13.
たしかに、酷い事をしているのだろう。その自覚はある。
距離がつかめなくなった。気持に任せて、間合いが取れなくなる。自分の勝手で、だから突然に
距離を隔ててしまうことになる。"あれ"はその度に酷く傷ついたような、それなのに虚ろな眼をする。
やがてゆっくりと目を伏せて何かを、奥深くに受け止めたような。


おれは、そんな表情などさせたくはないのに。



「どうしたの、」
物憂げな女の声がゾロの耳に届いた。
「なんでもない」
「それがなんでもないってカオ?でもまあ、ダブルブッキングをこなしている、ってカオではないわね」
くすくすと女がわらう。
「ヴァレンタイン、おまえにしてはつまらない冗談を言う」
呼ばれた女はレモン・イエローの髪を揺らしながら首を傾ける。
「ごめんなさい…?久しぶりに逢えたのにコワイ顔しないで」
そう言って、するりと肩口に手を添わせ。指先でその纏う素材の感触を堪能し、朱唇を引き上げる。



エレベーターでキスを交わし。



その腕をとって引き寄せれば、小さく声を殺してわらう身体の細やかな動きがゾロに伝わる。
「朝には、帰るの?」
「ああ、」
答えと一緒に耳朶に唇を寄せた。






「ねえ、ゾロ。わたし、あなたのこと嫌いかもしれないわ」
明け方に、艶然と朱の滲むようにかすれる唇が微笑をつくる。
「―――潮時かもな、」
答える方も、凍るほどに柔らかな声色。その背に、しなやかな腕は巻きつかせたままで。
やがて蛇のようにそれが自分にまつわりつき、締め付けていくのを意識していた。






正午近くに部屋に戻った。空に近い最上階、中空の船のような。
エントランスホールにコートを投げ出すように残し、リビングへと通じる先へ向かった。
どこかの高窓が開けられているのだろう、微かに空気が動いている。そんな中、冬の陽射しが
一面にとられた窓から差し込んでいた。そして陽だまりに、金色のあたまが光を返していた。
ソファの肘掛に半ば半身を預けるようにして、眠っていた。なにもかもが陽に溶け込みそうな淡い色で。
ニットの暗いオレンジとデニムのインディゴブルーだけが、陽の中に際立っていた。



そっとその様子をのぞきこむようにするゾロの唇には、あるかなきかの笑みの影が浮かび。
当分目覚めそうにないのを感じ、その場を離れようとしたとき、閉ざされたままの瞳から
なんの前触れもなく、涙が零れおちた。
みつめたさきからまた一筋、こぼれる。それでも、眠りは抱きとめた腕を解こうとはせずに。


泣いていた。


喉が締め付けられたかのようにゾロはしばらくの間、声がだせなかった。
微かな声で呼びかけ。震えそうになる指先で、その薄い肩に手を添える。
もう一度その名前を呼び。流れる涙を指先でたどる。
掌の中の宝玉をみつめるような、そんな眼差をしていたのは――――――。






14.
「ゾロ、」
自分の声に、その眼が途端に安堵の色を浮かべた。
サンジは状況がわからなかった。夜が明けるまで結局眠れずにいて、そのあとバスルームで危うく
溺れかけ、適当に着替えてここで煙草を吸っていた、ことまではどうにか憶えているけれども。
ただ、数瞬前まで自分が観ていたモノの記憶の方が鮮やか過ぎた。



おまえ―――、
ゾロが言いかけて、ふと口を噤み、その指先がサンジの目許にあわせられた。
眠りながら、泣いていた。器用な真似するなよ、と。静かな声が、降り積もるようにおりてくる。



「おれ―――?」
「ああ、」
そのまま、指先が何度か下睫の際を往復し。
みているおれまでつられそうになった、なんの夢をみていたんだ?と。
きれいな手だとサンジは思った。その爪でなら肌を傷つけられても、痛みを感じないかもしれない。
話し掛けながら、さらさらと。手で髪に触れられる度に。サンジの内に形にならないコトバが出てきかける。



「ブドウみたいな形をした、紫色の花。その下にいた。その下で、ずっとその色を見ていたんだ、
それだけ。そんな夢だった」



自分をを預けたままで。掌が、髪を滑るのを感じていた。
熱を煽ろうとするわけでも、気持を高ぶらせようというわけでもない。ただ、単純に。
そこに自分の頭があって、そうされるのが好きな事を知っているからかるく触れてきている、
乾いた穏やかさで。



「その花なら、ウィステリアだ」
ゾロがしばらくしてから言った。
「ウィステリア?」
「そう。ウィステリア・フロリブンダ―――フジ、とも言うな。本来なら初夏に咲く花だ。好きなのか?」



「うん。"すき"だよ」
そうか、とゾロは言葉にし。



サンジは、それが多分「外」で自分が最後に見た景色であるとは、言わなかった。
自分のなかでも茫とあわくかすむ誰かの手を握り、そのどこまでも続く花の下を通った記憶。
ずっと、むかし。



「・・・・かた、」
半身を起こしたサンジの声に、問い掛けるようにゾロの片眉が引き上げられる。
「肩かしてくれ、」
ゆっくりと、あたまごと抱き込まれた。
しっとりとした甘い残り香りが、自分のまわりに立ち昇るのを感じる。この香りのヒトと、自分はどこが違うと
いうんだろう、そんなことを考える。また、薄い刃で撫でられたようなイタミが内側に拡がり。抑えきれない
ためいきが唇から洩れかけたとき、するりと。
背を逆撫でるように、肌に直に掌が滑り、サンジは思わず息をつめる。



「・・・・な、に?」
そのまま、ニットの襟元からあたまを抜くようにされ、落ちかかる前髪の間からサンジが問い掛けた。
「それ、脱いでおけ」
言うと、影のようにあっけなくその姿は離れ。やがて戻ってきたときには淡く霞むようなシルバーグレイのシャツと、
白い、重さを感じさせないほどの薄手のヌバックのハーフコートを取ってきていた。そして、 "これを"という短い
命令形と一緒に手渡される。



「おいで。見に行こう、」
ゾロが手を差し出す。自分の思い付きが嬉しくて仕方ない子供のような目をしていた。コートを手にしたまま
サンジは、何処へ、と聞き返し。
「決まってる。ウィステリアを見にだよ」



「行くだろう?」
聞いて来ていながら既に半ば自分を立ち上がらせている相手に、もちろん、と返事をした。
おなじ場所に"ゾロ"が在るだけで、漠然とひろがっていくようだった不安が薄くなっていく。
それでも
またいつそれがいなくなるかわからない。
自分のなかで何かが軋みかける音を、サンジは無視した。



地下のガレージへ降りて行くエレベーターの中と、目的の場所へ向かう途中にゾロは、行き先は両親が
まだ"テラ"にいた頃の「研究室」だと説明した。随分以前に一度、一緒に見に行ったきりもう何年も行って
いないけれど美事だよ、と。
ただ、二人ともずっと"ルナ"に拠点を移しているから家自体はもう廃屋同然になっている、と続ける。
維持していく手続きなり相当面倒臭いんだろうけれど、あの人達のイメージする「楽園」だから、人手に
渡さないで今になっているらしい、と。



自分が"テラ"に行くと告げたら、"テラ"に戻るなら、庭とフジはおまえにあげよう。誰かが見に
行った方が花達も喜ぶ、そういわれた、ゾロは言う。でもな、と深い声は続けた。きっともう
あのひとたちは戻ってこないだろう、と。
「"学都"で、植物を弄るより面白い物みつけたからな」
「なにを?」
「"神の領域"」



冗談だろう?と横を見上げるようにしたら。
「親の因果が子に報い、って大昔の言い回しがあるだろう?あれは、本当だ」
真実と虚構が混ざり合った不思議な口調で返された。
サンジはその翡翠色の眼が、自分を通り抜けていった気が、した。




首都の外れ、アウターリムに程近い奥まったところ、まだ存在するのが奇跡に近いほどの木々の
植えられた一角に車がとまると近辺の静けさが一層きわだった。遠く、センターの高層建築が幻の
ように頂きを見せている、抜けるような空へと。付近は、人の気配まで薄い気がする。
ゾロは酷く旧式の鍵を出し錠前へ差し込んだ。軋む音と一緒に錆の浮きだした鉄の門は開き、
その鉄門を支える石の門柱さえ苔むしていた。草までが膝に届くほど生い茂り、丈の高い木が
奥にある筈の家の姿を隠していた。かすかに、ぶううん、と虫の羽音が聞こえてくる。



「ここは。いま、じゃない」
サンジが言う。
先に立っていたゾロは振り向いて、
「おまえらしい、」
と言った。そして、
「でもな、草も、そこの木もあの二人の研究成果だ。夕方になれば気温調節用の不可視シールドが
勝手に降りてくるのも見られる。陽を反射すると、表面が油膜みたいに揺れて綺麗だ」と付け足す。



顔すれすれまで傍若無人に伸びる枝を越えてそこにあったのは、忠実に再現された前世紀の建築物だった。
随分傷んではいたけれども、それでも人手が入っていたころには稀な、贅を尽くした家だったろうと思わせる。
その固く閉じられた石枠の飾り窓の横を抜けて、「庭」へと出た。そして。
サンジは息を飲んだ。



広い池の水面に向かい、朽ちかけた藤棚に咲き乱れるウィステリアの花房が映り、映え、
その柔らかな腕を差し伸べていた。水面に触れるほど存分に枝垂れ、咲く紫の花々。
そして、音をたてて水面に落ちていく花びら。
宙を漂い、水紋を作り、ほとほとと散る。その、甘ったるい芳香。



花弁が漂い、睫毛の先に触れるばかりに肌を掠め散っていく。肩にも、指先にも触れ。風のない中
陽にさらされまっすぐに、はらはらと。地上へ、水面へと。



緑に映える藤色。水の光りと花々と見ている自分たちのほか、全ては無くなってしまうかのような錯覚。
鈍い水面の光りと、花蔭でその色に染まるかと思われる人と、自分。耳につくのは虫の羽音と。
聞こえるはずのない花の散る音だけが、たちこめる。



水に散る花、花に散りかかる水。何もかも止まった、時の溜まりにだけあるかもしれない景色。
廃屋で繰り広げられる饗宴は美醜の境をぽおんと越えていた。
誰の眼にもとまらずに散るはずだった花房の悪意にも似た美しさ。無数に浮かんだ虫の羽で虹色に
鈍く陽を照り返す水面を、花弁がゆっくりと覆っていく。
時間はここでは何と緩やかに流れ、引き伸ばされ手に取るように感じられる。



花の下を通って行った。あの柔らかな、それでもひんやりとした手は。
霞むような暖かな風が、そのひとの髪を揺らした。最後の記憶。
その後は―――――
おれ、いつから泣かなくなったんだろう。いまなら、言葉は知っている。「凌辱」。
涙を忘れたら、ラクに息が出来るようになった。


この花だ、こいつらが。思い出させる。
ふと。サンジは足元が揺らいだような気がした。眼をあけたままなのに視界が暗くなる。



知らず、ゾロの袖をとっていたサンジの手に力がこもる。この水辺で悪意の感じられないのは彼一人だ、
とでも言うように。翡翠の色も、その目に何を映していたのか。香りと陽射しとで眩暈がおこる。
圧倒的な――――。
羽音。風に乗り。花が散る。



肩口に額をあずけ、サンジは深く呼吸する。頬に僅かに冷たい指先が触れた。
溶け入るような感触。この肌をあわせられたらどれほど気持ち良いだろう、きっと区別がつかなくなる、
瞬間そんなことが頭に浮かぶ。



「どうした、眩しいのか……?」
「だいじょう―――」



答え終える前に、唇が重ねられた。軽い接触。
薄く唇を離され、瞬きが触れあう距離で互いを見つめあい、目を伏せない。



またはらはらと頬を掠めて花が散り、サンジはゆっくりと眼を閉じた。僅かに頭が抱え上げられる。
指先が唇をなぞるのを感じ、初めて深く接吻られ、冷たい舌を受け入れるのに唇を開く。そうして、
身体がこわばると同時に身震いするような。肩に縋るように腕をまわし、ぎこちなくはあっても応えようと。
腕の中で体温に包み込まれていながら、これほど安堵と、その正反対の渇きを覚えるのは初めてだった。





母屋の石段に肩を寄せるようにして座り、薄闇に辺りが包まれるまで庭にいた。自分の肩をゾロに預け、
サンジは蜻蛉の羽根のようだと、降りてくるシールドの返すヒカリをみていた。何も話さなかった。ただ、
同じ物を眺めていた、そしてその色調を覚えていたいと、そう思っていた。



辺りが完全に暗くなってしまうとゾロは立ち上がり、「行こう、」と小さく言った。
少し苦労しながら再び門の鍵をかけ、花にあてられた、言ってもう一度サンジの唇に触れた。
そうされて、触れるだけの唇がもどかしいと、初めて思った。

















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