7:20am Monday, August 27
深い眠りから、日が昇る頃には覚めた。埃とは違う、火薬と潮とが混ざり合ってでもいるような名残を熱い湯で洗い落とし、部屋に戻った。中央にあるイスに腰掛け、淹れさせたエスプレッソのカップから上る空気の揺らぎを眺めていた。アタマがどうにか動き始める。

時間を逆算する。
あの子守りならばどうこの6時間を使ったろうか、と。
エスプレッソの入ったデミタスカップは、正確には2脚あった。おれの分と、あとは――――。

扉に、羽根が触れるほどの微かな音。
そして、うんざりするほどの滑らかな声。
「お目覚めですか、」
――――これを。おれは一体何年聞いてきたんだろう。
それこそ、ガキの時分から。
「開いている、」

扉に目を遣らずに答える。あの子守りが持ってくる報告は、わかっている。
朝一番に聞くにふさわしい、気の滅入るニュース。
一晩眠れば、すっかり忘れ果てるかと思ってはみたが。
蒼の呪縛?――――冗談じゃねェ。おれは、少なくとも、「あの色」には惑わされるとは思えない。

すうっと、朝の気配からはほど遠い、それでも冴えたモノを纏ってペルがイスの横に立ち、おれは軽く向かい側のイスを指した。
「座れよ、それに」
「――――あぁ、良い香りだ。いただきましょう」
やんわりと、笑み。
だれか、こいつにサウロンの大鎌(サイス)をやってくれ。何よりのプレゼントだ。

「無事、お言いつけ通りに」
く、とデミタスの縁から薄い唇が言葉を綴った。
目を合わせる。だが、薄い鳶色に何の表情も浮かんでいるはずも無かった。
「"あの方"は、墓所にただお一人で眠っておられる」
「――――そうか」

カップに手を伸ばした。
華奢な取っ手が液体の熱を指にまで伝えてくる。
「あの家に、なにか残されていはしなかったか」
喉を、苦味が滑り落ちていった。

「いえ、なにも………」
これは、何かを迷っているわけか、珍しい。
「おい、隠し事は無しだ」
「神父を呼んで最後の祈りを捧げさせました、墓所の前でね。明け方でしたよ」
言葉を切り。すう、とカップを上向け、するりと液体を喉に落としていっていた。

「"あの方"に、神が必要とも思えませんでしたが。これは、残されたモノへの心遣い、」
音もなく、卓にカップが戻された。
「そして犬どもは、犬の餌。」
に、と笑いやがった。
これは、こいつのジョークだ。
飲み干し、卓へカップを置いた。

「あとは」
「"あの方"の使っていたと思われる主寝室に、」
ペルが、僅かに身体を浮かせ上着の内ポケットから何かを取り出した。
小振りな、掌に隠れるほどの―――――
「これが、ありました。読み終えられてはいなかったようだ」

一見して、古いものとわかる皮表紙の本。かすれかけた文字は――――ラテン語か?
おい、トマ。おまえは一体……、

「ギリシャ悲劇、戯曲ですね。お好きだったようだ」
すい、と。ペルの細長い指先が表紙を慰撫するように辿り、そのまま頁を指で開いた。
はさり、と。重たげな乾いた音を立てて、分厚いそれが、4分の3ほど捲られた。
開かれた頁、二色刷りの銅版画の挿絵のある半ばに何かが挟まれていた。
栞にしては、形が随分と―――――

「古い写真ですよ、」
最後通告にも似た柔らかな声音だ。告げてくる。
「"ご家族"のものですね」
塗り込められた闇色に浮かび上がった、燐光めいた蒼。それが一瞬蘇る。

「――――だから、どうした。今ごろ再会を喜んでいるだろうさ」
「あぁ、ゾロ」
ペルが、うっすらと笑みを浮かべた。
「私はただ、真実をお伝えしたまで。これが、"あの方"が残された全て」
ぱた、と。
頁が閉じられた。手の中で。

想いも、呪詛も、全て。我々には残されておりません。あなたはそのことをご存知ですか、と。
歌うように告げてくる声がある。
「――――−ア?」
「そのようなものを、後生大事に抱えていられるとでもお思いか?あなたは」
くう、と薄い唇が引き上げられた。
「闇に生まれたモノが、また暗闇に還っていっただけのこと。あなたは全てを喰らってただ前へと進めば良い、それが出来るモノは少ない」

すい、と。ペルが立ち上がっていた。
「"これ"は私がお預かりしましょう。ゾロ、」
扉へと進む姿が、足を止めた。
目を背後へとやる。
「なんだ、」
「私は、"あの方"がキライではありませんでしたよ。とても、聡明なコドモでしたから」

失礼、そう告げて。
ドアが閉じられた。
窓の下から、僅かに朝の喧騒が立ち上ってくる。この部屋にまで。

古びた写真に写っていたのは。
トーニオ伯父と、酷く美しい女と、コドモ。ほんの、コドモだ。
三人で輪を描くでもなく、微かに距離を二人からおいて眼差しを投げていたコドモ。
思った。
「今」ならば。
あのコドモは距離を狭めただろうかと。

埒も無い、笑いがこみ上げる、喉奥から。
ペルの言うとおりだ、「おれ」の中に居座り続ける感情など珍しいのだろう。
ただ一つを除いて。

「上等だよ、」
おれは、忘れてやる、おまえのことなど。
ただ――――。
あの
妙に抑揚を欠いた声が偶に意識の底を過ぎることはあるかもしれない。
例えば、頭上の木が枝を揺らしたりなどでもしたなら、あるいは。
ほんの杞憂だ、おれはそんな場所へは行かないだろうから。
――――――1人では。

おれはおまえのことを忘れていた、だからこれからも思い出すことはしない。そもそも、おまえに恨みもないのだから。
これが、おれの弔いの流儀か?笑える。




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