Sunday, August 4
走っては休み、休んでは走り。
闇の中の森、僅かな月明かりを頼りに麓近くまで下りてきた。
ざわめき始めた森の動物たち。
目覚める木々。
空気が変わる。
色が変わる。
もうすぐ、夜が明ける。
いつだかジャックおじさんと、エマと並んで空を見上げた場所に、今オレはいる。
傍らにはティンバーと、カレの群れ。
濃い藍がだんだんと白みを帯びていく。
空気。僅かに温みを帯び始めていく。
夜通し一緒に走ってくれた群れとは、ここでお別れだ。
あまり人里に近いところは、カレらは好まない。
「ハウォオオオオオオオ…ン」
高く細いティンバーの声。
金色の光が広がり始めた空に向かって吼える。
遠くで、カレらの仲間が応えた。
そして、犬の遠吠えの合唱。
境界線。
いつもオレはそこにいる。
どちらの世界にも足を踏み入れ、どちらにも属せずに。
掛け橋、鎖。
"繋ぐ者"、それがオレの持っているもう一つの名前。
誰にも教えない、オレだけの名前。
ティンバーと群れに、別れの挨拶をした。
カレらと走るのは、とても気持ちよくて、嬉しかった。
だけど。
オレはカレらの群れの一員に成り切れないことを知った。
オレはヒトで、カレらは狼で。
大学に入って森から離れ始めた時点で、オレは少しずつ群れの一員ではなくなり始めたんだろう。
ティンバーがいる限り、多分オレは群れと行動することを許されるだろうけど。
代替わりして、一緒に育った仔たちがいなくなれば。
オレはきっと、ソト者になる。
他の群れにとって、オレがそうであるように。
ゾロに出会ってなければ。
多分オレは森での生活を選んでいただろう。
野生動物専門のドクタとして、森の中で住む生活を。
そうして、ティンバーの群れの中に残って、生きていくことができただろう。
時折ヒトの世界に帰るだけの、群れの仲間として。
だけど。
ゾロ。
オレは、アナタがイイ。
群れから離れるのは、とても寂しいし。
一緒に走れなくなるのは、とても辛いけど。
ゾロの手の届くところに、オレは居たいと思う。
一年に一回でもいいから、ゾロにひっついて眠りたいと思う。
本当は毎日がイイケド、ムリなのは知ってるから。
できる時に、ゾロと話しをして。
いっしょにゴハンを食べて。
一緒に眠りたい。
ゾロの腕の中にいたい。
森に久し振りに帰ってきたのに、オレの中に空っぽのところがある。
穴が空いて、中に充ちているのは闇だ。
ティンバーたちと一緒にいても、埋まらなかったソレ。
ダディに言われて、少し考えたけど。
ゾロの他には、そこを埋めてくれるヒトなんかいない。
大学のトモダチ、ゲレンデで知り合ったヒトたち。
マミィやダディのトモダチ、ワラパイのヒトたち。
思い返してみた。
考えてみた。
だけど、ゾロみたいなヒトは、他に知らない。
ゾロだけがイイ。
ゾロじゃないと、ダメなんだ。
空を見上げた。
太陽が、少しずつ姿を見せ始めていた。
会いたいから。
愛してるから。
ゾロに……会いたいから。
オレは、………ゾロの何になれるか、まだわかんないけど。
ゾロじゃないと、どうしてもダメだから。
もう、戻れないね、オレ。
ゾロを知る前には。
森で幸せに生きてた頃には、もう戻れないね、オレ。
ジャックおじさん……なんて言うかなあ?
麓の一軒家を目指して、走り始める。
群れがずっと、見送ってくれてた。木々の中から。
最後、解ってる。
ずっと、繋がっていく、だけど。
オレは、今は、ヒトリだ。
カレらの中に、元のようには、もう戻れない。戻らない。
それでも構わない。
緑の広がった僅かな土地を走る。
森の終わり、ジャックおじさんの所有する土地だ。
鹿除けの柵を越えて、目指す一軒家。
煙突からケムリが出てる。
犬たちの声。
エマと狼のラディの末裔。
異種交配を広げないために、ジャックおじさんが面倒みてる彼らは、オレの匂いを知ってる。
狼たちの匂いも知ってる。
迎えに来られた。
少し遠巻き。
少し興奮している。
いつものコトだけど。
吼え声。
馬の嘶きが聴こえてきた。
木の家。
ポーチに立つ、人影。
段々と人影が鮮明になる。
長い黒の混じった白髪。
長袖を捲り上げたシャツ。
デニム。
ブーツ。
見慣れた銀とターコイスのネックレス。
羽根。
皺が深く刻まれた顔。
目元、少し細められてる。
ドアの前にたどり着く。
屈んで、息を整える。
いつのまにか、狼犬たちの声がしなくなってる。
じ、と注がれる視線。
息を整えて、つばを飲み込んだ。
見上げる。
「…………偉大なる霊が、オマエを導いてくださるだろう」
「ハイ」
「息災でなによりだ、シンギン・キャット」
「おじさんも」
「入れ」
ドア、開けられた。
迎えいれられる、家の中。
温まった空気。
「オマエはスキディだが、スキディではない」
狼だけれど、狼ではない。
少し笑った目許。
指差されるのは、いつもの場所。
「ヒトになってから休みなさい」
バスルーム、指し示された。
「啓示がありましたか?」
「夢に訪れた。山を下りる前の声も聴こえたしな」
「…ありがとうございます」
「なに。この時間にオマエが訪れるのは、珍しいことでもあるまい」
ぽん、とアタマを撫でられた。
僅かに笑って、頷いてくれた。
微笑みを返す。
「感謝してます、いつも」
バスルーム、訪れるのは久し振りだ。
身体中を洗って、オオカミの匂いを落とす。
僅かに混じってる血の匂い、それにエマの仔たちや馬たちが反応して、騒ぐから。
あるべきものは、あるべき所へ。
境界線、繋ぐオレは、いつでも独りだ。
そして、いつでも沢山の存在に繋がっている。
湯船に浮かびながら、そんなことを思った。
そして浮かぶ、一つの疑問。
「オレはゾロの何になれるんだろう…?」
風呂から出た。
身体を拭いて、気付く。
いつのまに気付かれたのか、用意されていた薬と包帯。
やっぱりおじさんには敵わないや。
傷を見る。
心臓の上の引っ掻き傷、かさぶたになり始めている。
掌の傷、こっちも血は止まって、やっぱり同じ様にかさぶたになり始めていた。
失っても、新たな細胞が傷を塞ぐ。
年老いた細胞は、知らない間に入れ替わっている。
もしかしたら、ヒトとヒトの関係も、そんな風になってるのかもしれない。
だけど。
オレはゾロがいなかったら、ダメだ。
ゾロの代わりは、ホシクナイ。
ゾロの代わりなんか、アリエナイ。
ゾロがいなくなったら、オレもいなくなればいい。
うん、前にもゾロに言ったよね、ソレ。
ゾロのいない世界はイラナイから。
ゾロにそのことをもう一度伝えるために、オレはゾロに会いにいく。
信じている、ゾロにもう一度会えることを。
あの場所で会えなかったら、ゾロを探し出すまでのこと。
着替えて、ダイニングに行った。
ジャックおじさん、コーヒーを飲みながら、オレを待っていた。
椅子を勧められて、座る。
黒い目が、オレを見る。
「さきほど、エドワードが電話をかけてきた」
「ハイ」
低くて深い、すこししわがれたジャックおじさんの声。
見通されている。オレがここにいる理由を。
ダディに多分オレの所在を訊かれたのだろう。
「案じていたぞ」
「…ハイ」
責める口調ではないけれど、少し胸が痛んだ。
オレはダディとマミィに愛されている。
それはちゃんと解ってる。だけど、オレは決めたから。
オレのしたいこと。
見上げた。
おじさんが少し目を細めた。
じっと見合う。
「……決めたのか、オマエの役割を」
「決めました」
「…オマエはスキディのものなのだな」
「……ハイ」
窓の外、光が溢れていた。
薪が爆ぜる音がする。
ニワトリの鳴き声。
犬たちが吼える音。
聴きながら、じぃっと目の前の黒い瞳を見つめる。
おじさんが、一つ深い息を吐いた。
「……オマエに偉大なる霊の加護を」
「ジャックおじさんにも」
「オマエがなにを選び取ろうと、オマエはずっと"シンギン・キャット"だ」
差し出される手に、手を差し出した。
さらり、と触れられる。
「……さぁ、休みなさい。オマエの行く先は、遠い」
「ハイ」
温かいハーヴティを1杯飲み干してから、眠るために準備を整えた。
暖炉の前のラグ、オレの指定席。
毛布に包まって横になると、エマの最初の仔の一匹、ティラがそうっと寄り添ってきた。
おじさんは、外に出て、家畜の世話をしにいったみたいだ。
温かい熱に包まれて、すぐに意識が融けた。
不思議と、意識が落ち着いていた。
夢の中、レッドが走っていた。
オレの横、寄り添うように。
群れと離れても、オレはオレのまま。
怖がることは、なにもない。
オレは走っていける、どこまでも。
安心して、意識を手放した。
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