見上げた先に、メニュウが乗っていた。
ミネラル・ウォータ、フルーツ系のドリンク、それからスポーツドリンク。
さすがにジムの横にあるカウンタだ、酒は置いていないらしい。
最も飲みたいとも思わないが。
適度に冷やされたドリンクを飲んで喉を潤し。
プールに戻れば、なぜだかサイドのレストエリアにギャラリが増えていた。
マダム・フィリッパはいなかったので、カノジョが呼んできたわけではなかったらしい。
なにをしに来たのか―――またコーチの一人だと思われるのは嫌だな。
無視をして、首からかけていたタオルをストレッチチェアに放り出し、使っていたレーンに戻る。
妙に行儀のいい客の連中は、なぜだか使用せずに空けておいてくれたらしい。
二人が同じレーンで泳いでいる場所もあるのにな。
若造に気を使ってくれる。
軽く首を鳴らしてから、また水に飛び込んだ。
おお、とか言っている連中はいないものと思おう。
金がある割には、ロクなコーチスタッフに巡り合っていなかったのかもしれない。
もしくは―――若い泊り客がそんなに珍しいのだろうか?
ますますサンジをティルームとかバーで遊ばせとくわけにはいかないな。
久しぶりにバタフライにチャレンジした。
空を切るような瞬間が、泳いでいる間楽しいフォームだ。
軽く頭の中に快楽物質が流れ出ているのを理解する。
いまならイルカ姫とも泳げるぞ、と多分まだ夢も見ずに眠っているだろうサンジを思って呟いてみる。
軽く4往復ほどしてから、水の中で身体を解した。
クールダウンに背泳ぎでもしてから帰ろうかと思いきや、隣のレーンから声がかけられた。
「なあ、若いの。腕、痛くないか?」
「ハ?」
「いやなに、フォームが少し崩れてるだろう?気になって」
バタフライの仕種をしてきた中年というよりは品のいい老人を見詰める。
淡いブルネットが水に寝て、オールバックになっている。
「目がよろしいですね、ミスタ」
「テオドールだよ、お若いの。テディと愛称で呼んでくれて構わない、許可する」
「奥様はエディス?」
「なんの!わしは大統領にはなれなかったなあ」
ついでに結婚もしなかった、と言われて苦笑した。
「その傷、ちゃんと診てもらったほうが良くはないか?」
「後で薬でも貰いますよ」
「マダム・シャントレーユは適わなかったらしいな?」
にかり、と笑われて返答に詰まる。
「“お友達”で?」
「まさか!ああいうのは後々祟るぞ」
「少なくともその気はありませんから、ご心配なく」
「うんうん。どうせだったらウチに来なさい」
「―――ハ?」
「ここの近くにわしの家がある。第26代大統領に負けないくらいの屋敷があるぞ」
「お一人で住まわれるのには、確かに大変そうな屋敷だと想像しましたが」
「大変ではないが退屈はする。退屈をするから面白そうな人間を探しに来る。今日のターゲットはオマエじゃ、若いの」
「ご冗談を」
「なんの!冗談で72歳が20代の若いのをナンパすると思うかね?」
「ナンパなんですか、」
「ああ。別に寝床に連れ込もうとは思ってはおらんから安心しろ」
「返答に詰まりますね、テディ?」
にかり、と老人が笑った。
「酒に強そうだの、若いの」
「その通りですが、昨夜いささか飲みすぎまして」
「自律が行き届いてるな。たまにはハメをはずさんか、折角若いのが」
「若いといえばテディも若いですね」
「年齢の割には、と言うんだろう?世辞はいらん」
「本心からの褒め言葉ですよ」
「けれど関心はないのだろうて」
オマエの目線は医者のようだ、否違う、軍医のようだ、と老人が続けた。
「どうだ、本当にうちに遊びに来んか、」
「なぜ見ず知らずの他人にそこまで?」
「若い頃のわしの体型とほぼ同じなのだ。ウチにある軍服が着れないものか見てみたい」
―――コスプレマニアか?
なにか映画でなかったか?初老の金持ちのゲイの元軍人が、なんだかんだ言って見知らぬ青年を家に呼んで、拒まれたので
プールで自殺したようなハナシが?
「残念ながら、連れと一緒ですので」
「連れと一緒に来てもらっても構わないぞ。それ、その傷を付けた子じゃろ?」
「テディは本当に“眼が良い”」
「褒めてもわしの気を良くするだけじゃ。オマエの生業がいまいち読みきれんが、軍上がりというわけではなさそうだな?」
「テロリストかもしれませんよ、」
老人がにかりと笑った。
「まあ何者でも構わん。詮索もせん。どうじゃ、わしと来んか?なんだったら養子に迎えるぞ」
「お戯れも程ほどに、テディ」
「なぁに、どうせこの老いぼれ、先が短いのは解っておるわ。生きているうちに好き勝手せなんで何時する?」
「その調子で構われたのでは、飽きも早いでしょう。どの道遠慮申し上げますがね」
「硬いのう、若いの。名前くらい教えろ」
「詮索はしないと確約をいただけますかね?」
「ふン、いいだろう」
「アリステアです、テディ」
「ふぅむ。アリステアとな」
「ええ」
にっこりと笑えば、老人は軽く肩を竦めた。
「まあ、ジョンでもポールでもリンゴゥでもよかったがな」
「ジョージではありませんよ」
「今の大統領は阿呆で困るの、」
にかりと笑ったテディが、上を示した。
「オマエはやはり面白いの、アリステア。連れが良いと言ったら二人で我が家に遊びに来い。ここのスタッフに言えばリムジンで
送り届けてくれるだろう」
「前からこういうことを?」
「そこは詮索ナシだ」
軽く片目を瞑られた。
苦笑する。
「仰せのままに」
「結婚には興味は無いが、子供は産ませておけばよかったかのう」
「孫ですか?」
「オマエのような男の孫なら、居れば楽しかっただろうなとフと思った」
「テディのような鋭い祖父のいる家では、お孫さんも息苦しいかと」
ハハ、と大声で老人が笑った。
なぜだか更に増えていたギャラリィの視線が今頃気になる。
ずっと気付いてはいたが。
「いつでも養子に来い。レコードが気になるようであればいくらでも手を回して真っ白にしてやろう」
「そういうことは大声で言うものではないですよ、テディ」
「オマエにならステッセルの家を継いでもらうのは楽しそうだ」
やたらと本気そうな口調の老人に更に苦笑する。
「どこの者とも知れない馬の骨を養子になさいますと苦労しますよ」
「まるでなったことがあるような口ぶりだな」
「名家を継ぐとなると、そういうものだと相場が決まっているかと、将軍」
「わしは引退したただのジジイだ」
「それではオレはただの若造です、テディ」
「勿体無いな。オマエのように知識教養のある物騒な馬の骨をただのさばらせておくのは」
「馬の骨にも諸事情がありましてね」
「何事も上手くはいかん世の中だのう、」
気が変わったらいつでも来い、と言い渡し。
身勝手な老人は見事なクロールで泳ぎだした。
72にしては健勝しすぎやしないか?
クールダウンする前に冷えてきた身体をプールの縁に上げ。
これ以上声をかけられる前にシャワールームに向かう。
ナンパはナンパでも、まさか養子にしたいと言われるとは思わなかったな。
十中八九、サンジの父親の知り合いだろう。
ヘタをすれば、クエナイオトナとも面識があるかもしれない。
“世の中にはケッタイなのがわんさかいるぜ、ゾォロ。”
げらげらと笑ったシャンクスを思い出した。
折角泳いでいい気分だったのが―――まあ、そんなに悪い気分じゃないのはなんでだろうな。
もちろん、ナンパに乗る気持ちはサラサラないが。
確かにただバーで呑む相手として誘われたのだったら、乗ったかもしれない。
NYCでタダのジャズマンだった頃にでも出会っていれば。
ヘンなジジイだったが―――妙に突き抜けて、嫌なジジイではなかったしな。
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