呼んだ。
「エース…」
頭を引き寄せて。
「…好きだ」
顔を上げたオトコの唇に、口付けを落として。
「…愛してる」
不意に、零れ出た言葉。
身体が勝手に、形にしてしまったコトバ。
けれど。
言ってみれば、そのコトバはしっくりと馴染んで。
今度は沢山の想いを詰めて。
囁く。
「愛してるよ…ワタシのエース」
エースが泣きそうに顔を歪め。
荒々しい勢いで、唇を塞がれた。
すっかり馴染んだ舌を絡め。
吸い込み。
噛んで。
和らぐまで、ずっと貪られ。
チュ、と音がして。
唇が離れた。
黒い睫毛に彩られた瞼が、小さく震えて。
ゆっくりと、その下から黒曜石の瞳が覗いた。
「うん…あいしてるよ、リヴェッド」
至近距離で、目を合わせ。
泣きたいのに、零れるのは涙ではなく。
柔らかな、微笑。
あとからあとから溢れ出てくる気持ちを込めて。
もう一度だけ、合わせるだけのキスを交わした。
この気持ちを、互いの中に、封印させるように。
ふわり、と腕が緩んで。
するり、と身体が離れた。
手を伸ばしたくても、四肢は動かず。
倒れずにいるのが、精一杯で。
エースがゆっくりと、歩き出して。
スローモーションのように、すべてがゆっくりとなって。
「行くぞ」
低くそれだけを告げる、男の声。
「ああ」
エースが頷いて。
寄せられていた別の船に、乗り込んで。
タラップが上げられ。
来ていた係員にロープを外され。
出航の鐘が鳴り響いて、船が岸を離れてから。
ようやくエースが振り向いた。
何か言いたそうに口を開き。
しかし、言葉は音にされることはなく。
小さく片手を上げて。
一度だけ、横に振った。
ゆっくりと夜の闇に呑まれて行く船。
識別できなくなるまで見送って。
となりにこしゃまっくれた使い魔が立って。
「お体に、障ります」
コドモの声で、告げた。
そうして。
時間が動き出して。
あのやさしいオトコが、去ってしまったことをやっと感じとり。
キュウウウ、と胸が酷く痛くなって。
瞬きをして、堪えようとすると。
不意に、一粒だけ、涙が零れ落ち。
…見上げたら、そこには。
暗い闇色の空いっぱいに、散らばった星。
目を閉じると。
その残像が、瞼の裏で揺れて。
フェルーシアの小さな手が、腕をさすって。
その暖かい熱に。
どうしようもなく、熱くて痛い気持ちが溢れ出して。
ただどうしようもなく涙が溢れ、頬を伝った。
「行きましょう、リヴェッドさま」
労わるように、声をかけられて。
歩くよう、促されて。
よろめく様に、一歩を踏み出していく。
オマエはオマエの空を。
ワタシはワタシの空を。
ワタシたちは、鳥だから。
総てを心に刻み込んで。
想いに縛られることなく。
愛に囚われることなく。
ワタシたちは、自由を選んだのだから。
さぁ、羽ばたけ。
ワタシたちが還るのは…きっとこのような夜空。
そして、お互いの心の中。
目を閉じれば、傍にいるのだから。
恐れることは何も無い。
だから。
さぁ、羽ばたけ。
ж あとがき ж
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