きん、と。
耳もとで空気が冴えた。雪の中にうずもれて。空を見上げる奇妙な遊び。
ガキのころに、ロッジの裏でしていたか?たしか。
雪?―――いまは、

水に溺れたかと思った。呼吸の変わりに水が思い切り気管に入り込みやがって盛大に咽た。
ハ??風呂場か??

「眼が覚めたか、狼?」
喋ろうにも、まだ喉が声を出せずに。ひどく冷静な声のほうを睨みつけるしか出来なかった。
すう、と頭が冴え始めた。水風呂に突っ込まれている。
「オレを睨んだって、仕方がない。そのまま、棺桶に入りたかったのか?」
ああ、そうか。熱中症になりかけてたんだな、おれは確か。
「―――いや、礼を言う」
どうにか声を出した。
「フン。砂漠で迷子になってたというわけでもなさそうだな」
差し出されたタオルを受け取り。ついでに服くれないか、と付け足した。

でかい手が突き出された、持っているのは……体温計?
「測っとけ」
「もう、大丈夫だよ」
「体温ぐらい、知られたって平気だろう?」
「自分でわかる。平熱だ、」
冷静な声を聞き流し。浴槽から抜け出した。
デニムに脚を突っ込み。ああ、上がねえぞ、と思い当たった。
「シャツは洗濯機だ。オレのシャツでよければ着ときなさい」
「助かる、」
に、とリトルベアに笑いかけた。

「あんたにも助けられたな。借りは返すから」
「気にするな。水分、足りないだろう?あっちで飲め。身体が、欲してるはずだ」
肩を、ひょい、と。竦めていた。
「じじいはいるか?」
礼を言いながらドアを抜けるとき、聞いた。
「居ない。安心して、座っているといい」
わらった。

シャツを羽織り、リビングに出て。水を飲んだ。
この家は。ずいぶんと、居心地が良いんだな、と。ふと思った。
けれど、おれはここで寛いでいる場合じゃない。まったく。

「随分と急いでいるようだが。しばらく休まないと、次こそは確実に棺桶だぞ」
何かをキッチンで作っている風な背中がそう言ってきた。
ああ、おれは。こいつに話しておかなけりゃいけない。
「リトルベア。話がある」
「…言ってみろ」
「おれは、フェニックスまで戻る。すまないがアシを貸して欲しい」
両手に、マグカップをもってやってきた。すう、と手元から涼しげな匂いが立ち昇る。

「オマエは、オレの弟弟子に。すっかりメロメロになってたと思ってたんだがな?アイツが泣くぞ?」
ああだから。それが問題なんだよ、チクショウ。
「泣いても、だ。おれはもう、アレには関わらない」
「…訳を言え」

訳、か?
「つまらない嘘は言うなよ」
ああ、この声は。いっさいの虚を許さない声だな、思った。視線を、あわせた。深い闇色。

「おれは、アレを連れては行けない。それだけだ」
真意だ、これが。
「…そんなものは、百も承知で、触れてたんだろうが」
「ああ、生憎と呆けていた。忘れていたんだよ」
「…オレはまた。アイツがベベすぎるから、重荷になったのかとでも思ったな」
けれど。いまは、違う。どうかしてたんだ、おれは。
「まさか。」
わらった。不思議と、自然と湧き上がるように。
「では、なぜ連れていけない?アイツは、オノレの身を守る術は持ってるぞ?」
「おれが、手に入れるわけにはいかないんだよ、」
わかれ。

「オマエが裏家業のオトコだから、か?」
フン、御見通しか。
つまらん理由、そうかもしれないな。あんたの言うとおりだ。
「オマエがマフィアだか殺し屋だか知らんが。それは一生、オマエに付いて回るものだぞ」
「下らなくて結構。おれはリスクはいらねぇんだよ。」
「逃げるのか」
「―――逃げる?」
「逃げるのだろう?守りきる自信が無いから。手に入れることから。違うか?それとも。怖いのか?」
「ああ、逃げるさ。アレは黄金の鳥なんだろう?じじいが言っていた。引き摺り下ろすのはゴメンだ」
恐れ、……あるとも。

「アレが、そんなにヤワな存在だと思うか?歌う猫が」
首を振った。
いや、あれは頑固でどうしようもない強情猫だ。
「本音で語れ」
どうやらまた勝手に口にシテイタラシイ。
フン、と。短い抑えた笑いがリトル・ベアから聞こえた。
ああ、その点はあんたもおれと同意見なのか。

「怖いか、と問われれば怖いさ。おれは、剥き出しの心臓を晒しているのはイヤだと言ってる。おれは、アレを欲するが。
同じほど、厭う。いらない」
さあ、満足か?あんたは。

「厭う理由を言え」
「あんたには、関係ない」

「ただ、伝えて欲しいだけだ」
「…ふん。随分と簡単に言う」
「あんたの大事な弟弟子を、返してやる、と言っている。受け取れよ。おれは、おれの居場所へ戻る。サンジは―――」
「オレは、サンジを随分と気に入っている。できれば、泣いているところは見たくない。なのに、酷いことをさせるな、ゾロ」
「アレのためだろうがよ、それくらい大目に見てくれ」
「それは、アレが決めることだ。オレでも、オマエでもない」
「いいか?聞けよ。おれは、逃げる、と言ってる」

「いいだろう。伝言を伝えてやる。その後で…泣いているアレを、誰かが攫っても。オマエは何もできんぞ」
薄く笑みを刷く男に。おれもわらった。
「おれよりはマシだろう。誰であろうと、な。さて、と。クマちゃん。敵前逃亡するおれに手を貸してくれよ」
「ありのまま、伝える。アレに何を言って欲しい?」

ふ、と。ブランクになった。
伝えること―――

「参ったな、」
リトルベアに眼を戻した。
「言葉がみつからない、」
多分、奇妙な線が、口もとに出ているに違いない。引き攣る、
「…ふん。アレに一生残る傷だ。精々考えろ」
「傷か、」
例え、傷にしかならなくても。
―――ああ、そういえば。今朝、言っていたな。

「……いや、ある。」
リトルベアに向かって手招きした。近寄る、影が床を渡った。
「キスをして。"思い出したから"と。言ってやってくれないか。それでいい」
ソファから立ち上がった。
「なあ、アシ貸せって」

ひらひら、と手を上下させる。
「クマちゃん、キイを貸してくれ」
「…どうやら、自分で伝えるチャンスが巡ってきたみたいだぞ、ゾロ」

な―――、エンジン音だ。
地獄の蓋でも開けたか、おれは。
溜め息をつく前に。
びりびりと窓が鳴るほどに。扉が押し開かれた。
―――だから。なんであンたがここに来る?
……サンジ。



砂漠の家。
日の長いアリゾナの砂漠にあって、午後5時というのは、まだまだ明るい。
けれど、室内にいると、電気は必要な暗さにはなっている。
車を、家の前に停めた。
酷く、イヤな予感がした。
ドア、開けっ放し。
人の気配、ゼロ。
キッチンを見て、ランチを食べた様子も無かったのを確認。
ベッドルーム、空。
眼を閉じた。

もしかしたら、このまま。
行かせてあげたほうがいいのかもしれない。
オレのようなコドモに関わっているのは、多分…とても大変なこと。
ゾロの職業は、多分…殺伐とした世界のもの。ニンゲンの世界に置いて、弱肉強食が罷り通っている場所。
オレに関わることは…もしかしたら、とてもリスクの多いことなのかもしれない。
だけれど。
オレは、ゾロが欲しい。
諦められない。
せめて、「オマエはいらない」といわれたのなら、まだ………なんとか、なるかもしれないけど。
こんな風に、置いていかれるのはイヤだ。
ズルいよ、ゾロ。
酷い、人。

ああ、泣いている場合じゃないよ、オレ。
泣くのは、後でもできる。
今は、探すことが先決。
涙をぐ、と拭いて、むりやり止めた。
ゾロ。歩いて行ったんだ。
…砂漠で人を見出すなんてムリなことだけど…帰り道、人影は見なかった。
居たのは、年老いたチーフと騎兵隊の幻だけ。
今日も、暑かったから…。どこかで、倒れてるかもしれない。
…ああ、でも。ゾロはタフな人、だ。
だったら、ピーチスプリングスか、奥のレジデンスには辿り着けているかもしれない。
いなかったとしたら…ゾロを探すのに、人手が居る。

…ゾロ。
待ってろよ。
オレはアナタを…このまま行かせる気なんか、さらさらないんだからな!
「くそっ」
…あ。生まれて始めて使った。
うん、少し爽快。
泣いてる場合じゃない。
怒ってる方が、まだマシ。
よし。行こう。人手なら…リトル・ベアに頼むのが一番だ。
携帯電話をかけようとして。バッテリーが無くなってるのに気付いた。
…そういえば、昨日、結局充電しなかったし。

しっかりしろよ、オレ!
パン、と顔を両手で挟んで、気合を入れた。
家の外に走り出て、車に飛び乗った。
エンジンを吹かして、砂漠を突っ切る。
その間に、オレのパワー・アニマルに呼びかける。
狼。
猫。
鳥。
縁が特に深いものたち。
ゾロを探す力を、オレにください。
ふつり、と力が湧いてきた。

半分滑るように、砂漠の道を戻る。
ここで事故にあってしまったら、ハナシにならないから。
注意を払って、砂漠を飛ばす。
アクセル全開。こんなスピードで走るのは、始めてだ。
妙に視界がクリアになる。
無心で、レジデンスまで車を飛ばした。
6時半、オレもやればできるじゃないか。
師匠の家の前、車を停めた。

駆け込む。
「師匠!リトル・ベア!!ゾロがいないんだッ!!!」




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