15.
ただ、日を過ごす。
眠気を誘うような昼下がり、ソファに身体を長く伸ばしゾロは陽の差し込む窓辺で、厚い背表紙の本を胸に
たてかけるようにして読んでいた。誰に会うわけでもない、何もしない、一日を無駄にするのを楽しんでいる
ような怠惰。自分を無為に費やす出来るだけ受動的方法を実践しているようで。自分の存在や価値や才能の
緩慢な殺し方。ただ傍観者にはその、のらくらとした自死の姿は絵的に上出来過ぎた。部屋の空気がゆらゆらと
霞んで見えそうな陽射しの中。サンジは、そんな相手をみるともなく眺めながら向かい側に座っていた。



いったい、この人は何をそんなに憎んでいるんだ、と。
刃でそっと皮膚を引かれたような苛立ちに、不意に思いついた。自分がいつも、どこかで感じていたもの。
そしてゆっくりと移動してソファの足下の床にすわる。
「ゾロ、」
「いるか?」
サイドテーブルからアイリッシュ・コーヒーの入ったカップをサンジの方へ下し、ゾロが本から眼を上げずに言った。
まだ熱いそれを受け、口を付ける。半分ほど飲んだところで。
「なに読んでるんだ」
「ああ、骨董品。過去の遺物。昔の本」
「誰?」
顔を向け、目許でかすかに微笑してゾロは答えない。そして、
「ずっと昔に読んで、何年も読み返していなかった本だよ」とだけ言った。
「なあ。おれ、ヒマなんだけど」
陽射しを吸い込んで暖かくなったソファにサンジが額をつけた。



「なんでいつもこれだけ?」
唇が離れたときサンジは言った。また、ごく軽く言葉を封じ込められる。
「自信がない」
「わからないよ、それじゃ」
「失くすには大事すぎるってことだよ」
やっとそれだけをゾロは答えた。



「このまま襲っちまおうかな、あんたのこと。カラダ、治まンないよ」
ソファの背に腕をついて少し上体をゾロの方へ寄せる。
「フザケロ」
言ってゾロは薄く笑った。
「ねぇ、じゃもう一度キスしよう?あんたに、言いたいことがあるんだ」
「言葉のかわりにか?」
「そう。」



「サンジ、」
言って、差しだされた手が金色の髪をそっとその手のひらに滑らせる。
「"KAYA"が待ってる時間だ、行けよ」
「達っちまうくらいのキスをくれたら、考える」



優しく髪を梳いていたゾロの指がぴたりと止まり、片眉が上げられた。その手に力がこめられ、
本が閉じられる。そのままサンジの顔は微かに笑みを残すゾロの真近に引き寄せられた。
「言ったな?覚悟しろよ」
笑みを含んだ甘い擦れ声。サンジの耳元。ふわりと空気が動く。







ふと。自分の唇をサンジは指先でたどった。
"キス"の仕方も、ずい分とたくさんあることもわかった。
最初に受けた触れるようなもの、啄ばむようなもの、穏やかで深いもの、溶け合うようなもの。
指から伝わる水滴が、含みきれずに零れる、顎を伝わる感触を連想させる。
最近は、少しは上達してると思うんだけどな、とサンジは考え始める。自分と"キス"しているときに、
ゾロは笑い出さなくなったし、と。望めば、与えられるようにもなった。たとえその殆どが、さらりと
かすめるだけのものでも。



背にまわされた手の、爪のたどる線だけで自分の身体が面白いくらいゾロを欲しがるのがわかる。
洩れかける声を押し殺すから瞼の裏側が熱くなる。それでも。ついと身体は離され、頬をその手で撫でられ。
それだけ。



おれはあんたに抱かれたいのに。
あんたの望むことをしてやりたいのに。
でもあの最初の日、ゾロは言っていた。"抱かねえ"って。だから、言えない。



はあ、と長く息をつき、バスタブの中でかるく水滴を散らせた。
水のなかの自分の躯に、全ての痕はとうに消えているけれども。
撓められた生き方で、消せないものがあるとすれば。



「あんたを欲しいと思っちまうことなんだろうな、」



広い窓からの夕暮れ。一面の赤。眼に映し、水の中にあたまごと滑り込む。
ぬるくなった水温はきっと羊水のようで。自分の血流と鼓動だけが耳にきこえる。



なあ、ゾロ。同じ兆しをみつけて、嬉しいと思ったのに。
あの日
あんたは、なんであんな



そうだ、まるで






死体でもみつけたような顔、したんだよ――――?




ウィステリアの降るような中で。






16.
自動的に室内の光量が増え、ゾロはもう夕刻であることに気付いた。"KAYA"のレクチャーは
終わっている時間の筈だけれども、サンジの姿は見当たらない。ああそうか、とゾロは思い当たり
小さく笑みを唇に刻んだ。また溺れてなきゃいいけどな、と。
夕方、日が暮れるころにバスルームに行くのがサンジの習慣になっていた。そして相変わらず、
すっかり日が沈んでしまうまで出てこようとはしない。おまけに案の定何度か溺れかけたことまであり、
その後の取り決めでバスタブでの喫煙および飲酒は禁止にした。



ゾロがソファから立ち上がりかけたとき、微かな電子音が自室の方から響いた。
自室のモニタ・スクリーンに走り抜ける文字列は、メッセージの到着を告げる物。発信者は
「"KAYA"―――?」
別のスクリーンが、ぼうと光を照らし出した。
「マスター、よろしいですか?」
"KAYA"がその中に映し出される。
「ああ。遠慮せずに声などいつでもかけてくれれば良い」



「ベーシック・コードの教授は、ほぼ完了しました」
「そうか?そのわりにはまだずい分と言葉が統一されていない気もする」
「それは、」
"KAYA"がやわらかに、プログラムされた通りとは思えないほどの優しさに充ちた微笑をのせる。
「意図的になさっているのです。もうどこへお連れになっても完璧に振舞われます、政府主催の
晩餐会であろうと」
そう告げてくる人工音声にゾロは苦笑する。
「あの方は、とてもお優しい。私が"消える"心配までなさっています、ご自分のことよりも」



「そうだな、」
そう答えるゾロの眼に浮かぶ色の意味を自分が「知らない」ことを"KAYA"は微かに無念に思う。
自分の命題は、"ヒトに善であること"だったから。
「マスター、私のタスクは終了しました。あの方はヒトなのですから。愛してさしあげてください」
「"KAYA"・・・・・?」



「これは、」
柔らかな声は一瞬立ち消えかけ、また戻ってきた。
「私の行動基盤に反することですが。マスター、私に"言え"と仰ってください」
「"KAYA"おまえなにを―――」
「"言え"と。どうぞ仰ってください」
強い眼差がモニタの中の姿から少女の面影を無くす。
「"話してくれ"」



「あの方は、ご自分を"人形"だと仰いました。マスター、あなたは」



ゆらり、とモニタの画面が滲むように歪んだ。
「ほんとうに、そう思ってらっしゃるのですか―――?」
ぷつりと。モニタの画面が消失した。



「"KAYA"―――?」



灯りを失った室内は、夜の底にあるように薄暗い。
ゾロは、その中央に立ち尽くしていた。



サンジを拾った日から2カ月と少し、あの事故から約2年、気ままに自堕落な世捨て人をしていたのに、 
今ではもう自分がどう過ごしてきていたのか、思い出せないほどだ。それほど自然に、これは多分サンジ
本人にとっても意外であったろうけれども、日常にあの姿は同調していた。
イスに身体を投げ出すようにし、ゾロは眼を閉じる。



「女」たちは自分の日常には誰も入ってくることはなかった。
彼女たちには日常を共にすべき相手は別にいて、自分からは別の物を与えられることを望んでいたし、
またそういう女たちだけを選んでもきていた。彼女たちを抱いて、自分は今までを「忘れる」ことを願い、
彼女たちは失くしたものをもう一度思い出そうとしていた。



だけど。あれほど、もう二度と持たないと決めた特別な存在に、サンジはなりかけている。気付いたら。
その先は―――――。
最初に目にしたときは、素直に驚いた。



最初は錯覚かと思うほどに。全体から受けるイメージがまさしく同じだったから。 
「華やかだけれど、冷たい」。真近で見ると個々のパーツはサンジの方が幾分か、線が硬質だったけれど。
優しい言葉より皮肉のほうが似合いそうな口許。あまりに克明に覚えている輪郭の、唇のカーブ。
記憶が鮮やかすぎて逆にそれが現実に在ったとは思えないほどの線。



もう二度と見ることはないと思っていたその面影が、いまここにいる。このうえないレプリカ。
しばらくの夢ならいいかもしれない、幻ならば―――と。そう思った。
もっと見ていたくて、触れてみたくて、そして自分から手許に置いた。最初は多分気紛れだった。
愛しい人の面影をレプリカに重ねることへの、気紛れと驚きと好奇心だった。



AL以上に、自分を夢中にさせる玩具。
知識を吸収し、優雅さを増し、視線にさえ反応し微笑で返す、「存在」。
それが、
あたたかな体温と、鼓動を持ち。微かにかすれるような柔らかな声で話すのだと気付いたのは
いつだったか。



なにより、憐れに思った、ということもあるのかもしれない。
それは決してサンジに対してではなく、ただ、消費されていくためにだけ生を受ける存在すべてに。
それは、自分の作り上げたAL達に対してでもあり、人工的に生を受けたもの全てに対してであり、
そして、生まれた瞬間から死ぬことが決められていたものへ。
費えるものを、慈しみたいと思ったのかもしれない。



そして、それが
二度と、逢う事すら叶わない筈の者と見紛うばかりの姿で


現れたなら。



傲慢?呼びたければそう呼んでも良い。



やがて、徐々に違いに眼がいくようになり、
それは例えば気分のムラやとがった肩や細いあごや、自分の名前の呼び方。
そしてそれが染み透る雨のように自分を潤しているのを感じた。
降りしきる、春の雨。霧のように穏やかに包み込み、乾いた表面を覆っていった。




何かが、変わったとき。
なにを与えているのか、なにを受け取っているのか
どちらが征服しているのか、どちらが従っているのか
わからなくなった
お互いの心を聞き合うことになるとは、予想すらしなかった
相手が自分の一部になり、調和が生まれた




満たされたと、




思ったのだ。





そして今では――――。
時折、それが一瞬のことも、数秒続くこともあるけれど、「相手」が誰であるのかわからなくなることがある。
だから、ここが"テラ"で、首都で助かった。一緒にいられる。背景が、都市の持つ空気が違うから
長く混同することは、無い。



けれどそれが誰のために、「どちら」のためにしていることか、それすら自分にはもうわからなくなっている。
ただひとつ、確かなことは、
午後、ウィステリアの花弁の降る中、あの日初めて思わず引き寄せ深く口接けたのはサンジであって
他の誰でも、たとえその面影でも無かったということ。腕の中で一瞬、体を固くし、それが奇蹟のように
しなやかに自分の胸に重なった。



いまここに在る存在が、大事なもの、失くしたくないものになってきているのは確かで。
だからこそ、抱けない。



あの午後の自分の葛藤を思いだし、ゾロは小さく笑う。
このおれが、衝動に負けるところだった。抱きしめる腕を緩めたくはなかった。仰向かせ、その首筋に唇で
舌で触れたかった。あの唇から洩れる声を、聞きたいと。あの顔にだけ愛着があるのなら何もこんなに悩む
必要はないんだがな、ゾロは思う。身体を開かせ腕に抱いて、すきなだけ眠ればいいだけだ。



いっそこの眼が失くなってしまえば、あの姿だけを見つめていられるのに。



死んだ恋人の細かい動作や表情を再構築するのに時間がかかるようになってきている。
決して「忘れる」のでは無いけれど。深い水の底に沈んでいくものを眼で追うのに似ている。
今と記憶の間が伸びてくる。確実に時間が間に入り込んでくる。



今までも眠りに落ちる直前に、不意に戯れで交わした口接けの感触が甦ることがあった。
それを不確かにしたくて、だからこそ「女達」と夜や昼を過ごしてきたのに、それはより
確かになりこそすれ、決して他と混同することはなかった。



記憶の底が痛むから、思い出させるものは全て向こうに残してきた。
自分の心も残してきたつもりだった。あるはずだったものと一緒に。なのに―――。
おれはお前を忘れなくてはいけないのだろうか、ゾロは思い、組んだ手に顔を埋めた。









痛い、とサンジは思った。
浴室から出てきた途端に突きたてられた物。暗闇で傷が開き脈打つような。
「ゾロ・・・・?」
リビングに探していた姿は無く。ただ、淡い光が広すぎるほどの部屋の四隅を照らし出し、
どこまでもひろがっていくような首都の光を窓に散らしていた。



そして奥の灯りの落とされた部屋で、何もかもを拒絶しているような後ろ姿があった。
最初の日、自分が目にした姿と重なる。薄闇の中、眠れずに過ごしていた。
ああ、やっぱり、とサンジは溜息にも似て思う。
痛みの出所は、この人だ。



その首元に額を押しあてる。そして両の腕を肩越しに回し抱きしめた
言葉に出来ない想いで、身体中の骨が軋むようでも。
何に苦しんでいるのかわからないけれども。あんたといて、おれは涙を思い出したから。
でも、ゾロ。あんたは。涙の流し方さえ「知らない」みたいだ。
だから。あんたはおれのこと、使っていいんだよ―――



僅かに水分を残した髪の感触が、直に触れたとこからゾロに伝わる。
柔らかなそれに頬で触れ、手を伸ばして指に絡め取る。背中にあたる重みを引き寄せ抱きしめかけ、
すとん、と肺臓に氷の塊が落ちてきた。




もう、耐えられない――――失くすことには。





「悪い、サンジ。一人にしてくれ」











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