扉をノックする前に。
ソレが内側に開かれた。例の男が立っていた。久しぶりに誰かを見上げた気がする。
体躯からは想像のつかない滑らかさで脇にそれ。通れ、と合図された。
室内はサンジの仮住まいより多少は広めだったが。何よりも違っていたのは家具。
いっさいが木製で、その全てがシェーカーの博物館にでもありそうなシロモノ。
スミソニアンか?とにかく、古かった。
また、扉をそっと閉じた男に向き直った。
とりあえず右手を差し出す。おれはあんたに敵意はないぞ、との仕種。
「邪魔をする、」
「構わん。シンギン・キャットの連れだ」
おれもあんたに敵意は無いぞ、とばかりに。握手は成立した。
常識の通じる男で助かったぜ。じじいとはえらい違いだ。
座れ、と大振りな木の卓を示し。自分もそちらに進んで行っていた。
「狼。腹は空いているか?」
「おれは、ゾロ、だ」
「狼と呼ばれるのは嫌か?」
にぃ、と男が笑った。思いがけず人好きのする顔になる。
「あまり嬉しいものじゃないな」
重い木のイスを引いた。
「そうか。本性を指摘されるのは、辛いものがあるか」
掌に馴染む木の感触に気をやるヒマもなく。耳に音が入り込んできた。
からかう口調だ、これは。フン。
眼を向ければそれでも。目許はかすかに笑みの影があった。
「アア、暑いところだと死ぬそうだな」
「要はバランスの問題だな」
エサがなくて死ぬんだったか?うろ覚えだな、いつだったかのサンジの言葉だ。
「バランスか、」
「暑すぎても寒すぎても。死ぬ時は死ぬ」
「ああ、死ぬな」
同感だ。
「で、食うか?」
「子羊を一匹」
「ははは!生憎、今はリブ1本しか無いぞ」
笑いながら。それよりはなにか飲むものをくれと言った。
「酒を呑むか?」
ランチにはまだ少しばかり早い。
「―――いや、いまはいい。」
「なら、コーヒーを」
かさり、と胸のポケットで「手紙」が鳴った。
立ち上がると男はどうやらキッチンへ向かったらしい。
かさ、こそ。
布地と紙が擦れる音が。ずっと気になっていた。
引き出す。
丁寧に畳まれたノートパッド。切れ端。
きちんとした、書体。
ああ、クソ。おれの字だ。まだガキの頃の。
ぞくり、と。肌が粟立った。
「ぼくへ。」
ゆっくりと、黄色地に赤のラインの入った紙を開いていった。
アナタはきっとぼくをわすれているでしょう?
1行目、記されていた。日付は、6月9日。
ディールの日から、3日後だ。
先を目で追っていった。そして、時間を忘れた。
場所も忘れた。音も、空気も。
全てが希薄になり。
微かに、金属のプレートが震えるような音だけが聞こえていた。
きん、と冴えた。それでも羽音よりも微かな。
4枚目まで、紙を捲り。
端正なスケッチが最後だった。キャニオンか何処かの、川辺。
右隅に6月9日の日付と、筆記体のサイン。
Jean de C、偽名だ。
眼を閉じた。
鼓動が、常より速く打つ。
サウスハンプトン、馬、ヨット。
小船、バスケットボール、ダンクシュートと、いくつものオールディーズ、
クラスのガールフレンド、ビーチのオンナノコ、ジェットコースター。
自分の喉が上下したのがわかった。
ひた、と。
記憶の中で。
何かが止まった。
「ゾォロ、おまえ、おっせえよ。」
声が、した。
おれは、この声を知っている。
エース、あんたか。
「オニイサンは待ちくたびれちゃったよう」
記憶の中の亡霊にしては、随分と陽気なもんだ。
耳に馴染んだ笑い声が響いた。おれのなかで。
「おれのことは忘れても約束は守ってんじゃないか、カンシンだぜ」
ずっと、閉じ込めていた記憶の欠片が。形を取った。
白昼夢か?
眼を閉じたままでも、紛れも無い雀斑の散った笑い顔が卓の向かいに「いる」のが「みえた」。
ユリで埋め尽くされた教会、香りで溢れていた。
ああ、おれが。……ユリの花の匂いをつけるオンナを遠ざけていたのはそういうわけか。
飛行機が嫌いなのも。
ドナレッティの組織が欲しいのも。
亡霊は、笑みを貼り付けてイスを鳴らしていた。きい、と。
あんたが、おれの前から突然いなくなって。
おれは初めて恐怖した。
叔父がいなくなった時より、母親が出て行ったときよりも。
拠り所が無くなったと思った。
理不尽な暴力、それがあんたを連れて行ったと。
だれかが言っていた。
あんたは優しすぎたんだ、と。
だけどおれは、ほんとうに。あんたのことが大好きだったんだ。
きい、とイスが鳴った。
「ふうん、」
歌うような口調。
「だけどさぁ、ちび。オマエ、おれのこと殺したろう?」
オレノコト、コロシタロウ?
うん、殺した。
耐えられなかった、だから殺した。おれの記憶から。
「けどなぁ、オマエ。バッカだからねぇ、自分のことも殺しちまったねェ」
くくく、と。上機嫌な笑い声だ。
「オマエのアタマの中には。いったい幾つ死体が埋まっているんだろうな?ゾォロ」
「ぜんぶ呼び出してみるか?賑やかだろうねぇ」
きい、と木が鳴る。
「なあ、ちび。」
声が。近かった。
「おれはな、オマエのことをさ?こっちのビジネスから連れ出してやりたかったンだぜ?それがバレテさぁ、」
くすくすくす、と笑っていた。
「オマエのパパにヤラレチャッタんだよねぇ」
―――嘘だ。
「嘘じゃなァいよ」
おまえはただの幻覚だ。
「ひでえなぁ、ちび」
すう、と声が低くなった。
「おれが。おまえに嘘を言ったことが一度でもあったかよ?ゾロ。」
「狼。惑わされるな」
声が。
聞こえた。音が、戻ってきた。かちゃり、とコーヒーが卓に置かれた。
おれは、眼を―――あけていたのか?
じい、と。
おれを呼んだ男が見ていた。
「亡霊は、いつも真実を語るとは限らない」
瞬きをした。
「あれは、おれの―――」
「オマエが観ているモノは、オマエの中にあるモノだ」
「おれの、世界だったモノの姿をしていて、」
「当たり前だろう?オマエの中にあるものだと言った。それはすなわち、記憶、だ」
「長い間、忘れていた。どれだけおれが―――」
愛情を覚えていたか。
「…狼。オレを見ろ」
声にまた、引き戻された。
顔を無理矢理に上げる。ちょうど、エースの座っていた場所へ。
「記憶は、必要なことしか留めない。そして、必要な事は、自ら作り上げる事もある」
じいっと見詰めながら。低い声が言葉を綴っていった。
「幻などではなかった、」
「真実を欲すならば、どちらの世界に流される事無く、中心を見ろ。言っただろう、要はバランスだ、と」
「亡霊は嘘ではない。が、真実でもない。この世界がそうであるように」
けれど、アレは。
「見極める目を持て、狼。亡霊は、オマエにとって、害を成す存在だったのか?」
「言っただろう、世界だった、と。すきだったんだよ。無くすのが耐えられないほど、すきだったんだ」
「この亡霊が何を語ったのか、オレにはわからん。が、一つ解ることがある」
眼窩の奥が。酷く痛んだ。
「オマエの心が、その存在を消したのは、必要があってのことだ」
ぽろりと。勝手に何かが眼から零れた。
「―――殺したんだ、」
「思い出したのなら、中途半端に思い出すな。総てを思い出せ。そして、必要なことは受け止めろ。
必要なところは疑え。真実を見極めろ、時間をかけて、な」
時間。
10年を越える時間と、これからの何週間か。
「あんたは、」
「焦ることはない。必要なだけ使え。どれくらいかけるのかは、オマエが決めることだが、いますぐ結論を出すのは早いぞ」
「あんたには、アレが見えたか」
「見えた。亡霊だな」
肩を竦めていた。
ああ、戻ってきていたのか。エース。あんた。
「オレには、ただの亡霊だ。他と変わらぬ、な」
「あんたには、どんな様子に見えた、」
向かいを見詰めた。
「じいっと見守っていたぞ、オマエを」
「―――そうか。」
眼を閉じた。
「怒ることなく、笑うことなく。ただの亡霊、ただの存在の名残、だ」
「笑っていたのに、」
「オマエの眼には、な」
それはおれの願望か。
殺したものに許しを乞うか。―――おれが。
「それはオマエを責めたか?」
「いや。待たせるな、と笑っていた。そして、自分を殺したなと」
「フン。笑っていた、か。いかにも亡霊らしいな」
「……らしい、とは」
どういうことだ、と問うた。
「ゾロ。そのオトコは、オマエに何を求めた?今、生きていたとしたら、何を求める?」
考えろ、本当にその亡霊はオマエが知る者だったのかを、と。低い声が続けた。
「あれは。……エースは」
眼を開けた。
「おれと約束をした。その成就を願うだろう」
「なら。オマエが交わした約束を信じろ。他に惑わされるな」
いい加減でままならない世界でも。勝ちに行きたいよな?そう笑っていた。最後の日。
ああ、思い出すよ、あなたのことを。
「ああ、ありがとう」
アレが、あなたのはずが無い。
それでも。突然に溢れた記憶は。
おれを取り込む。
知らず、握り締めていた手紙を。胸に戻した。
「真実は、いつも一つとは限らない。が、信じることを恐れるな。疑う事を厭うな。
多くを見る眼を養え。世界は広く、深く、そして寛容だ」
言葉を受けて。
それが真実であればどれほど良いだろうかと思った。
世界は広く、深く、そして。
その先を。おれは信じられない。
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