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 サンジを寝かしつけてから、軽く冷蔵庫の中を覗いて果物を食べた。
 栄養価値とエネルギィの量としては充分な量を摂取して。
 メイドを呼んでマスターベッドルームを直してもらっている間に、ストレッチをし。
 静かになった部屋で、暫く腕立てや腹筋、背筋の運動をこなした。
 エリィはライブラリの光の当たる窓際で、のんびりと毛繕いをしながらオレに付き合っていた。
 
 軽くシャワーを浴びている間に、エリィはサンジの元へ寝に行っていた。
 水着を取りに部屋を覗き、草臥れ果ててうつ伏せで寝ているサンジの横顔に口付けて、行ってくる旨を伝えた。
 ぴく、と僅かにリネンの上の指先が動いていた。
 「ちゃんと眠って回復しとけよ、」
 エリィに、サンジをよろしくな、と頼んで部屋を後にした。
 ころ、と丸まって、エリィの返事。添い寝は完璧、らしい。
 
 グランドフロアまで下りれば、顔見知りになったブランドンというボーイに挨拶を寄越された。
 「弟さんはご一緒ではないのですか、ウェルキンス様?」
 「昨夜飲みすぎたらしい、まだ寝ているよ」
 応えれば、さもありなん、とボーイはにこやかに頷き。トレーニングルームへの行き方を教えてくれた。
 「サンクス、」
 「頑張ってくださいね、いってらっしゃいませ」
 
 にこやかに送り出されて、トレーニングルームのある一角に向かう。
 ティールームのあるウィングとは反対側。
 受付の係員に、ルームナンバを告げた。
 「ウェルキンス様、今日はトレーニングルームをご使用でいらっしゃいますか?」
 「いや、プールだけでいい」
 「畏まりました、それではロッカーの鍵をどうぞ」
 
 にこにこと笑いかけてくる受付係にひらりと手を振って。
 更衣室に入った。
 カメラがあるのは盗難予防、なんだろう。
 奥の一角に、実際に着替える場所があった。ウッドの仕切りで閉じられた、簡単な場所。カメラから死角にあるのはアタリマエの
 こと。
 
 水着に着替えてからロッカーを開ければ。その中は微かに温風が入るようになっていて。乾いたタオルが畳んで置いてあった。
 ふゥん?
 サンジに付けろ、と渡されたままだったネックレスも外して、服と一緒に奥に入れた。
 鍵はマジックテープを使ったバンドで、手首に巻きつけるタイプだった。
 ロックして、身支度を整え。
 入口でフットプールを通り抜ける瞬間に、消毒液交じりのシャワーが降りかかってきた。
 
 プールサイドで軽くストレッチをする。
 ヴァーミリオンは高級ホテルであるせいか、比較的客の年齢層が高い。
 内装も合わせて華美にクラシックなせいでもあるのか、子連れはまだみかけていない。もしかしたら、ホテル側が断っている
 のかもしれない。
 
 50メートルプールは6レーンに分けてあって。その内3レーンが使用中だった。
 休憩用のウッドのストレッチチェアが並ぶ一角に、ゴーグルやビート板を貸し出している場所があった。
 監視員も兼ねているらしい男性スタッフが、にこやかに手を上げて挨拶をしてきた。
 軽く会釈して、プールに向かう。
 
 曇らないガラスの仕切りの向こう側では、ジム・エクササイズに励んでいる中高年の利用客の姿が見えた。
 反対側のガラスの向こうは、昨夜歩いたトロピカル・ガーデンに繋がっているのか。
 鮮やかな緑の植物が生えているが見えた。
 その更に奥には、眩しいはずの青空。
 光の質を見下ろせば、ガラスが特殊なのかもしれない、明るくはあったものの熱はあまり通してなさそうな色合いだった。
 湿ったこの空間に苔が生えるのを嫌ってのことだろう。
 
 軽く身体を解してから、スタート台の上に乗る。
 壁にある時計を見上げて時間を覚えこんでから飛び込んだ。
 水泳は、一度身体が覚えこんだら忘れることはないらしい。
 フォームの綺麗さはトレーニング次第だが、泳げなくなることはないという。
 型を意識してクロール。
 息継ぎの度に音が変わるのが懐かしい。
 心音と腕のリズムを合わせて、まずはウォームアップ・ラップ。
 プールの先で壁を蹴ってターン。
 
 泳ぎを習えと言ったのは父だった。
 泳ぐためだけに、アップタウンのジムに通った。
 父は其処ではスティーヴン・ジョリアーノで。オレはその息子のゾロ、だった。
 トレーニングしてくれたのは、元オリンピック選手で。
 父がジム・トレーニングしている間、オレは個人レッスンを受け、水で泳ぐことの総てを覚えさせられた。
 通ったのは2年。
 その後で親父に、ダイヴィングと水音を立てない泳ぎ方を、わざわざ湖まで泳ぎに行って教わったっけな。
 
 懐かしく思い出しながら泳いでいれば。
 いつの間にかウォーミングラップから普通の泳ぎのリズムにまでなっていて。
 クロールから平泳ぎ、背泳ぎとこなしていた。
 軽く乳酸菌が溜まり始めたのを意識して、一度水から上がる。
 すると、ふい、と影が落ちてきて。
 「ミスタ!素敵な泳ぎでしたわ」
 ふわりと笑う女性が手を叩いていた。
 パンパン、と掌が打ち合わされる音が軽くエコーする。
 「こちらのコーチング・スタッフではいらっしゃいませんの?」
 もしそうでしたら、この場でお雇いしますわ、と言ってきたマダムに首を軽く横に振る。
 「貴女と同じ泊り客ですよ、マダム」
 
 「フィリッパですわ、ミスタ。お若いのにご立派ですこと。失礼ですけれども、プロの選手でいらっしゃるのかしら?」
 タオルを持ってやってきたスタッフに礼を述べてから、女性に向き直る。
 「マダム、プロ選手ならばこんなにのんびりと時間を配分したりはしません」
 「フィリッパとどうぞお呼びくださいませ。それにわかりませんことよ?ホリディは誰にでも必要なものでしょう?」
 50歳程のマダムは、ナイキの鮮やかな色合いのスウィム・ウェアの腰に手を当てて、ふわりと笑った。
 濡れた髪が後ろに撫で付けられていて、程よく引き締まった身体が、若い頃には充分にちやほやされたのだろうことを物語る。
 ―――もしかしたらいまも、か?
 
 「マダム・フィリッパはこちらへホリディでいらした?」
 「わたくしは年がらホリディのようなものですけれども、ええ、その通りよ。こちらのホテルにはよく遊びに参りますの、」
 「それで見かけない顔のオレに声をかけられた、と」
 「嫌ですわ、ミスタ。それは貴方がとても素敵な男性だからよ、」
 お名前伺ってもよろしいかしら、と訊かれ。
 どのみちホテルのスタッフに呼ばれればバレるか、と思い直してアリステアだと名乗った。
 この場合、苗字で名乗っていると余計な詮索をされる。
 オレたちが消えてからであれば、いくら詮索されても構わないけどな。
 いまはひとまず―――。
 
 「ミスタ・アリステア、貴方がお嫌でなければ、本当に、わたくしをコーチしてくださらないかしら?」
 「申し訳ない、マダム。実は久しぶりのホリディなので、たっぷりと泳いで身体を解しておきたいのですよ」
 「残念ですわ―――今日はお連れ様はどちらで?ご一緒じゃないのかしら?」
 「好奇心旺盛ですね、マダム・フィリッパ」
 「嫌ですわ、お怒りになられては。詮索されるのはお嫌いですの?」
 ふわりと笑ったマダムに肩を竦める。
 「嫌いですね」
 「ああ、ミスタ・アリステア。素敵な貴方にお目にかかれて小娘のように浮かれてしまったわたくしを許してはいただけない
 かしら?」
 「もちろんです、マダム・フィリッパ」
 「ぜひフィリッパと」
 「では、フィリッパ」
 
 ふわりとまたマダムが微笑んだ。
 「お連れさまは貴方のような素敵な男性とご一緒で本当に幸福でしょう。わたくしでは一時のお相手も務まらないようですし」
 「幸福かどうかは本人に訊いてみないと解りませんね」
 「まぁいやだわ、アリステア、そうお呼びしても?」
 「どうぞ」
 「アリステア、貴方ってば本当にその方を愛していらっしゃるのね、」
 くすくすとマダムが笑った。
 「ご慧眼でいらっしゃる」
 「否定なされないなんて酷いわ、アリステア」
 「本当のことですから、フィリッパ」
 くすくす、とマダムの笑い声がかろやかに響く。
 
 「わたくし、完敗ですわね。けれど一縷の望みをかけてもよろしいかしら?」
 「マダム?」
 「お一人の時間がもしありましたら、わたくしをお呼びいただけませんこと?こちらにステイしているときでなくても構いませんわ」
 「ではどちらへ?」
 「交換台へ、フィリッパ・シャントレーユへ繋いで貰っていただければ直ぐにお応えしますわ。その際に、こちらでお会いした
 アリステアだと名乗っていただければ」
 「マダム・シャントレーユ、ですね」
 「フィリッパよ、アリステア。わたくしの家、マイアミにありますの。近くにお寄りの際にもぜひ」
 「フィリッパがお忘れにならなければ、またいつか」
 
 すい、と差し出された手を引き上げ、軽く口付ける。
 ふわりと頬を染め、フィリッパが笑った。
 「貴方程の男性を忘れるほど、この世の中よい異性に溢れてはいませんわ」
 ごきげんようアリステア、と。ふわりと笑ったマダムがくるりと踵を返して更衣室の方へ消えていった。
 引き際がいいのが、マダム・シャントレーユの育ちの良さを物語る。
 同時にプライドの高さも。
 
 濡れたブロンドがすい、と消えていき。
 軽く疲労を覚えて、カウンタの方に向かう。
 『泳いでいる最中にも適度な水分を。』
 塩水でなくても、そのルールは適用されるらしい。
 「ウェルキンス様。何にいたしましょう?」
 にっこりと笑うスタッフは、一連の茶番を見ていなかったフリで声をかけてくる。
 「スポーツドリンクでもあれば」
 「畏まりました、」
 
 
 
 
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