ゾロが、ふう、と溜め息を吐いた。
諦めの、とか。悲しみの、とか。
そういう類のものではなくて。
どこか、ふ、と何かに気付いた時の、どうしてそれがそうなってるんだろう、と考え込むような。
ゾロは、神を信じないけれど。
こういった時に、そういう存在を信じていれば。納得はいかないまでも、心を落ち着けることができると思う。
運命。
神の作為。
精霊の導き。
それをなんと呼ぼうと。
自分という存在では成し遂げなかったことを、目の前で手渡される不思議。
オレはゾロと出逢った。
世界中で、他の誰でもなく。
偶然かもしれないし。必然なのかもしれない。
それを決めるのは、オレとゾロであって。
上位の存在でもなければ、周囲の人間でもない。

沢山の繋がった糸。
オレとゾロとを結ぶのは、短く切れやすい物なのか、長く丈夫な物なのか、それはまだわからないけれど。
オレはゾロと共に在りたいと願うから。
先は見えないけれど、今ゾロの手を離したくないと思うから。
ゾロがオレと一緒にいて、少しでも安らげるのなら。
それだけでも、構わないと思う。
ゾロが何であるか、とか。ゾロを取り巻くものが何であるか、とか。
そういうものには、惑わされたくない。
オレが、ゾロと共に在りたいと、願う。
それが、もっとも重要なこと。

きぃ、と木が鳴いて、耳慣れた足音が聴こえてきた。
師匠が入ってきたようだ。
そしてまっすぐ、こちらに向かってきた。
眼を閉じて、ゾロの頭に口付けてから、ゆっくりと身体を離した。
ゾロが静かに顔を上げて。
オレはゾロの膝から降りる。手は、離したくなくて。
ゾロの背中に、預けたままだ。

「シンギン・キャット、」
「はい」
師匠に向き直った。
「語りはしなかっったであろうな?」
「はい」
静かな師匠の声。
頷いた。
そうか、あれは悪しき物であったからな。そう師匠の声が続いた。
頷いた。
そう、あれは紛い物。
本物は、もっとずっと優しい。そして、もっと稀薄だ。

「よく惑わされなかったな、」
師匠の目が、ゾロに向けられた。
穏やかな、声。
「アレは、惑わす物だ。最上のものの姿を偽り毒を吐く」
淡々と、師匠の声が続く。
「じーさん、」
ゾロの声、乾いている。朝一で遣り合っていた時の、感情の濃さはない。

「偽りの姿でも、言葉はどうなんだ」
ゾロの背中を撫でた。一度だけ、ゆっくりと。
「わしの弟子がオマエに述べたはずだ。」
リトル・ベアの方向に視線を向けた。
カレはいつものように、こちらには注意を払わず。アミュレットを作っていた。
ゾロに視線を戻すと、眉間に皺が寄っていた。
リトル・ベア。ゾロに何を伝えたんだろう?

「すべてが偽りでは、誘惑者とはいえぬわ」
師匠が、苦笑を声に滲ませた。
真実と、虚を紡ぐゆえの、惑わすものだ。
師匠の声が、そう続けた。

「なるほど。アレの言葉は呪いのようなモノか」
とても冷え切った、ゾロの声が響いた。
初めて聴く声だ。
おれの殺したものたちが、おれに追いついたんだな。
ゾロが、そう続けて。掌を、じっと見詰めた。
「左様。」
師匠が頷いた。

「生き方を変えるつもりは無い」
感情が失せた、ゾロの声。
胸に痛い。
けれど、それはオレがどうこう言えることじゃないから。
ゾロのその決断を、心で受け止める。
それが、ゾロの成すべきことなら。
「諌める気も失せるな、愚か者が」
一言一言、歯の間から言葉を押し出すように。師匠が言葉を紡いだ。

「サンダー・フィッシュ、安心しろ」
ゾロの声、ふい、と穏やかなものに変わった。
「おれへの呪詛などに。アレを巻き込むつもりは無い」
師匠が、フン、と鼻を鳴らした。
アレって、なんのことだろう。…もしかして、オレのことかなぁ?
ゾロを見た。

「強情なモノだぞ?」
師匠の声が、念を押すように問う。
ゾロの頬に、薄い笑みが刻まれた。
「もとより、承知だよ」
ゾロの声、迷いの一片も無い。
「あんたの許しなど、最初から乞う気もねェけどな」
に、と牙が覗いて。
ゾロが、いつもの不敵な笑みを浮べた。…少し、元気が足りないけれど。
「決めおったか」
応えた師匠、少し渋い顔をしている。
…二人だけで通じ合ってるって、…なんだかズルイぞう?
結局、仲がいいってことなのかなぁ。

「ああ。おれはいずれ、抱くぞ?ザマア見ろ」
んん?…それってどういう意味だろう?
んん、と思った瞬間。
師匠のパイプが、ぱかあ!!と小気味良い音を立てて、ゾロの頭を叩いた。
ゾロも、そうそうやられっぱなしでいる気はないのか、少し避けて、直接のダメージは受けなかったらしい。

「サンダー・フィッシュ師匠」
リトル・ベアが、低い声を響かせた。特に大きな声ってわけでもないのに、よく響く。
…肺活量と、呼吸法の問題かなぁ。
「殴る前に、歴史を思い出してください」
呆れたような口調。…大切にしてくださいよ、って言ってるのか。
兄弟子に気を取られていたら、ゾロに手首を掴まえられた。
掌に、やわらかな感触。
ついで、熱く濡れたものが当てられた。

「…ッ」
ぞくり、と肌が粟立つ。
「ゾ、ロ?」
翠の瞳、覗き込んだ。
大好きなコロラドの木々を思わすソレが、すう、と細められ。
ゾロの舌が、また掌を這っていった。

「…ン…」
腹膜の辺りが、ジンと震えた。
師匠の溜め息が、耳に届く。
オレが困った顔をしていたのだろう。
ちゅ、と音を立ててキスをしてから、手首がそうっと放された。
掴まれていたところ、まだ熱がある気がする。
濡れた場所が乾いていくのを、敏感になった肌が感覚に訴える。

「狼」
リトル・ベアがゾロを呼んだ。
ゾロが、す、と立ち上がった。
リトル・ベアが、テーブルから手招きした。
ゾロが彼のそばに歩いていき。
オレはなぜか張り詰めていた息を、そうっと吐き出した。
師匠にちらりと視線を向けると。オレを見て、やれやれ、と首を振った。
リトル・ベアに視線を戻す。ゾロに何かを手渡している。

「これは―――?」
ターコイズの石の付いたブレスレット。そして、ドリーム・キャッチャー。
「贈り物だ」
ゾロが、ドリームキャッチャーを目の高さまで持ち上げて。
「これは何のためのものだ?」
リトル・ベアに訊ねていた。
「吊るして、その下で寝るといい。良い夢をおまえに届け、悪い夢を絡めとってくれる」
「ありがとう、」

「悪い夢は、朝日に清められ、消える」
リトル・ベアが笑った。
けどな?とゾロが悪戯めいた表情を浮べた。
金のネコを抱いて寝れば、もっとイイ夢が見られる。
そんなことを言っていた。
リトル・ベアが、小さく肩を竦めた。
「それくらい、欲張ってもバチは当たらん」
「ハハ!!」
ゾロが、大きな声を出して笑った。
リトル・ベア。
…やっぱり偉大だ。

師匠は横で、のけ者扱いされたような顔をして佇んでいた。
「…師匠」
はぎゅう、と抱きついた。
「むう」
「兄弟子の偉大さを、再確認しました。やはり師匠の直弟子はすごいなぁ」
そして、師匠もすごいヒトだ。
きっと、ゾロとあそこまで渡り合えるのは、師匠だけだろう。なんとなく、そう思う。
「おまえは。アレを好いておるのか」
オレの腕の中から、師匠はゾロをぎろと睨んだ。

「はい」
ぎゅう、と抱きしめた。
「師匠も、好いてらっしゃるのでしょう?」
絶対に、嫌いじゃないはずだ。
「迷いオオカミに情けをかけたのが間違いであったな」
「オレは、師匠に、感謝してます。チャンスをくださいまして、ありがとうございました」
本当に、本当に。
師匠がゾロを助けてくれなければ、きっと会えないで、終わってしまった気がする。
ワラパイ語に切り替えた師匠に、同じ様に言葉を切り替える用意をする。

「ならばおまえが。あの者を水辺に導いてやるがよかろう。」
水辺。
それは、聖なる場所。ハバス付近では、特に。
「…ありがとうございます」
心をこめて、感謝をした。
許可を、貰った。
あの滝へ行くことを。
じーん、と何かが湧き上がってきて。
顔が勝手ににこにこになった。それでも嬉しいのが止まらなくて。
師匠にウチュウウとキスをした。

「早く戻りたいという顔だな、それは」
皺皺の頬。それでもまだ張りのある皮膚。
離れなさい、といかめしい顔をしているけど。
「師匠には、隠し事はしません」
スリスリと頬を摺り寄せた。師匠〜、大好きです〜!!
「シンギン・キャット、」
にゃあ。

「うあ、はい?」
ノドを鳴らしている場合じゃなかった。なんでしょうか、師匠?
「初床の報告はせんでいいぞ」
「…は?」
初…なんですか、それは?っていうか。もう一緒に寝てますけど?
「わからぬか、」
にかり、と笑った師匠。
「わかりません」
んん?

「リトル・ベア!」
最近、自分の語彙と、世間のソレに、多大なるズレがあることを感じ始めたぞ?
ヤバいなぁ、勉強不足?
「なんですか?」
ゾロと穏やかに談笑していた兄弟子が、ゆったりと立ち上がって、こちらにやってきた。
「わしはそこのオオカミが少し哀れになってきたわい。おまえの弟弟子に初床の意味を教えてやれ」
慌てて、腕の中の師匠を放した。
「師匠、冗談はよしてください」
「冗談ではない。」
リトル・ベアがにっこりと笑った。
「そんな楽しみ、おれが奪うわけないでしょう?」

「わしは現世風の言い方を知らぬからなあ」
「師匠、おれは弟弟子がかわいいですからね?そんな勿体無いことは、しません」
更に、にっこりと笑った。
…はい?よく意味わかりません、オレ?
「狼は、少しそういったことで、頭を悩ましたほうがいいんです」
「ふむ。」

「まことに知らぬか、シンギン・キャット」
「…うーん、オレは教わったことないなぁ?」
あ、しまった。ありません、じゃないか。
「師匠、急かす必要はありません」
我々は所詮ドウブツですから。時がことを運びます。
淡々と、リトル・ベアが言った。
遠く、テーブルの向こうから。
ゾロが、"聖性の喪失"ってヤツだよ、ベイビィ、って言ってきた。
…聖性?…どの神の?

「そうであった。この国の言葉ではそうであったな。ばぁじにてぃ、だったか」
殺し、姦通、嘘、裏切り。なんだろう、って考えてたら。
耳に届いた、師匠の言葉。
Virginity.
処女性。

ゾロがゲラゲラと笑い出した。
処女性…いや、オレもオトコなんだけど?
「…あのー…オレ、オンナノコといたしちゃったこと、あるんですけど…?」
フェリシア、スージー、マーガレット…。
…そりゃーみんな、オレが押し切られちゃったけどさ?
…こういうことは、申告制だったのか?

「オオカミよ。道は遠いの」
師匠がパイプ片手に、テーブルの方へ歩いていった。
リトル・ベアがそれに続く。
…オレは独り、取り残された形だ。
ずるいぞ、三人だけで、解り合ってるなんて!!!
リトル・ベアが笑った。
「昼は、食べて行け。時間はかけぬ」

ゾロが、こいこいって手招きした。
…ゾロの膝の上、ぽんぽん、ってしてる。
むむぅ…なんでいきなり仲がいいんだ!?
いや、喜ばしいことなんだけど。納得いかないぞ!みゅー。

リトル・ベアがちらりと視線を投げかけてきた。
キッチンに消える前に。面白がるような、そんな視線。
むう。なんなんだ?
世の中はオレの知らない単語が多すぎる!
そんなものは、通信教育では習わなかったぞ!
ずるいなぁ、なんでみんな知ってるんだろう?




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