20.
「これは―――?」
自分の手の中に滑り込まされたもの。
「カギ、」
何でもないことのように告げてくる相手は、自分の前のイスに軽く身体を休める。
主を迎えた部屋は、もう既に自分も慣れ親しんだ物に戻っていた。

「あの"家"の。やるよ。気に入ってたみたいだからな、好きに使えば良い」
穏やかな口調で続けられる。
「まあ、簡単に住める程度にはしてくれている」
「ミセス・ケリーが?」
「ああ」

「ありがとう、」
手の中の物を見下ろしたままで、言った。
「サンジ、」
呼ばれた。眼をあげる。
「―――悪かった、一人にして」
その言葉に、ゆっくりとその眼が見開かれる。

僅かに目線を泳がせ、ゾロが手を伸ばす。頬に触れ、そのまま耳元まで滑らせ。
「でもな。家はやるけど、ちゃんとおれのところには戻ってくるんだぞ?」
からかうような口調が、底に混ざりはしても。

蒼が、霞んだ。
揺らぐ、そう思った次の瞬間には。
羽根のように身体が重なった。肩口に顔を埋め、腕をまわし。
つぶやかれるのは。
自分の名前―――――
頬に触れる、絹の感触
僅かに首を傾けるようにし、みつめてくる


瞬間自分の中で時間が遡るのを感じた。
これは
誰だ?
同じしぐさをするのはどちらだ?

いま、側にいるのは、ここは。
これは、どちらだ。
消えたのは、どっちだ?
時間の概念がひっくり返される。数年前の悲しみが急に自分の中に甦り、容易には消えようとしない。


口許から笑みが消え、仰向いて一呼吸つくのをサンジは見た。
時間や空気まで凍りつくようで。それでも
肩に額を預け、目を閉じる。
初めて触れるように自分の輪郭にそって知らずに手を動かした。
そして、長い時間が過ぎたように感じられ、自分の名前が呼ばれるのを頭のどこかで聞いた。
ゆっくりと目を開ける。
深い声は、確かに自分の名を呼んだ。けれど・・・


いまは自分を映している、この眼。本当は何を映しているんだろう。まただ。
いま、あの少し細められた目は、おれを通り越した。

後ろを振り向きたくなる衝動に懸命に耐えた。爪が掌に立つほど拳を握る。
「ゾロ、」
口をついて言葉がでた。

「すきだよ、」
ずっと自分のなかで溢れかえりそうだった気持ちを言葉にする。
目をあわせ、心臓の裏側が、きりきりと痛んだ。

「だけどあんたは、いつだっておれを通り超してどこか遠くを見てる。あんたの目はおれを映してるけど、
本当は何を見てる?」
肩に手をつくようにして身体を浮かせ、離れた場所に膝を抱くようにして座る。
どうして、あんな目でおれのことを見ているんだろう。優しいのに、つき離してる。
サンジはまた俯いた。

ゾロが立ち上がり、サンジの横へゆっくりと移る。そして、その名前をもう一度呼び。
サンジは、決心したように顔を上げた。睨むようにまっすぐゾロを見つめていた貌は
不意に俯き、はたはたと二粒、三粒、涙が膝に落ちた。
「ちくしょおっ」
抑えた罵声は涙を見せた自分へのもの。切れるほどに唇を噛みしめる。
「サンジ、」

「呼ぶなよっ。あんただけが、おれを切り刻む。でも、あんただけだ、おれがほしいのも」
両の腕できつく自分の肘を抱きこむようにし、決して自分の名を呼ぶ相手を見ずに。
「ナンバー付きだろうがペットだろうが、ぜんぶどうだっていいんだよ。―――――あんたが
気紛れでおれを買ったことだって」

その間にも、涙の粒は落ち、葉からこぼれ落ちる露のように。
「サンジ、」
もう一度、呼ぶ。頑なに、サンジは顔を上げない。
ゆっくりと手を伸ばす。頬に触れる。
その手をまた、涙が伝い落ちた。逃げようとする顔を両手で挟み込む。
「うん」
瞬きをひとつ。また一粒、涙。目許に口づけた。涙を受け止めるのに。
子供のするように、サンジの眉が寄せられる。
それでも。そのまま、ゾロに引き寄せられるにまかせて、肩口に額を預けていた。


気付いていたというのだろうか。
自分の目線が無意識にもういない人をいつも追っていたということか。
身体をあわせたところから伝わってくる切れ切れの、深い吐息。腕の中のものを抱きしめかけ、制した。
かわりにその頭に頬を寄せた。そして子供にするように、その髪に接吻する。
そしてまた、ごめんよ、とつぶやいた。髪を撫でながら、しばらくそうしていた。 
うん、と小さなつぶやきが聞こえた。
サンジの腕がゾロの背に回され、ほんの少しのあいだ留まった。ゾロはサンジを束の間抱きしめた。

見上げてくるサンジは。また、いまにも泣きだしそうな顔。
「ゾロ。おれのことを、嫌いにならないでほしい」
今、自分の声が限りなく優しくあるように、とゾロは願う。嫌うことなど、不可能だ。
「ああ、できない」
手をサンジの頬におとす。
愛しいものはゆっくりと目を閉じ、その手のひらに口づけた。



21.
酩酊感。快意。意識が、ふと剥離するような感覚。
ああ、オピウムみたいなんだ、とサンジは思い当たる。花の下にいて、花びらの降る中ずっと見上げて
いると感じるもの。それは、阿片に似ている、と。あの部屋に暮らすようになってから、欲しいとも思わなかった、
慣れ親しんだものをふと思い出した。

だから、自分はこの庭にくるのかな、と思う。ほぼ毎日。
中途半端に意識を柔らかく溶かして。痛みかける何かを麻痺させる。
この庭はいつも初夏の気だるいような温かさで。空気には花の香りが染み込んでいる。
5日おきに、満開になり散っていくことを繰り返すのは、このウィステリアだけではなく。
―――ああ、そういえば芥子まで咲いてるしな、とサンジはぼんやりと考える。
満開になり、散っていくサイクルが決められているから、ここにはいつも満開の花と、
死んでいく花の二つがせめぎあっている。

「あの日」以来、心なしかゾロが以前より自分を周りに置いていてくれている気がする。
手の届く範囲において、かまってくれているような。
それでも、偶に。あの整った横顔が、唇を噛んだのおれは思い出して、いたたまれなくなる。
「言うんじゃなかったな、」
声に出してみても。辺りは、ただ息を詰めるような濃密な生の気配と、花の降り積もる音だけで。

ゾロ。最近、寝る前に祈るみたいにあんたの名前呼んでるよ、おれは。隣りにいるのにね。
あんたのユメが見られるように。
サンジはまた目を閉じた。

「誰か。」
ゾロをおれにください。

瞳を上げれば、肩にも薄く花弁の纏うようで。
時間の感覚が、やっぱりここにいると変になる、そんなことを思いながら、庭に向かって張り出した
石のテラスのある"家"に向かった。ごく簡単に、それでもミセス・ケリーの本領は遺憾なく発揮された
室内は、充分に居心地が良かった。窓が高く、どこか薄暗いような屋内が、逆に庭の陽光を際立たせ。
家具が入れられているのはこの居間と、主寝室だけで、あとの部屋は全て石か板張りの床がただある
だけだった。それでも、気が向けばそのいくつもある扉を開けては、色ガラスの嵌められた窓の意匠や
模様を模った床、そういったものを眺めて回っていたのだけれども。

それは、ほんの気紛れだった。二階へと通じる階段を上りきり、その突き当たりにある部屋の扉に
気付いたのは。開けてみれば、白布のかけられた家具と、程よく色落ちした古布のラグがあるだけで。
思い当たる。"首都"に戻ってきたときに、ほんの一時期この"家"に寝起きしたことが在るとゾロが
言っていた事。「長く入ると、ノイローゼになりそうだあそこは」と珍しく顔を顰めて見せた事。
ふうん、この部屋か。そう思って踵を返そうとしたそのとき、何かが。

窓から格子型に切り抜かれた光に、硬質な輝きを返した。近づけば、それは木の床の継ぎ目にちょうど
引っかかるようにして落ちていた、ごく小さなクリスタルのキューブらしかった。手にとりあげ、光に差しかけて
確めようとした時、幽かに、鉛ガラスの触れ合うような透明な音が周囲を振動させ、ぼう、と宙に映し出した。

映像。

音声が消されて、姿だけが動く。

蜜色の髪、細い項。
ゆるやかに振り向く、
わずかに傾けたその流れ落ちる絹の束からのぞくのは


―――――――ああ。

あなただったんだ。


宙をただ、みつめていた。
静かに、立ち尽くし。

鏡のように冴えていくのは、自分の意識。
ほら。刃が落ちてくるぞ、―――見ろ。

囁くような声は。

最初に気付いたのはいつだったろう、ゾロの視線が自分を通り越しているのに。
駆け寄ったときに、抱きとめるかのように差しだした腕を急に引いたのは、いつだ。
煙草を唇に挟んだままでいた自分に、ライターの火を差し出してくれながらゾロは何と言った?
見惚れるような優しい笑顔で。
ゾロ、あんたはいつだって―――。

ユーレイの正体。
あなたは、おれによく似ている。だけど、おれはあなたじゃないし、あなたはおれじゃない。
全く別の存在のはずなのに、あなたはまるで合わせ鏡に映ったおれ自身みたいだ。
でも、とサンジは思う。少なくとも唯一の救いは時間と距離だ、と。
あなたは向こうで、自分はここで、生きていたから。もし、それまでが一緒だったら。
影になる。ただのユーレイになる。

だって、あの眼は、あなたを追っていたんだ。

おれのほうが生きてるのに。
だけど、それでもいいって言いだしそうだ。いつか、ゾロはなんて言った?「自信がない。」
それはきっと、もしおれを抱いてもあなたと重ねることはない、そう言い切る自信だ。
嘘をついてくれたほうが、ずっとラクだった。
残酷だよ。おれはもうあんたを嫌いになることさえできないのに。


――――ゾロ。
おれ、死んじまいたいんだけど。だめか?
あんた、まだ"おれ"が要るか?




部屋の扉を、開けさせた。
「サンジ―――?」
黙って扉の外に立ったままの自分を見て、ゾロは不快よりも驚きの表情を浮かべた。
一歩、二歩、その姿に近づいた。

ほんの何秒か、その肩に顔を埋める。トワレの香りにつつまれて、また、涙がこぼれそうになる。
もう知ってるよ、あんたが誰を好きだったのかを。どうしておれを抱きしめてくれないのかも。
でもね、ゾロ、おれだって・・…

そして、言った。
しばらく、あっちにいる。
何秒かの空白。
「でも、大好きだよ」
顔をあげるとすぐに、ゾロが何か口にするより速くその姿は消え。

音も無く閉じられたドアを見つめ、ゾロがつぶやいた。
サンジ、と。とても静かな声で。
佇む室内に、花の残り香
胸元から。



「コーザ、」
音声だけが、届いた。
「なんだよ?」
長く腕を伸ばして、その発信元のスピーカーをオンにする。
「フロ入ってるときにデンワしてくんな」
げらげら笑いながらコーザ。
「下らないこと言ってンじゃねえぞ?」
言い返すゾロの口許にも笑いの影が霞める。

「で。ナンダ」
フロアに寝そべったまま眼を通していた、電子ファイルの画像をオフにする。
「おまえに、頼みたい事がある」
ふい、とコーザの片眉が引き上げられた。
「今から30分後。エアポートで会えるか?」


「迎えに行くほうが先じゃないのかよ?」
そう言ってくるコーザに、ゾロは眼をあわせる。
「無理矢理に引き戻したって、意味が無い。同じことを繰り返すだけだ、」
僅かに声に苦い物が混ざる。
「ああ。てめえがな」
その言葉に。
そうだよ、と。ひどくあっさりと自分の非を認めるのに、コーザは返す言葉も無く。

「わかってりゃあ、いい」
とだけ告げ。ごつ、と握った拳を親友の顎にあてた。
「下らねえテロなんかに巻き込まれるなよ?」
にやりとわらって言われた言葉に
ゾロも唇端を引き上げた。
背の高い後姿が、"ルナ"行きのシャトルのボーディングブリッジへと向かうのを。
コーザはただじっと見送っていた。


22.
で!なに!!今度は二人揃って行方不明なのっ?!
ナミの声が高く響いた。
びくんっとチョッパーが抱えていた機械の塊を床に盛大にばらまく。

「私に何の断りもナシに一体なにやってんのよあのバカどもっ!」
「だから。おれに言うなって」
ナミに胸倉を掴み上げられ、というよりは実際にはナミがぶら下がっているようにしか見えないのだが、
まるでハハライオンの如く怒りを露わにされても。コーザにも如何ともしがたい。

「オーイ、チョッパー?たすけろよョ、おい」
ひらひらと背後に手を振ってみても。
「だって――――おれ、こわいし」
短い腕を伸ばしかけては、引っ込める、を繰り返す、いたいけな小動物。
ハァ、とため息。そして近づいたそのつんと尖ったハナ先に、チュ、とキスをする。
途端に秒速でナミの顔が遠ざかり。

「ッてえェっ!」
さっくりと。腎臓の裏側辺りにチョッパーの丸い角があたる。
「―――てめえ、」
殺気付き。角を片手に捕まえたままの大のオトナが"デコピン"。
「うっ」
「イテェだろ」
にんまり。と唇を引き伸ばし。
すぱん!とナミから今度は砂色の後ろアタマにクリーンヒット。
白々とした沈黙が下り。それぞれの口許に物騒な微笑が浮かび上がる。


「ゾロなら。いまは、多分"三月都市"だ」
静かな声が告げる。何故かその左目の下にはバンドエイド。
「サンジくんは―――?」
ぷらぷらと、右手を振っているのはナミ。
「うん、」
珍しく、口篭もるのにナミがカウンターの内側から首を傾ける。

「"子守り"頼まれてはいるんだが。ちょっとな、うかつに様子なんか見にいけねえよ」
「場所の見当はついてるのね、」
「ああ」
「なんで迎えに行かないのよ?」
金茶色の眼が、ナミにひたりとあたられる。そして、言った。
そんなのはおれのすることじゃないだろ、と。
眼をあわせたまま、コーザはヒトの悪い笑みを浮かべる。

「それにな、一度行って懲りたんだよ。また、花を見たままで泣かれでもしたら押し倒す」
「私もあんたを止める気はしないわ」
僅かに身を乗り出すようにしてみせるナミの額を指で押やるようにしてコーザはわらう。
できるかよ、と言って。

「私、あんたのそういうところはすきよ」
ナミが言い。
そりゃどうも、と返される。
そして、するりと。自分の目の前に差し出されるのは。
スチール製のネームタグに通された銀のコードで巻かれた、上質な羊皮紙。

「これ、招待状。例の"ソウリツキネンシュクガカイ"ってヤツの」
笑顔付き。
「アリガト。」
ライラック・パールに塗られた爪先が小さなタグを玩び。
へえ、ちゃんと私の名前入ってるじゃない、と小さく笑った。

「博士もいらっしゃる?」
「弟子のおまえが来るって言えばな」
「フフ。私があんたのお継母サマになる日も近いわね」
笑うナミに、よく言うぜ口だけオンナが、とコーザがにやりと返す。

「で。チョッパー。おまえ留守番できるか?」
ナミの足元に縋りつくようにするALを覗き込むようにしてコーザが言う。
「……いつ?」
「10日後だ」
「・・……レンシュウしとく」
軽く笑ってそのあたまをぐしゃぐしゃと撫で。
「なんであのバカは"こういうの"が好きかねぇ?」
と、歌うように言い残すと。ひらひらと手を振り、まっすぐな背はドアを抜けていった。



23.
「ジュリエット!アイの郵便屋だよ!!」
広い池の向こう側からの紛れもないコーザの声に、サンジは一つ吐息をついた。
大げさに両腕を広げるようにして、古典劇さながらのポース。
ものの数秒のうちに自分から大笑いしながら水際を回ってやってくる。
「なんだよ、その郵便屋って」
「ほら、」

すい、と差し出すのは。先日、ナミに渡していたのと同様の物2通。
「なに?」
「おまえたちの招待状。明後日の、ウチのソウリツキネンのバカ騒ぎ。あのバカとおまえは強制参加な」
「なんで、」
「おれがさみしいから」
言いながら既に目許が笑みで崩れる。

「―――あんたの戯言にはもう慣れたよ」
サンジが言い。視線を水面に戻す。
しばらくの沈黙。

「随分、豪勢に散っていくんだな、」
不意にコーザの声が真摯なものを含み。その眼は、散る紫の花房に向けられる。
そしてふと自分の隣りに眼を戻し。その金糸に花弁が伝うように触れ、あるものは留まり
あるものは落ちていくのを視界に捕らえる。
「ああ、なんだ。おまえさ、」
静かな口調。
「ジュリエットっていうより、オフィリアだな」
「こんな池じゃ死なない」

引き寄せ、軽く上向かせ。
真近で覗き込む。
抗いはせず、けれど
伏せられない眼差。
唇に触れかけ

「あー、やめだ、やめ」
ふいとコーザが悪戯気に口に出す。
「おまえさ、人形みたいだな。ヤツがいないと」
あーあ、つまんねえの、ちょっとは抵抗するぐらいのサービスしてくれたっていいんじゃねえの?
そんなことを言いながら、ぱん、と手を払い立ち上がる。
そして。

「コイヨ?パーティ」
と半身を折って覗き込むようにした。
ヤツもそれまでにはシティに戻ってきてるだろうから、と付け足す。
「―――え?」
「あのバカ、所在不明中なんだよ。だからおれがこうして保護者代理で来てるんだろうが」
サンジの反応を確めるかのようにその眼はみつめていたけれど、何の変化も捉えなかった。

「そうだ、」
す、とその背が伸ばされる。
「"KAYA"は、アンインストールしたからな。おまえによろしく伝えてくれと。あとな、おまえは
優しすぎるから、もっと我侭を言えって笑ってたぞ?」
「消えてしまった?」
「―――逢いたければ、またいつでもあえる。"KAYA"は、ベーシック・コードで出来てるからな」
サンジが見上げる。
「でも、それは。"あの"KAYAじゃない」

ああ、とコーザは小さく頷き。悪かったな、勝手におれ達だけで話を進めて、と告げる。
サンジが首を横に振る。
「なんであんなに優しいんだろう」
「あれは、あの人の理想だったからな」
散る花にまた眼を戻し、コーザがゆっくりと言葉にのせる。
おれの母親のイメージって、KAYAなんだよ。あれに育てられたようなモンだからな。

「とにかく!ちゃんと出席しろよ?シャチョウ直々にハンドデリバリーしてるんだぜ」
惜しげも無く笑みを浮かべ言うと、歩き始める。呼びかけられ、振り向いた。
「ゾロは、何処へ行って―――?」
「清算」
それだけを告げられた。
伸びる夏草の向こうに、背が見えなくなった。



清算―――?
サンジは2階の窓を見遣る。
繰り返し、繰り返し、瞼の裏に焼きついてしまうほどに見つめ続けた映像。
そして、自分の導き出した答え。それを自分に告げさせもせずに。
ナンノセイサンダヨ?
ゾロ。

あんたは本当に、自分勝手だ。
おれはあんたからたくさん、いろんなものを貰ったのに。
なのにあんたは、おれから何一つ、受け取ろうとはしない。

それでも。確めたことは。
むりやり離れて、そして、答えをやっとみつけたと思って―――

ゆっくりと立ち上がり、テラスの石段に凭れかかる。
ずっと、ずっと考えていたこと。
夢のように立ち上り、光に透けるようなあの姿をみつめて。


もう。かえろう、
サンジは囁くように、自分に言い聞かせるように言葉に乗せる。



その部屋はやはり誰もいないけれど。
扉の内側に背を預け、それでもひどく安堵する。
いきなり向き合いでもしたら、自分から出て行ったくせにきっとバカみたいに
うろたえただろうと思うから。

そして、ダイニングテーブルに置かれた物をみつけた。
掌ていどの半透明な液晶ボードに、流麗な文字で残された書き置き。

読んだだけで、涙が零れてきた。あとから、あとから。
あんたの在るのがわかるだけで、涙がでるほど好きだったんだ、あんたのこと。

ゾロ。聞かせてくれよ、あんたの声。いま、おれに。
ゾロ。帰っておいでよ。
はやく、かえっておいでよ。待ってるから。あんたに、伝えたいことがある。
きっと。


一番高いところにある窓を開け、ガラスに額を預けていた。
遥かな情景と、どこまでも近いソラ。

待ってるから。ここで。おれは、あんたのことを。
もう、決めたから
平気だよ。


きこえた、と思った。
ガラスの箱の開く音が。閉ざされた扉の向こう側から。
駆け寄り、開き
そこに


「迎えにいったら、いなかった。―――もう、逢えないかと思ったよ、」
深い、翡翠の色。
「ただいま。それに、おかえり」
耳に馴染む、ゾロの少し乾いた甘い声。
「うん、」
肩口に額を預ける。
「―――ただいま。」




「全く大迷惑だわ、あんたたち二人!」
きっ、と睨み付けるナミ。
ナミさんは怒っていても美人だな、そんな場違いなことをサンジは考えている。
「特にゾロッ!何様よあんた、行方不明になろうがどっかで行き倒れて野垂れ死にしようと
構わないけど私にシンパイだけはかけさせるんじゃないわよ!」

「だからこいつ連れてすぐおまえのところへ来たろ?」
「うるっさいそんなの当たり前!ヒトの弱味につけこんで!と、いうことで、」
「ナミさん、何が"と、いうことで"?」
「黙っててよ、あなたも同罪なんだから」
びしいっとサンジのハナサキに指をつきつける。

「と、いうことで、」
満面の笑み。
「明日の夜、あんたたち、私のエスコートしなさい」
「は?」
これは、ゾロ。
「だから。インダストリーの創立パーティよ」
「おれが行くのか?」
「当たり前じゃない。絶対参加ね。もうコーザに言っちゃったもの。あんたたちあたしに心配
かけさせたんだからそれくらい当然よ。ねぇ、サンジくん?」

サンジの唇に素人ならうっとりしそうな微笑が浮かぶ。
「いいよ。たしか明日だよね?」
ナミはそれを受けてにこりとした。
けっこうこいつら仲良いんだよな、とゾロは冷静に二人を観察している。
「やったぁ、」
ナミは言った。
「あたしも心配したんだから」
ぎゅうーとサンジを本人は抱きしめているつもりなのだが、どう見てもじゃれついているようにしかみえない。
「うん、ごめんね」
サンジもナミの背中に軽く手を休めるようにする。


「創立記念パーティだと?」
ゾロはうんざり、とした風に口に出す。
「そういえば、招待状を貰ってたんだ。忘れてた」

穏やかな気持ちでサンジは横を歩いていた。肝心な問題を先送りにしたような気もしていたけれど、
いまは、一緒にいられることが嬉しかった。どこに行っていたのかとか、何をしていたのかとか、
そういう会話は全くお互いする気は無いのもわかっていた。




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