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 『戻ってきた』ことは辛うじて成立、それも奇妙な言い方だが。
 知覚でもなければ認識でもなく、やはり『成立』それが一番近い気がした。戻る、という行為に付随する感情までは
 未到達ではあっても。
 
 意識の底が、不愉快だと告げてくる。
 泣いているバカがいる。
 そもそもそれすら気に食わない。
 泣かせている原因が自分であれ、なんであれ。
 サンジが泣く、それが既に「アウト」だ。不愉快でしかない。
 
 笑い顔を作らせてやれない自分が役不足、それも承知だ。なにしろ、コレはただのコドモだ、それもバカなガキ、
 そんなことも先刻承知だ。
 泣き止め、とは言えない。原因は自分だから。ただ、慰める術、それを齎すにはまだ。
 感情がフラットに過ぎる。
 
 強張った背が、切れ切れの吐息に震え。
 泣き止もうとバカネコが精一杯であるのを感じる。
 無駄だと思うけどな?
 
 きつく、コドモの力加減でまわされていた腕から少しずつ力が抜けていく。
 そのまま、ウッドのフロアにへたり込みでもするかと思う覚束なさで。
 ソファのクッションごと、滑っていくことくらいしてみせそうだ。
 
 嗚咽が止まない。
 波打つような背中を撫で下ろした。
 喉奥で空気が取り込まれ損ねて息の抜ける音が「痛々しい」。
 蒼は固く閉ざされたままで、呼吸をマトモなリズム近づけようとしてでもいるようで。
 
 「どれくらい泣いていた、」
 声が冷えるのは放っておいた。
 「…わ、か…んな、」
 さら、と指に絡む髪が柔らかいまま、わずかに砂の触れる感触もあわせて伝えてくる。
 わらって、砂ネコだ、と言っていたのは何時だったか。
 
 あのころと、いまと。
 想いのなにが変わったか、といえば。
 やわらかなタマシイにでも、爪が傷を付けていったんだろう。おそらく。
 ―――そして。
 どうせ、その手はオレノモノなのだろう。
 
 自嘲混じり、オマエに宣言した通りだなまさに。
 『引き摺り下ろす、』。
 
 泣き濡れた蒼がゆっくりとひろがっていくのを見つめた。
 眼差しが絡み合わずに、そのまま交差する。
 喉奥で裏返っていた音も、やがて収まり始め。
 捕まえてから、あるいは、逃げ出す前からも零れ続けてたに違いない涙がサンジの頬からようやく乾きはじめていた。
 
 「冷やせ、」
 火照ったままの目元を指先で辿った見せた。
 「腫れるぞ」
 ゾロ、と酷く小さな声が名を綴っていたが。
 蒼が微かに揺らいで。
 「―――うん、」
 俯くように返事していた。
 
 冴えたままの声を取り繕う気もなく。けれどそれはおれが「自分に」不快になっているだけのことでも。
 サンジにとってはまた別の意味を引き出すのだろうと。
 ゆっくりと立ち上がろうとするサンジの腕を引き止めるか否か、一瞬迷い。
 腕を緩めた。
 
 そのまま立ち上がろうとするのを、肩を抑えてまたクッションに落とし込み。
 「転ぶぞ、おまえ」
 言い残して立ち上がった。
 
 何日も留守にしていた割には荒れた気配のないこの場所は、誰かが手を入れたとわかり。
 それは行き先を見出した奴に違いないことも知っていた。
 ならば、どうせあの優秀なヤツのすることだからフリッジに氷くらいあるだろう。
 
 クロスと、氷。
 そんなものを用意し、タバコに火を点けた。
 目線を上げれば、また蒼とぶつかり。ネコの仔じみた目つきは健在だな、と微かに笑う。
 
 「前も―――」
 こんなことなかったか、と言葉に乗せかけ。
 不意に立ち上がったサンジに続きを遮られた。
 不器用にまわされる腕、降ろした目線のすぐ下に光を弾く金色。
 ぐう、と腕が力をこめてくるのが背中越しに伝わる。
 
 「バカネコ、歩けねぇぞ」
 「―――だ、め」
 クロスに包んだ氷で頭を軽く小突き。
 布地に包まれたそれが軋んだ音を立てていた。
 「離せない、」
 聞きとれないほどの呟きが聞こえる。
 
 「ダメだね」
 「ヤダ」
 引き剥がし。
 シンクの脇に座らせる。
 しがみつくネコを引き剥がすのと同じ程度には苦労した。
 
 右手にクロスを持ち、サンジの目元にあてがい。空いた手でタバコを口元に持っていった。
 離れていた間に、何を想っていたのかは知らないが。
 バカネコは、やはりどうしようもなくバカだったに違いない。
 頬の線が殺ぎ落とされて、元々細かった首から肩にかけて流れる線がいまじゃあ尖っている始末だ。あの聖域で
 気付いた頃より、あぁ、このバカは。10ポンドは体重を落としたんじゃないか?
 
 煙を長く吐き。
 ぐい、とクロスを目元にまた押し当てた。
 「聞き流せよ、」
 短く言葉にする。
 「ぅん、」
 
 サンジが何かに拘っているのはわかる。それが「何」であるのかは漠然と見当がつくだけに始末が悪い。
 神経が苛立つ。
 何を躊躇うことがあるんだろうな?オマエは。「良きもの」であるのに。
 微かに頷く様子に、また小さな苛立ちが引き起こされかけ無視した。
 
 「血縁者を殺めることで片が付いた、」
 従兄だよ、と付け足す。
 サンジの身体が僅かに動いたが、静かなままでいた。
 「他にも、何人か。古い連中と、伸し上ろうとしていた若い奴ら、全部がいなくなった」
 さらさらと言葉が流れていく。
 サンジの意識が静かに、それでも研ぎ澄まされていくのが「わかった」。
 「おれと、おれのハンタァは生き残った。ただの、ルーティーンだ」
 続ける。
 「片が付いたから、迎えに戻った」
 
 ただ、と付け足す。
 「何もかもが、以前と同じかといえば違う」
 く、と。サンジが唇を噛んでいた。
 「目の前に、おれの望むものがあってそれを手に入れる最善の方法は茶番を仕組むことだったから、それを選んだまで。
 ただ、オマエがそれを許せないというなら、」
 言葉を切り、目元からクロスを取り去る。
 
 目を閉じたまま、首を横に振り、
 「そうじゃない、」
 サンジが掠れかけた声を押し出していた。
 「サンジ、」
 宥める声とも違う、これは、あぁ、おれはこいつを甘やかしたいのか。
 
 「―――ゾロが、最善だと思う道なら、それでいいんだ、」
 「違うな、」
 唇が勝手に吊り上る。
 「…違うの、」
 「あぁ。オマエの意見など聞かないさ」
 
 くす、と。
 僅かにサンジの唇から笑い声の切れ端が覗き。
 「例え、許さないと喚いても黙らせて喰っちまうから、関係ナイ」
 「解ってる、それは。それは―――最初から、それでいいって、オレ言った」
 
 「オレはね、ゾロ、」
 酷く小さな声がどうにか空気を揺らしていった。
 「解ってるって言ったのに。それでいいって決めたのに。―――揺らいじゃうオレ自身が…ナサケナクテ、嫌いなんだ」
 そんな自分を、おれの前に出すのが嫌なのだと、そう続けていた。
 「―――だから?」
 細い頤を捕まえて上向けさせた。
 「たったこれだけの期間を、アナタを信じるだけではダメだった自分が嫌いなんだ―――でも、だから、」
 「どうしたいんだ?」
 「―――わからない。アナタを離したくない、と喚いてもしょうがないし。アナタと離れたくない、と泣き叫んでもどうにもならない」
 蒼があわせられる。
 「ただ狂ったみたいに、アナタを愛してる」
 
 くう、と。蒼の表面が揺らぎ。
 「だからこそ、離れていても平気でいられるように在りたいのに―――そうなれないのが悔しい、」
 眦から、また涙が伝い落ちた。
 「ちっとも平気じゃない、アナタがいないとオレは―――寂しくて、胸が潰れそうになる。こんなんじゃ、ダメなのに、」
 揺らいだ声がそれでも必死に伝えてき。
 「アナタを愛してるってことしか、わからなくなるんだ、」
 ぱつり、と。涙が空間を滑って、落ちていった。
 「アナタのものになるということの意味を、理解した今でも。世界を引き換えにしてでも、アナタが欲しいよ」
 
 「―――それで?」
 サンジは大バカだ、と何度目かの嘆息。
 「それで、"天使チャン"なオマエはそんな厄介なモンを抱えて、ふわふわわらって居られるとでも思ったか?」
 バカヤロウだな、ほんとうに、と付け足した。
 「忘れたか?おれは"マリア"も"天使"もいらねェんだよ」
 
 だから、とシンクにクロスを氷ごと投げ捨てた。
 「そういったモンになりたけりゃ、他所でしろ、おれは要らない。むしろ捨てるぞたとえオマエでも」
 ぱしり、と空っぽかと思える金色を手で払った。
 「泣き喚けばいいだろう?欲しいなら欲しい、嫌なら嫌。おまえ野生児だろうが」
 首を横に振り。手を伸ばそうとしてきたサンジの腕を捕まえて、シンクの縁に着けさせる。
 「せめて、ヒトに近付いて良かったじゃねぇかよ?」
 「ぅ、っく」
 
 「バカサンジ、おれはオマエの兄キと違って、オマエが天使だなんて思っていねェよ」
 「…ゾ、ロォッ」
 「ただの、"オマエ"だろ?サンジ」
 声を無理に振り絞るバカをいっそのこと水風呂にでも放り込んじまうかと思う。
 「おれの餌、美味しくなれよ、仔猫チャン」
 からかい混じりに告げる。
 「っとに、バカだな、オマエ」
 
 シンクに置き去りに居間へ戻った。
 「さ、みしか、たんだよぉ、」
 キッチンから叫び声がする。
 「ア?聞こえねぇよ」
 「あ、いたかったんだよおっ、」
 「じゃあ、なんでオマエはそんなとこで叫んでるンだよ」
 バカネコここに極まれりだな、と言えば。
 とん、と何かがフロアに落ちる音がし、軽い足音が続き。
 黄色と白の塊が飛び掛ってきてた。抱きしめる。
 「す、きな、んだよぉっ、」
 「なに遠慮してたンだかな、バカが」
 
 大泣き、まさにそれを目の前で見た。
 うわん、と大口を開けて泣くネコの子、まるっきりそれの再現じみて。
 立てる爪の無いかわりに、手指が背中に縋ってくるのを感じ。
 自覚する。
 この者の在るために、自分が在ると。
 
 多少厄介なのは仕方がないか。なにしろおれが初恋らしい。
 それに、おれも。
 自慢じゃないが、優しくねぇしな―――?
 精々こんなモンだ、バカネコ。
 それでも、おれも。おまえを手放そうとは思わない。おまえを好きだよ。
 
 あぁ、オマエなにしてるンだよ、不器用だな救いようが無い。
 ボタンも外せないのかよ、修行しろ。シャーマンになるより先に服の脱ぎ方。
 そんな軽口を零せば。
 バカネコが噛み付くようにキスして寄越した。
 
 
 
 
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