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 夜明けまで待った。
 慣れない道以前の問題で。暗い中では方向の見当どころか、目印さえわからない。
 薄い壁を通して、ふと耳が拾ったのは。明らかに、蕩けかけた喘ぎ。
 押し殺したようなそれは。宥めていた神経を逆撫でた。
 まんじりともせずに、夜明けを待った。外で。
 冷え切った手はロクにライターも点けられない有様で笑った。
 冷気に頭が冴えていき、神経も収まった頃に。
 稜線が赤くなってきた。
 
 レジデンスでペルに連絡を入れ。レークハヴァス、という名をインプットされた。
 どこか、聞き覚えの在るソレ。辿ったことのある気のするルート。
 アクセルを踏み付け限界までスピードを上げようとした時、ふいに会話が甦った。
 砂で道路は滑りやすいんだ、と。
 
 ああ、大丈夫だよ。おれは目の前に飛び出てきたなら避けない。
 アクセルを踏みつけた。ハイウェイに乗り、速度を緩め。それでも、適度な大きさの街には予想以上に早く着いた。
 銀行へ入る前にカオを作る。不慮の事故に巻き込まれて、いっさいの私物を無くした男の。
 行員はアア、御気の毒に。けれどご無事でなによりでしたね、と。
 頼みもしていないのに新しいキャッシュカードと。告げただけの現金を別室で渡して寄越した。
 ご親切に、どうもありがとう。そう笑みを返して、部屋をでた。
 
 昼前の街中は。陽射しがきつく照り返していた。
 この程度の大きさの街は。繁華街などたかがしれている。センターからナンブロックかはいればすぐだろう。
 オンナの指定するだろう安宿はゴメンだった。
 ペルは、デンワの向こうであきれた声を出してやがったが。
 おれでも眠れそうな部屋を取れ、と言ったならば。耳慣れた名前を告げていた。手配しておきます、と言って。
 優秀な子守りだな、と返せば。
 得意のラテン語だか何語だかで呪詛の言葉が返ってきた、らしい。
 笑ってデンワを切ったのは、何時間か前だ。
 
 そして、いま。
 ブルネットのオンナがその部屋にいる。長い髪が自慢らしいが。
 おれはブロンド以外なら何でもイイんだ。
 薄い、アイスブルーの瞳がオマエのウリらしいが。
 悪いな?ちょっとそれは隠させてもらうぞ。
 
 オンナが、くすりと笑った。
 「目隠しするの?」
 「アア、」
 「アタシの自慢なのに」
 「見えなくても十分だ、」
 にぃ、と。オンナの唇が赤い三日月を模った。
 引き寄せた。胸にあたる柔らかな肉の重み。
 髪を梳き上げ、項に歯を立てた。オンナの声が喉の奥でくぐもった。
 「なぁ、布。外れないようにしておけよ……?」
 笑いながら頷いたオンナの腕が、背に回されるのを感じていた。
 
 きしり、とベッドが音を立てるのと、オンナが下肢を露わにするのはほとんど同時で。
 頭を抱き、髪を撫でる振りをしながら。結び目をさらにきつくした。
 なにしろ、アンタは。夜までもう視界がないんだぜ?
 カワイソウニな。
 黒髪を撫でた。
 じゃあせいぜい、愉しもうか……?
 
 
 
 ふ、と気付いた。
 夢は、見なかった。
 熱くなってて。少し、気持ち悪かった。
 毛布は床に落ちていた。
 額、汗が出ていて。
 水分、そういえば、昨日から足りてないや、と考えて、冷蔵庫を覗きに行った。
 夜、ゾロは待たなくていいって言った。
 とても、食べる気にはなれない。冷蔵庫から、ミネラルウォータを出して、思う存分飲んだ。
 時間。…1時近くだ。
 溜め息。
 
 ふ、と壁を見上げて。
 ジョーンの描いた絵がピンナップされていた。
 …何時の間に描いたんだろう。
 ディア・ジョーンと出かけた最後の日、行った川辺のスケッチ。
 …ジョーン。
 オレ、アナタをとてもスキだし。
 多分、愛してると思う。
 だけど。
 …ゾロに、感じるのは。ゾロに…想う気持ちは。
 
 酷く餓えたような、ドウブツじみた想い。
 身体が、餓えている。
 心が、渇いている。
 ほしくて。ゾロが、ほしくて。
 …どうすればいいのか、なんて解らない。
 どうしたいのか、は、わかるけれど。
 最善の選択なんか…できない。
 そんなものがあるのかどうかも、解らない。
 ただ。
 オレは、ゾロに満たされたいと願っている。
 全部。
 
 うん。
 ゾロは、人だ。レッドやティンバーらとは違う。
 ゾロは、とても狼のようだけれど。
 ゾロは、オレに餓えない。レッドやティンバーが抱えてたような餓えは。
 オレは、ゾロに食われたい。
 全部。指先、爪、髪の一本一本まで。
 だけど。
 食うってことが、違うと思う。
 狼たちに食われたいのは、彼らの血や肉となって、彼らが永らえるのを助けたいがためだ。
 食物連鎖のどこかに入るのなら、オレは馴染んだ彼らの一部になりたいと、本気で願っていた。
 
 けれど、ゾロには。
 オレは、食われて。
 そして、できれば。
 ゾロの腹ではなく、心を満たすものになりたいと願っている。
 ゾロが…安心して眠れるように。
 呪うものたちに負けることのないよう。
 ゾロに降りかかるかもしれない、厄災。
 職業…結局何かわからないけど。
 人を殺すのなら。
 それはそれで…世界の歯車のひとつなのだから、疎んだって否定したって、どうしようもないこと。
 因果応報。
 もし、殺す罪がゾロに返されるのなら、オレは。
 すこしでもいいから、ゾロがそれに消されてしまわないように…ゾロを包んでいたいと思う。
 オレは死んでもいいから。
 …目を閉じて、思考を止めた。
 
 こんなこと、考えて何になる?
 オレはゾロをスキ。ゾロもオレをスキだと言ってくれた。
 そして、そのスキには、溝があるのだろう。
 …多分、埋められないような、溝。
 そんなもの、確認したって。
 …どうすればいいのか、その先わかんないもん。
 
 ミネラル・ウォータのボトルを持って、ベッドルームを過ぎる。
 奥の部屋、パソコンの前に座って。レポートの製作を始めた。
 「…現実逃避だって、必要な時はあるんだよ、サンジ」
 セトの声がした。
 「一生、逃げることはできないけれど。立ち止まって、現実を受け入れることができるようになるまで、それから眼を
 背けることはできるんだよ」
 モニターの中、文字の海の中。
 セトの顔が見える。
 
 「サンジ。自分を大切にしなさい」
 ついで、ジャックおじさんの顔がちらりと浮かんだ。
 「シンギン・キャット。現実は予想よりも、いつでも一歩深い」
 ロッキーズから見た空を思う。
 「人間は万能ではない。その場その場でできる最善のことをしなさい」
 木々の中からの、青い空。
 「時間は一方向だが、行動の方向は主体性の問題だ」
 傍らには、真っ白いコートのエマ。
 「立ち止まっても進んでいることはある。前に走っているつもりでも、下がっていることもある」
 少し遠くで、レッドとティンバーの群れが、見守るように遠巻きで見ている。
 「後ろを向いたつもりでも、それが前を向いている可能性もある。だから。どんな時も、どんな自分も、否定するんじゃないぞ」
 
 大きな手。頭を撫でる。
 「世界は広く、そして深い。厳しく、時に傷付け、時に信じられないこともあるが。世界は、いつでも寛容だ。
 どんなものも受け入れる」
 日に焼けた顔、オレを見下ろす。
 「シンギン・キャット。この世にあるものはすべて歯車のひとつだということを、忘れるな」
 笑わない顔。目はやさしい。
 「それさえ覚えていれば、この世界は、いつでもオマエを受け入れるよ」
 
 …ジャックおじさん。
 オレの、この想いも…受け入れられる場所があるのかなぁ?
 
 …はー…。
 グルグルしてるなー…。
 はー…。
 レポートを書き終わって、時刻は夜の11時。
 結局、ミネラル・ウォーターだけで、済ませてしまった。
 汗も、あんまりかかなかったし。
 もういいや、寝てしまおう。
 そう思って、短パンとTシャツに着替え。空になったペットボトルを数本抱えてキッチンに行った。
 不意に、遠くから、エンジンの音が響いてきた。
 
 …ゾロ、だ。
 …顔、見合わせたくないかなぁ、ゾロ?
 …さっさとオレ、寝ちゃってたほうが、よかったのかなぁ?
 ……でも。
 それでも。
 …一回くらい、ゾロの顔を見たい。
 …一声でもいい、ゾロの声を聴きたい。
 せめて、オヤスミを言ってから、眠ろう、そう考えて。
 
 ソファに座って、ゾロを待った。
 マミィに行儀悪いからヤメナサイ、と言われ続けているけど。
 足を抱えていないと、他に何にもすがれるものがなくて。
 膝を抱え込んだ。膝頭に頬を預けた。
 遠いところで、エンジン音が震えていた。
 
 
 
 汗と、オンナの匂いと体液とを洗い落としてから、ベッドルームに戻れば。
 律儀に、黒い布で眼を覆ったままの女が、横になっていた。とうに乱れきったリネンの上で。
 縺れた黒髪に手を滑らせ、結び目を解いてやった。
 「ねえ、もう眼、あけてもいいのかしら」
 掠れた声だ。それでも甘く語尾を蕩けさせている。
 「アア」
 出て行くつもりだった。勝手にしろ。
 それでも。眼を逸らせなかった。ゆっくりと瞼が押し上げられ。薄い青が覗いた。
 抱きごこちの良い体。このオンナとは、肌が合った。
 ゆっくりと、紅の取れた唇が笑みの形を作った。
 
 「アタシね、サンディっていうの。あんたは気に入ったわ。いつでも呼んで?」
 ゆらり、と。ひどく静かに。
 深淵から。殺意に似たものが閃いた。この存在に対して。
 ああ、ころしてやろうか、このオンナ。
 けれどすぐにそれは自嘲に代わっていった。
 ひた、とオンナの頬に手で触れてから。部屋を出た。
 
 アクセルを踏み付け、とうに暗くなりなにも見えない中でも。オンナの声が耳に残っていた。
 体の飢えや熱は、無くせたかと思ったが。おれは甘かったらしい。
 おれが飢えていたのは。なにも肉にだけではないらしい。
 餓えている、酷く。
 それは、おれの中のどこかで。
 一度、感じた想いは。根づき、息づいていたのかと。そのことをただ思い知るだけだった。
 けれど、どうする?
 アレは何もわかっちゃあいない、ただの。コドモだろう?
 人恋しい、それだけで。喉を晒そうとするバカなコドモだ。
 
 腕に抱き、熱に任せてその体を開かせれば。
 あの藍はおれを拒むだろう、そう考えれば。ひたりと。
 鋼が首筋にあてられた。それと同じ冷たさが、沁みた。
 腕に抱けば、他意なく全身で寄りかかってきていたのはほんの何日か前のことだ。
 おれが、不用意にソレを崩したな。
 いまでは。アレは泣きはらした眼をして、緊張に全身を硬くする。
 
 溜め息が零れた。
 オンナを抱くのも何の解決にはならないか。
 おれは、サンジに。
 ―――飢えたままだ。
 
 慣れた道筋、岩だらけの分岐点。これを過ぎれば、もうまもなく到着だ。
 ぽつり、と。遠くに明かりが見えた。そしておれは絶望的な気分になる。
 起きているのか、あンたは。
 
 近づくまでに消えることを願った灯かりは。エンジンを切っても消えることは無かった。
 夜気を吸い込んだ。扉を開く前に。眼を閉じ、中の気配を探る。
 ああ、座っているな。
 す、と呼吸を整え。ドアを開けた。
 かつり、と。フロアにくつ先のあたる音までが響いた。
 
 ソファに。サンジがいた。
 脚を抱え込み、それでも。流れる煙を目で追っていた。
 「…おかえりなさい、ゾロ」
 
 ドアを閉めた。
 「ああ、起きてたのか」
 抑揚の感じられない声。サンジから出てくるとは思えないようなソレ。
 「…ウン。おやすみなさい、って言ってから、眠ろうと思って。それと…」
 なにがあンたに、そんな声を出させる?
 声に近づいた。
 立ち上がり、タバコをもみ消していた。
 
 「なんだ、」
 「…昨日は、ありがとう。重かったでしょ、オレ?」
 苦笑、だった。浮かんでいたのは。不意に、それを消したくなった。
 考えるより前に、腕が勝手にサンジの頭を捕まえていた。
 「なに言ってる、あンたは軽すぎる」
 ぴくん、と動いたその微かな揺れを。無視した。
 「…そうかなァ?」
 「アア。」
 そのまま、髪をかき回した。
 
 「…今日一日、楽しかった?」
 金糸が指の間を流れるに任せて。引き寄せた。
 間近で見詰めれば、眼を閉じて。ふにゃりと諦めたような笑いカオを作った。
 泣き顔に近いソレ。
 ああサンジ、オマエは。カンが良いんだな、と。冴えた声が頭の中でしていた。
 「―――アア。」
 これが、返事だ。
 
 「…そう」
 たとえ嘘でも。
 額に手を添えた。指先でラインをなぞり。
 愉しかったよ、と。続けた。
 嘘は。
 刃より、深く。喉を裂いて上ってくる。
 
 「…そっか。…オレね?明日、仕事だから…悪いけど。また、家で時間潰してくれるかなぁ?」
 「ギブアンドテイク、といこうぜ?オーケイ」
 手を離した。
 溜め息が聞こえた。
 ああ、だから。緊張する必要は無いんだよ、サンジ。
 「オッケイ…」
 笑って見せた。
 泣き顔を見たくなかった。
 
 けれど、おれが眼にしたものは。
 眠りを取り上げるのに十分なほどの、痛みと。それを隠そうとする笑い顔だった。
 
 おれは、あンたの。
 傍にいないほうがいいのだろうけれど、愚かしいほどのエゴでも。
 たとえ泣き顔でもあンたを見ていたいんだよ、ごめんな。
 サンジ。
 
 
 
 
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