Monday, August 19
結局、眠ることはなかった。
眼窩の奥がどこか冴えたように感じられるだけで、例の。偏頭痛じみたイタミもなかった。意識ごとクリアだ。
ラガーディア空港へは定刻通りに到着する、そんなことをフライトアテンダントが言ってくるのを聞いた。
――――軽い衝撃、地面にタイヤが着き。やはりフライトは気に食わない、と実感する。
窓外は、この時期のNYにしては珍しくうす曇だった。
久しぶりに、青くない空をみた気がする。
すい、と意識が勝手に「向こう」を象りかけるのを押しとめ、出口へ向かった。
「良い一日を、」
珍しく人並み以上の美人が見送るのに、苦笑いが零れる。なるほど、良い一日、ねぇ…?
おれはいまからアレと会うんだぜ?
良い、どころか。
―――なんだろうな、むしろ。いま、アレの周りにいる連中の方におれはむしろ同情するな。
カワイソウニ。息ひとつするのも気が気じゃないだろう、怒ったペルは始末に悪い。
剥き身の刀が蜘蛛の糸で自分の上を揺らいでいる、って具合の緊張感だ。
到着ゲートを抜ければ。
確か、まっすぐパーキングへ来いと言ってやがったか。サインをグラス越しに目で追えば、すう、と右肩の後ろに知った
気配があった。
……もう一人、その少し斜め横にも。
振り向かず、軽く手で合図する。よう、タダイマ、と。
右です、と聞こえないほどの声が返され。指示通りに進んで行った。
おっかねぇのはゲートでの「お迎え」は嫌いか。
おれだって、アレに迎えにこられたらその足で引返したくなるから丁度イイ。
パーキングへのエレヴェータの中で初めて、二人がお帰りなさい、と言って来た。
あー、オマエラも怒ってるのかよ。少しばかり笑いが顔に掠めた。
「だから、気をつけてください、っておれは言ったんです」
悪かったって。
「ゾォロ、寄りによって迷子かよ」
迷子じゃねぇよ、馬鹿ネコ。
「生きて帰ったろ、」
返せば。
当たり前だ、とひどく連中が怒り始めた。
エレヴェータのドアが開き、そのちょうど同じタイミングで車道にクルマが止まった。
……黒のロールス。おれは「オルフェ」じゃねぇから、中に乗ってるのは「死の女王」ってわけでも無ぇか。
下らない連想だ、相当おれも参ってンのかね。
「来たな、」
歩き始める前に、ドアが開けられる。
やんわりと背中を押された。
覗く前からわかる。これだけ冷気出してりゃな、なかにいるのはおれの子守りに決まってる。
乗り込む前に、姿が見えた。
前を、じっと見据えたまま。彫像めいた静かさで座って、とんでもなく柔らかな声がした。
「ご無事で、」
音もなくドアが閉じられ、背もたれに身体が触れた瞬間にクルマが動き出した。
「いまのところはな、」
すう、と。ペルの唇が僅かに吊り上った。
それだけで、場の空気が冷え切っていくのがわかる。まったく、―――クマチャンも根性があるな。
ああ、それとも。
クマは乱視だったか…?
ひたり、と。眼差しが流れ会わせられた。
「術後の経過も順調だぜ?」
ひらり、と手を振ってみせる。
「それはなによりです」
穏やかな口調と滑らかな声が何より始末に悪い。
「ならば、概要をお話しましょう。起きてらっしゃいますか」
「だから。ちゃんと"正気"だよ、おれは」
「あぁ、それは失礼を」
―――――おい。いま、絶対おまえ。
目の底が光りやがったぞ。
コンコン、と扉を叩かれる音で目が覚めた。
「シンギン・キャット。朝だ」
「イエス、リトル・ベア…」
応えて、目を開ける。
カーテンの向こうから、明るい夏の太陽が透けて見えていた。
大きなベッド、隣は空っぽ。
……ゾロ。
寂しいんだぞー…。
思いっきりハグしたい。
キスしたい。
声聴きたい。
……うあー、…甘ったれ?
ゾロの胸のとこに、ぐりぐり、って頭突っ込んで。
ニオイ嗅ぎながら目覚めたいよう…。
うーーーーーーー。
もたもた、とベッドから起きて。
リネンを引っ張って直す。
クロゼットから服を出して着替える。
…朝、起きてすぐ着替えるのって…いつぶりだろう…。
手首、まだ淡く残る痣。
ちゅ、と軽く吸い上げて、淡い色を残す。
ゾーロ、早く帰ってきてよう…。
寂しいよう…。
溜め息、
ああ、オレってば…ほんと甘ったれ。
もうちょっと、シャキっとしたほうがいいのかなあ…?
ああ、でも無理。
とてもそんなこと、できないよう…。
もうひとつ溜め息。
着ていた寝巻き代わりのTシャツと半ズボンをたたんでベッドの上に置いて。
それからバスルームへと向かう。
ノック、応答なし。
入って一通り、洗顔などを済ませる。
長く伸びた髪も整えて。
鏡の中、少し哀しそうなヒトが居た。
自分。
…項垂れた野良猫みたいだ。
…みぁーう。
「…しっかりしろ、サンジ」
呟いて、ぱしぱしっと頬を叩く。
うー……あ、ほっぺたほんのり赤くなった。
…って何してンの自分?
バスルームを出てダイニングへ。
リカルドはすでにキッチンの手伝いをしていた。
時計を見る。
朝7時ちょっと前。
…そんなものを気にするのも久し振りだ。
「お。オハヨウ」
リカルドがにひゃ、と笑って。
「おはようございます、リカルド」
御挨拶。
「オレも手伝います」
「いいよ、それよりグレート・サンダー・フィッシュ起こして」
「あれ?起きてないんですか?」
「なにをいうか!!」
「あ、師匠。オハヨウゴザイマス」
師匠がばいん、とドアを開けて出てきた。
頭を下げる。
「わしはもう山を登ってきたわ」
「オハヨウゴザイマス」
にっこりとリカルドが笑った。
「別の楽しみを待ってるのかと思っていた」
…は?別の楽しみ?
きょとん、と瞬いたオレと。む、と頷いていた師匠から視線を逸らして。
リカルドがキッチンに入っていく。
「…別の楽しみ…?」
キッチンからは、コーヒーが沸き立つニオイと。
ベーコンエッグが焼かれる香ばしいニオイが漂ってきている。
師匠はつかつかと歩いて、テーブルのいつもの場所に着いた。
うううん、手伝い、いいのかなあ…?
「オオカミを起こす真似はせんで良い」
「―――――は?」
え?ゾロを起こす真似?
…って、キスして、齧って、抱きついて……って?
「わしは夜明け前には目覚めておる」
どうやら威張っているみたいだ、師匠。
「……師匠、山はどうでしたか?」
聴いてみる。
「同じ場所で祈りを捧げた」
ひたり、と視線が合わされた。
…師匠の日課ですもんね。
「スキディが迷い出てきた場所でもある」
うわ!それって――――――うわ。
ふわ、と自分でも笑ってしまったのが解る。
ゾロと初めて縁が繋がった場所だ。
「愚か者が聖地で蛇を撃ち殺しおっての、」
「あちゃあ…」
ゾロらしい、っていえばゾロらしいねえ…。
「わしが打ち据えてやったのよ、」
師匠がそう言っていた。
「キャット、」
「そんなことがあったんですか―――――知らなかったなァ」
はふん、と息を吐いてから師匠を見上げる。
師匠の目元が少しだけ笑っていた。
ふふ、と笑って師匠を見詰める。
「あの者は、わしがおまえに言って聞かせた者と変わってはおらぬ」
師匠が言って聞かせた――――一番最初に?
「殺すことを厭わぬ者でろうよ」
「ああ、そのこと。…彼は、狩る存在ですから」
それは仕方が無い。
「だがの、」
「ハイ?」
「別の噛み方も覚えたようじゃのう」
「別の噛み方…?」
わっはっはっは!と陽気に笑っている師匠を見詰める。
「あのう…他にどんな噛み方が?」
「リカルド!物陰で笑うでない、出てくるが良いぞ!」
師匠がドアに向かって呼び。
「あっはは!!失礼!」
リカルドが両手にポットやトーストの乗ったプレートを持って出てきた。
ううー…なんでリカルド、師匠の言ってる意味が解るんだろう…?
「ひとまず、テーブルのセット宜しくな」
「あ、ハイ」
プレートとカトラリーをそろえて出す。
――――――はぐらかされた、オレ?
「妙なところが生娘のままであるな、」
「そこがいいところでしょう」
ぼそ、と呟いた師匠に、リカルドがなにやら同意していた。
むう、と師匠頷いていたけれど。
「…あのう。生娘って、誰のこと…?」
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