第9章


Monday, August 5  
とうに夜半を過ぎて、気温は一気に下降し始めていた。吐く息が白い。
よく躾けられた馬が、緩やか過ぎずかといって早足でもない独特のペースで歩を進めている。
ときおり、短く息をつく度に夜目にも馬の息が白いのがわかった。
空は、見上げなくてもわかる。どうせ、地色が見えないほどの星空だ。

雷魚のじーさんの家は、レジデンスのはずれにある。少し進めば、すぐに森、とも林とも言いかねるモノが見えた。
まばらに生える木。
星明りに、その影がそこここに浮かび上がる。
乾いた砂を踏んでいく蹄の音に混ざって、先のほうからサンジが何か小さく口ずさんでいる声が流れてきた。
耳慣れない音階、それでもいつの間にか記憶の底に残っていた語感。
聞こえる、夜の底に。
先を進む背中が暗がりにぼんやりと浮かぶ。

背が暗がりに沈みこみ、木立の間に入ったのだと気付く。
ふわり、と思い出したようにときおり振り返り。その度に淡い色が暗がりにぼんやりとした軌跡を残す。
笑み、がその口許にはきっと浮かんでいるのだろう。
少しばかり足を速めさせ、馬首を並べた。
「ここを抜けて、その後は?」
「コロラド川を目指して、崖を下りるよ。最初は緩やかだけど、途中から勾配が急になる」

ふ、と。
記憶が揺れる。
「ピクニック。」昼間の陽射し、光を跳ね返して煌めいていた川面と、穏かな水の流れ。
「途中までは、前と一緒だな」
「…ウン。一緒に泳ぎに行った時とね」
知らず、苦笑めいたモノが浮かんだ。
おれの気分を感じ取ったのか、サンジも。
「随分と昔みたいに感じるね」
そう言って微妙な笑みを浮かべていた。
「あぁ、同感」

「…ゾロ、好きだよ、アナタが」
腕を伸ばし。肩口に触れようとすれば、それより先。にこりとしたサンジが腕に触れてきた。
「前より今のほうが、もっと」
60日。
プラス、何日か。
すこしどころか大したジェットコースター・ライドだ、我ながら。
プラスからマイナス、漠然とした好意から信じ難いほどの愛情。生温くなったと思っていた慣れきった世界が、
牙まで剥き出した。

「どうだろうな、」
す、と横を見遣る。
「それは、アイジョウの定義にもよるだろう?」
カラカイ交じりに告げる。
「じゃあ、言い直す」
徐々に、木の陰が数を減らしてきた。もう少しで、この木立を抜けるのだろう。
サンジが、にこ、とまた微笑んでいた。
「前より深く、アナタを想ってるよ」

腕を伸ばし、肩を引きとめた。一瞬。
蹄の音が重なる。
そのまま、身体を引き寄せ。かるく唇に触れる。
ふわりと、蒼が笑みに細められるのを間近で捕えた。
「想いか、」
悪くないな、と呟いた。
ただ、オマエのそれは。損得で行くと、相当マイナスだと思うがどうせ強情だからな、いまさら何を言っても無駄か?

「敏いようでも、バカネコだな。サンジ」
さらり、と髪を指で梳き。身体を離した。
「イイモノもワルイモノも、ひっくるめてアナタを想うもん」
「パーセンテージは、3:7ってとこだな。まぁ、せいぜいガンバレ」
ふわふわと上機嫌にわらうサンジに言い。
また、頭上に空が戻ってきた。木立を抜けたらしい。
後は、崖がある、と言っていたか。
それを降りていけば、川があったことは覚えている。緩やかな斜面に岩が幾つも重なっていたことも、低い茂みがまばらに
あったことも。
ちびの記憶に残っていた。暗がりでも、あの程度なら大丈夫だろう、第一。
この馬はどうやら道を覚えているらしい。
元重病人、現怪我人にはアリガタイ。



星と月の明かりを頼りに、滝に向かうために馬を進める。
足場、暗いけれど、見えないほどではないし。
リトル・ベアが貸してくれた馬たちは賢くて、何度も辿った道を覚えている。

唱を口ずさみながら、夜道を進む。
背後にいるゾロが、息をするのを聞きながら。
オレが乗った馬のサイアと、ゾロが乗ったファルの蹄が刻むリズム。
彼らの息をする音も聞きながら、スピードを調節していく。

崖、緩やかだったのが、少しずつ勾配が急になっていく。
木が生えていた場所に比べ、ここら辺りは大きめの岩と小さ目の岩がゴロゴロとしていた。
目を凝らすまでもなく、黒くもさっとした塊は、小さな茂み。
通る予定の道から大分離れたところで、蛇がゆっくりと移動していた。
近寄ってくる気配はないから、追い払う必要もない。

時々ゾロを振り返りながら、崖をゆっくりと斜めに下りていく。
聞こえ出した水音、まだ随分と遠い場所。
コロラド川が流れているのが聞こえる。
耳を澄ませて、ゾロが息をしているのを聞く。
馬の背に乗っているからといって、車に慣れているゾロにとっては決して楽な移動手段ではないだろうし。
なにはともあれ、さっきまで熱があったワケだし。

リトル・ベアと師匠と別れてから、2時間は経っているから、川を渡ったら休憩しよう。
サイアとファルも、これからまだまだ歩くのだし。
ムリは禁物。
いくらペルさんが優秀だからといって。
ここまで追っては来れないし。

「ゾォロ。水音、聴こえる?」
声をかけてみた。
あァ、って声が聴こえた。
……疲れてきたかなぁ?
「川渡ったら、ちょっと休憩しようね」
「ガイドに任せる」
そう応えが返ってきた。少し笑ってる声。
「任せて!」
笑ってまた視線を前に戻した。

サイアとファルの足は淀みなく、谷底の川へと向かっていっている。
また唱を歌いに戻る。
「それ、なんていう意味なんだ?」
ゾロの声が聴こえた。
「これはねえ、ポーニーズに伝わる物語でね。彼らの起源の話なんだ」

狼の星が、他の動物の星たちが「地球」を作る際に参加を呼びかけられず、
地球の創生を見守るために呼ばれた「西の嵐」にことの顛末を語り。
その嵐が地球に最初の人々を運び込み、嵐が休んでいる間にバッファローを狩るようになり。
けれど最初に嵐が持っていたつむじ風の袋に入っていた彼らを、狼の星に見届けるように命じられていた灰色狼が盗み出し。
狼はバッファローから遠ざけられた人々に殺されてしまい、
そのことを哀しく思った西の嵐に、「死」を地球に持ち込んだことをいつでも覚えておくために、狼の人々と呼ばれるように
なったこと。
スキディ・ポーニーという部族の由来。





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