ジョーンが。
いなくなってしまった。
朝がきたら。
ずっと、ジョーンと一緒にいられるとは思ってはいなかったし。
いつか、彼がいってしまう時がくることは、わかっていたけれど。
ダイスキなダイスキな、ディア・ジョーン。
哀しかった。

同じ顔でも、ジョーンはやさしい顔をしていたのに。
本来の彼は、厳しい顔をしていた。
グリーンの瞳。
警戒していた。
涙が、零れた。
彼が戻ってきたのは、喜ぶべきことなのに。
彼が本来、この時空で生きるべき人なのだから。
ゾロ・ジョーン・ドゥ・シェリール。

オレが好きになったジョーンの記憶は、それでも僅かに残っていて。
引き寄せられた腕の中は、変わらず温かかった。
それが、哀しかった。
名前も告げない内に、サンジ、と呼ばれた時。驚いた、記憶が残されたままなのか、と。
けれど、そんなことは、在り得なくて。胸が、きゅうと痛んだ。

ジョーンは聡明な人だった。ゾロも、頭の回る人だ。
何か、多分…複雑な立場にいる人だ。
質問されるのが、キライみたいだった。
エミィとか、シンディとかと、交わしたような口付け。
息が出来なくて、苦しくなるように、総てを奪われるような。
熱い舌先が、口の中を探っていって。引き出していったのは、苦い思いだけだ。
ジョーンが、言っていた。キスが上手な方が、幸せだ、って。

だけど。
あんなのは、"スキ"の証明にはならない。
ゾロは明らかに、カレのことから意識を反らすために、口付けてきた。

そんなの。
そんなのは、イラナイ。
哀しくなるだけだ。
でも。

髪を撫でられて。頬を撫でる指も。
キツイ光りを宿したまま、それでも溜め息を吐く様に和らいだ眼が。
少しだけ、柔らかかったから。
ジョーンが見せてくれた優しさが、そこに残っていたから。
ゾロを、キライにはなりたくなかった。

オレは、ずっとジョーンを想う。それがゾロとはベツの人だと、知っているけれど。
ゾロ。少し、疲れているみたいだった。何かを、決意していたみたいだけれど。
カレはきっと、オレを置いていくだろう。
ここには居れない人だと言った。
ゾロの時間が、動き出した。
けれど。
それでも。
ここにいる間、少しだけでも…気を許していてほしかった。
だって、ここには、オレとゾロしかいないから。
ゾロがゾロとして、カレの世界に戻っていってしまう前に、せめて。
少しでも、息を吐いていって、欲しかった。
やさしいジョーンが、険しいゾロに戻りきってしまう前に。

オレはジョーンに。
どんなカレでも、オレはきっと想うって言った。
ゾロは、迷惑かもしれないけれど。オレは彼に、優しさをあげたいと、思った。
警戒しなくてもいい存在。
ゾロは知っているのかな。一匹狼は、決して長生きできないってことを。
彼はなにかを、気にかけていたから、決してひとりきり、というわけではないのだろうけれど。
オレは、ゾロを。
ただ、抱きしめてあげたい。


ゾロは、なんだか戸惑いながらも、朝食の支度を、手伝ってくれた。
サニー・サイド・アップにソーセージ。トスド・サラダとトースト。エスプレッソ。
食べ始める前に、祈りの言葉を唱え始めたオレに、とても訝しげな顔を向けた。
無視して食べ始めようとしたから、その手を手で掴んで。
「神に感謝しろとは言わないけれど。食べられることには、感謝をしなさい」
食べ物は、やがて血となり、骨となり。アナタの一部になるのだから、と。
そう言うと、ゾロは片眉を跳ね上げて。
「ここはあンたのテリトリーだ。"仰せのままに"」
そう言って、十字を切った。
哀しかった。
彼は、多分。
世界の総てが、何らかの形で、今を支えあっていることを。
知らない。

だから、いつもどおりに、天にまします我らの神よ、と祈る代わりに。
「オレの命は、これらの食物に支えられて存在するものです。これらの恵みを得られた事を。
餓えの苦しみを味合わずに済むことを。感謝します」
そう、祈った。
ゾロが目の端で、にぃ、って片唇だけ吊り上げたのが見えた。
「ソレがあンたの神か?」
「…そうだよ」
「フン。悪くないな、」
…びっくりした。神は、信じていないって、言ってたから。
Amen、って声がして。
ジョーンが言ってたことを、思い出した。見ているだけの神なら、いらないって言ってたこと。
さくさくと朝食を食べ始めたゾロを、少しの間見ていた。
ゾロはいつか、気付くだろうか。神は人格ではなく、事象であるということを。
そして、それを越えて、総てを内包するものだ、ということを。
いつか。ゾロがそんなことに気付いてくれればいいな、と思った。

視線に気付いたらしく、ちらりと眼を向けられた。
「…味はどう?」
「美味い。」
「よかった」
オレはアナタに。喜んで貰えると、嬉しくなる。
「じっさい、」
自分も、プレートの物を、口に運びながら、ゾロの言葉を待つ。
ゾロはもう食べ終えていて、フォークを皿の上に置いていた。
「これだけ普通に美味い朝食は久しぶりに食った。ゴチソウサマ」
「きれいに食べてくれて、ありがとう」
に、って笑ったゾロに、なんだか嬉しくて。同じ様に、笑みを浮べた。
やっぱり、美味しく食べてもらったほうが、嬉しいし。
さくさくと食べ終えて、食器をシンクに置いた。
コーヒーも飲み終えて。皿を洗い終わって。
まだコーヒーを飲んでいるゾロを置いて、着替えていると。
携帯電話が鳴った。

レジデンスにある動物病院で、車に轢かれたコヨーテの手術が行われることになった、と。
野生のコヨーテの手術を、間近で見るなんて、大学では在り得ないから。すぐに出る、と答えて。
30分後に運び込まれる予定だっていうことを確かめて、急いで着替え終え、顔を洗った。
「ゾロ!オレ、コヨーテの手術を見に行ってくるから!着替えは、寝室の箪笥の中。シャワー浴びたければ、勝手に使って」
支度を整えながら、叫んで。
「あ、ここ砂漠だから!お水は大事に使うように!!」
思い出して、言って。
「ごめん、イキナリで。帰ったら、イロイロ話すから!」

あ、なんか。ハトが豆食らったような顔してる。
このまま置いていったら、寂しいかな?
「できるだけ早く、帰ってくるから」
ソファの上、カップを持ったまま固まったゾロの頬に口付けて。
「行ってきます!!!」
携帯とカバンと鍵を引っつかんで、車に飛び乗った。あまり整備もしていないけれど、この車は快調で。
コヨーテの項目、前に読んだところ。骨格や筋肉などの図を思い浮かべながら、砂漠の道なき道を飛ばした。
後に残されたゾロ。ダイジョウブかな、と思いつつも。
思考はすでに、手術台に乗るだろうコヨーテのことに移っていって。
砂煙に塗れて遠ざかる家とともに、あっという間にゾロのことは、頭から離れていった。



ぱああああん!と。
ものの見事に快音を立てて閉まった扉に向かって、どうにか。「イッテラッシャイ、」と発声した。
コヨーテがどうとか手術がどうとか。ぴょんぴょんネコのコでも跳ねてるのか、って勢いで。
ひとしきりぺらぺらと何か言葉に乗せて、走っていった。
忙しいついでにうっかり間違えたのか、おれの頬に唇まで押し当てていなくなった。
なんなんだ、アレは。

リビングの棚には、医学書が並べられており。専門書と。
ただそれは全て家畜とか野生動物に関するもので、ああどうやら、サンジは獣医にでもなるのかとそんな事を思った。
インターン、というわけでもないのだろう。夏期休暇にレジデンスにバイトにでも来たか。
言葉のアクセントはこの辺りの物ではなかったし、あんなコドモが砂漠の真ん中にぽつんといるのもそれで納得がいった。

カップを空にし、立ち上がった。シャワーでも浴びよう。たしか奥にナントカいってたか。
クロゼットには、まだ真新しい服がいくつかあった。何枚ものシャツと、デニムと。
適当に掴んで奥へと進んだ。そしてバスルームからの景色に、思わず眼を奪われた。
絵に描いたような荒野と、とおくにそびえる岩の塊り。

"砂漠だからお水は大事にしないと、"
"わかりました"
"頑張って入ってね。"
シャワーに頭を突っ込んだ拍子に、耳の底に聞こえた。
右の脇腹に、うっすらと打ち身のあとが残っていた。
事故の代償がちょっとした記憶障害と打ち身だけか。どうやらおれは運がよかったらしい。
ならば、それを使い切る前に動かないといけない。

クロゼットを探り、きちんと砂埃を取られたスーツを見つけた。ポケットには弾と銃がきちんと入れられていた。
シリンダーを回す。がち、と低い音がし、手のひらに馴染んだ重さに知らずに笑みが漏れた。
弾装に弾を込め、サイドテーブルへと置いた。スーツの反対のポケットには、ナイフがあった。

ふと。
かさり、と上がった微かな音に内ポケットに手を突っ込んだ。
黄色の、ノートパッドの切れ端が丁寧に折りたたんであった。宛名には、「ぼくへ、」とあった。
ざわりと。なにかが足元に這い寄った気がした。
おれは。いまは、これを読むべき時じゃあない。
手紙をシャツのポケットに戻し、デンワを探した。居間になかったのだからここだろうと。
―――ないな?
そうして、気付いた。ここは、「砂漠の真ん中」じゃないか。
電話線など、引いてあるはずがない。
しまった、だ。まさに。
おれの常識はこの場所では一切通じないらしい。

寝室の奥の書斎にノートPCがあったが、筐体だけがあってもどうしようもない。
ペル、もしくはドルトンへと。中継ナンバーから転送されるメッセージ、ないし発信元は
おれの居場所なりを伝えることはできたとしても。
そもそもこのPCが外界に接続されていなければ意味がない。
クソ。
窓からの景色は、ここがレジデンスから離れている事を証明しているだけだった。
ここから、自力でレジデンスまでたどりつくことは、ほぼ、絶望的だろう。そもそも、道がない。
クソ忌々しいコヨーテが死んじまえば、アレはさっさと戻ってくるか?
死ね、ドーブツ。

寝室を後にした。ガンはデニムに雑に突っ込み。
おれがいっそ殺しに行きたいくらいだ、と考えた。

荒野のど真ん中で。おれは死んだことになっちまっている。
顔を潰された連中が、歯噛みしながらキューを待っている。
多分、ペルからの。
3日あれば、アレのことだ大体の 事情は把握し終えて、今ごろは最大限に効果的な報復を練っているに違いない。
ただ、まだ決定的な証拠が挙がっていないから指を動かさないだけだろう。
遺骸の切れ端なり、警察からの最後通告なり。
アタリマエだ、おれは現にここに生きている。

今日が、4日目だ。 リミットまでは、おそらくもう2日ばかり。
のんびり朝食を食っている場合じゃなかった、それは解っていた。
ただ、アレが。
酷く辛そうに眼を伏せるのを正視できなかった。
そのこと自体に、おれもとまどった。
泣き喚いて命乞いしてきたヤツを。 黙らせる方がよほど簡単だ。
2度、3度。こざっぱりしすぎている室内を歩いて回った。武器の類はゼロ。
銃器、ナイフを含み、あっけないほど何も無い。護身用も持たないのか。
こんな場所に住んでおきながら?ああ、クルマに乗せているのかもしれないな。
かち、と。次のチャンスでチェックしよう、とインプットされた。

フリーザーを開けた。
たまに、ガンを入れているヤツがいる。
…ナシ。
半分なくなったチェリーパイがあった。
ミネラルウォーターの瓶を持って、ソファへ戻った。
さあ、死んじまえ。コヨーテ。
窓の外を睨みつけた。どこまでも拡がる砂漠。

ソファで、しばらくコヨーテを呪ってみたがバカバカしくなって止めた。
そういえば、ヘビを山道で撃った。ガンの手入れはした方がいいのだろうが。
この家には、護身用の銃器すらない有様だ。まして手入れ用のオイルなど問題外だろう。
探しても出てきはしないだろう。 もしかしたならば、先の住人のモノでもあるかもしれないが。
年代モノのオイルなんざ、何の役にもたちはしない。
せめてウエスでもあればとも思ったが。
諦めた。

ベレッタは、いい銃だが雑に扱うにはデリケートすぎる。
こっちを持ってきて正解だったな、とコルトをテーブルに置いた。手の届く範囲。
そして、ぎらつく陽射しを眺めながら。おれを吹っ飛ばそうとしたヤツを考えた。
オシート(小熊)か?ペルーの仲介人。
いや、ヤツはカルテルの吸収をおれに持ちかけてきている。
ジュネーブのヤツの口座がフルになる前におれを吹き飛ばしはしないだろう。
ディエゴ?
違うな……
欠伸を噛み殺した。
そういえば、肩の辺りが妙に熱っぽい。 陽射しがきつすぎるんだ、ココは―――
在り得ない事に、 他人のテリトリーで、イキナリ睡魔にトッ捕まった。
まずいな、とちらりと思った。
それが、意識の。最後の欠片だった。




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