Tuesday, July 17
扉を閉ざし。遠ざかるエンジン音が微かに届いてきた。
窓の外には、溢れるようだった水がウソのように引き。蜃気楼じみた熱波が地表から上るのが見える。
コバルト、あるいはターコイズ。そういった蒼がまた一面に拡がる。
3日の間降り続いた雨は、わずかに色を濃くした砂と。記憶の中だけのことになるまであと1時間もかからないだろう。
雨の降り続くあいだ、この場所はまるで箱舟のようだとサンジが言った。
窓の外は灰色で、流れる水が見えた。
これが箱舟ならば、オマエはともかくおれなど一番先に地表に残されるだろうに、と笑ったなら。
じゃあ、オレは側にいる、そう言って。サンジはにっこりと笑みを浮かべていた。
「アナタの側にいるよ、」
ふわふわとした笑みを浮かべ。迷いのカケラも感じさせない声で言っていた。
おれは、こういうコトバに返すコトバはいくつも持っていたはずだったけれども。
いまではそれのどれ一つとして、相応しくはなくなった。
だから。
否定も肯定もせずに。引き寄せて頬を撫でた。
きゅう、とサンジが目を細め。雨音が耳についた。
二日の間、時間を過ごした。
手の届く範囲に、存在を置き。
腕を伸ばしては引き寄せ、抱きしめ。
反対もまた然り。
夕方とも朝方とも判別のつかない明るさのなかでただ時間を過ごした。
ネコのエサの恩恵も、エサ無しのちょっとしたつまみ食い、とでも言うのか?それも。
享受した。
あの、ドクター・タオ、だったか。
ハッピー・ウェット・ホリディズ、と電話口で告げたのが聞こえた時にはオカシナ表現をするな、と思ったが。
いまなら同意できるな、多少は。
どうせ、またあのナース連中にサンジは精々からかわれるんだろうが。それはおれの責任じゃない。
キッチンで淹れたエスプレッソを取りに行き、ふと気付いた。
雨音が無くなってみれば、この場所には一切、音らしい音がなにもないことに。
どうせなら、なにか買ってくるか?我ながら信じ難いことに、サンジの専門書も大概読んじまったし。
これ以上リカルドのセレクションを読む気もしないしな。
次はマラルメの詩集でも持ってきかねない、ヤツは。あぁ、あとは「アンナ・カレーニナ」あたりも怪しい。
カンベンしろよ……?リカルド。
そして、ちょうどエスプレッソを飲み干す頃、時間に正確なロマンティストのエンジン音が聞こえてきた。
白馬の代わりにフォードのピックアップでお出ましだ。
ああ、そうか。
午後早めにでも出かけて。DVDプレーヤーでも買ってくるか、いっそのこと。
つら、と考えていたら。
扉を軽くノックされた。
「開いてるぞ、」
声に出す。
「おはよう、狼」
「あぁ、雨は楽しんだか?」
さらり、と笑顔つきで扉を抜けてくる姿に言った。
「あぁ。お陰で掃除が捗ったさ」
「ここもそれほど汚れてないだろ」
「…そうだな。まぁ、今日は洗濯ぐらいか?」
「じゃあ、早めに切り上げて付き合え。買い物がある」
ちらり、となかを見回してにこりとした相手に言った。
「ランチは?」
「あぁ、メンドウだ。外で」
「了解」
この家には音が無いだろう、何か買ってくるつもりだと告げれば。
「本はもういいのか?」
にやり、とりカルドが笑って。つい、と腕を差し伸ばしてきた。その先には、こともあろうに。
ミルトンの「失楽園」が装丁も美麗に捧げられていた。
「―――リカルド。こんどは古典主義か、あんたは」
ぱしり、と音を立てて受け取り。わらった。
「壮大なファンタジーを楽しむのに、充分な時間はありそうだからな、あんた」
けろり、と笑ってさっさと、―――どうやら洗濯を実行するらしい。
「他に洗うものがあったら、今出してくれ」
「あぁ、――――無い」
エスプレッソは入ってるから適当に飲んでくれ、と言い残し。
ミルトンとタバコを片手にポーチへ出た。
手にした表紙を眺める。ハイスクールの頃に、確か寝物語に聞いた気がする。顔も覚えていない誰かが、
柔らかな声で筋を話していた記憶が朧気にあった。
――――あぁ、あのオンナだ。「西洋文学」担任のビジン。
しょうがねぇな、読むか。
雨の音。一生これから忘れないんだろうなぁ。
ざあああ、って音がする度。
ココロもカラダも…きっと甘くなる。
雨が降ってる間、ずっと愛されてた。
蕩けきって、溶けきって、…うにゃあ。
雨…きっと一生好きなんだろうなぁ。
きゅうう、って胸が疼いた。
甘酸っぱいリンゴみたいなカンジ。
ううん、ほんとはもっとこう、なんていうのかな、もっと甘くって、でもきゅう、って酸っぱくって、でも甘くって…
やっぱりリンゴが一番近いのかな?
熟れたリンゴのハチミツ色の蜜。甘いもんなぁ…。
あ、リンゴが食べたくなってきちゃった。
ううん、ホスピタルに行く前に、グローサリストアに寄っていくべきかなあ?
…まぁ、いいや。後にしようっと。
大分オレふにゃあ、ってなってる自覚あるから。
少し早めに行って、しゃきっとしなきゃあね?
ホスピタルの駐車場に車を停めた。
中に入ると、ブリジッドが丁度着替えて出てきたところだった。
「…ああら、ベイビィ。ステキなウェット・ホリディだったみたいね?」
きゅう、と抱きしめられて、ステキなラインの身体を抱きしめ返した。
「ブリジッド、アナタのホリディは?」
「…ステキなホリディだったわよう?きっとサンジほどじゃなかったけどね」
柔らかく頬に口付け。
さらり、と髪を撫でられた。
「ベイビィ、きっと誰も気にしないけど。鎖骨、ちょっと赤いわよ」
ふふふ、って笑い声がした。
…うあ。
そういえばそこも、いっぱい齧られたっけ。
きゅー…照れるぞう?
「幸せね、サンジ」
柔らかでやさしい声に、込み上げるまま笑みを浮かべる。
「…にゃあ」
それは、もう、幸せだよう?
「いい子ね、ベイビィ」
サラサラ、って柔らかく髪を撫でられた。
…ブリジッドって。…オトナだなぁ…!
早く着替えておいで、って言われて。ロッカールームに行った。
ドクタ・タオは、雨の間、ずっと泊まりこんでいたらしい。
洗濯籠の中、一杯になってた。
うーん…家のもやんなきゃなあ?
着替えて、処置室の奥の部屋に行く。
「おはよう、サンジくん。いい雨休暇だったみたいだね」
「おはようごさいます、ドクタ!」
すでにバインダーを持って、ボブキャットの朝の検温をしていたらしいドクタと笑顔を交わした。
屈んでケージの中を掃除していたエミリーがひょこん、って立ち上がって。
「シャーロットがいなくてよかったわねえ」
そう言って笑った。
「え?どうして?」
ひょい、っと渡されたボブ・キャットを抱いて、エミリーに向き直ると。
「だって、あの子だったらきっと。"乾く暇もなく濡れっぱなし、しかも雨のせいじゃない"って言いそうだもの」
にっこお、って笑いかけられた。
ドクタが横でぶふっ、て噴出していた。
………うわぁお。…オレ、なんて言えばいいの?
「エミリー、それじゃああなたが言ってるようなものだわ」
ブリジッドが笑いながら、タオルの束を持ってきていた。
「あら、いっけない。移ったのかしら?」
ケラケラとエミリーが笑っている。
ドクタはげほげほ、と咳き込んでいた。
ボブ・キャットの仔と目を合わせる。
「…オンナノコって、慧眼だねえ」
みあ、と小さな声が、オレに応えた。
「さぁ、それじゃあしっとりと潤ったところで。働くわよう!」
エミリーが、ちょんっと頬にキスをくれた。
ああ、うん、オハヨウ、久し振りだね、エミリー。
ドクタはどうやら立ち直って。洗濯機を回しに行ったようだ。
それにしても。いったいエミリーのどこがどういう風に潤ったんだろうねえ?
遊びたそうに、じたばた、と手足を動かしているボブ・キャットを抱きなおした。
ブリジッドが片目をぱちっと瞑っていった。
…オンナノコは、謎が多い。
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