3人客が増え、けれど一向に減る気配はなく。
サンジにどうやら気があったらしい店主に随分とサーヴィスしてもらったパイとアイスクリームを美味しく食っている間に、
棚から出してきた本に目を通した。
フラクトル理論の本を広げる。
目の前に、ブラックホールと同じ図が、極彩色に彩られ、展開していた。
無限に増殖して膨張する絵、混沌で数値が一定ではないから、同じ絵は二度起こらない不思議。
違いはブラックホールが飲み込んでいくのに対し、フラクトルは広がっていくことだろうか。
サンジは静かに、随分と古そうな画集のページを捲っていた。
極彩色でコンピュータ画像だと解るフラクトル画に対して、パステルやオイルで描かれたルドンの絵は、随分と“甘い”。
題材の違いは比較することすらできない。極論を言えば同じになるのかもしれないが。
「おれね?」
「んー?」
すい、と目を上げ、ページを広げて出してきたサンジを見遣る。
「これ、好きなんだ」
そう言って見せてきたのは、中心より下にある明るい鮮やかな青が際立つ一枚の絵。
「タイトルは、確か…オルフェウス?」
「うん、」
ふわ、と微笑んだサンジに笑みを返す。
店内が僅かにザワメキを帯びる。発せられるのは声ではなく、好奇。
「これのどの辺りが好きなんだ?」
苦笑を抑えて、サンジに訊く。
す、と首を傾げ、金を揺らしていた。
ああ、オマエは、サンジ。“罪作り”だな。
笑みをサンジに向ける。
サンジが抱えた純真さは、柔らかな金が弾く光のように空気に溶けて広がっていく。
「目線がね、うつろうだろ…?柔らかい線なのに、何も語り掛けないで謎掛けをそうっとしてくる」
すう、と微笑んだサンジに頷いて、目線を絵に向ける。
鮮やか過ぎる青のすぐ後ろで、死路に発つオルフェウス。
「この蒼は、きっとね―――」
柔らかい声が言葉を綴る、
「観る人が全部違う答えをみつけると思う、」
と。
神秘の山、だっけか?その麓で死に行く男。竪琴の名手。
二度失った妻と、再会するために旅立っていくオルフェウス。
サンジがこちらの手許をすい、と見詰め。
「これも、同じだね。こたえは無限にありそうだ、」
そう言って、にこ、と笑っていた。
「これはどこを切り取っても答えなんだよ」
再び揺らぐ周囲にまた苦笑する。
そんなにこの街に“ビジン”はレアか?
「拡がり続けながら?」
「ああ、言い換えようか。どこを切り取っても応えの一部、だと」
答えは大きすぎて捕らえきれず。しかも絶えず膨張しているときた。無限の一瞬。
「なぁ?」
「んー?」
見上げれば。ふわ、と。またサンジが柔らかな笑みを浮かべていた。
“霊を宿す蝶”が振りまく燐粉よりレイディエントだ。
「マクロとミクロ。一緒だね、だっておれの気持ちも同じだよ」
声が、幸せだ、と告げていた。
低められた声、ああ、小さいながらもプライヴァシィを最大限に尊重してくれる店でよかったよ。
「オレは迎えになど行かないから、安心してろよ、サンジ」
トン、と“オルフェウス”の青を指差す。
「一緒にいくんだろ、」
オマエが呉れる愛情が絶えず湧きあがるものならば、オレはブラックホールの如くそれを須らく呑み込んでいく存在なのかも
しれないが。
それでも。
サンジがゆっくりと瞬き。
それから、溶け入るような笑みをふわりと浮かべた。
絵画が捕らえた蒼など、比べ物にならないほどに美しいヘヴンリィ・ブルゥが光を取り込んで、煌き。
唇が、名前を模った。
音にはせずに、ゾロ、と。
「ベイビィ、一つ教えようか」
“天使”が揺らめかした金を、つい、と引っ張る。
「ここに答えがある、少なくともオレのはな」
微笑み、本を閉じた。
伝票を拾い上げ、サンジに目線を遣る。
「そろそろ行くか?」
サンジが、観る者を魅了する笑みを浮かべていた。
対象はオレ一人の筈なのに、ギャラリが多すぎるよな、いくらなんでも。
持っていたサングラスを、かわりにサンジにかけさせる。
んん?といぶかしんでいるサンジの頭を撫で、まだテーブルに乗せられていた画集も拾い上げた。
バックポケットに入れておいたキャップを被り、立ち上がる。
「2冊とも、買って帰るんだろ?」
「うん」
「オーケィ」
サングラスを手で押さえながら立ち上がったサンジの椅子を引いてやり。
元に戻してからカウンタに向かう。
苦笑していたオーナに、軽く片目を瞑る。
ご苦労様、と。目線で告げられ、に、と口端を引き上げる。
多めのキャッシュを差し出し、レシートは断った。
「釣りはチップだと思ってくれ」
「ああ、それじゃあ、」
すい、と一枚返される。
「対価が多すぎるよ」
にっこりとオーナが笑い、苦笑してそれをポケットに戻した。
「ブルーマウンテンより高いんだ、本当はな」
「ニイサン、ごちそうさまだな」
ひらりと手を振って、サンジの背中を軽く押しながら店を出る。
ごちそうさま、おいしかった、と。ドアのところからサンジが言い。
にこ、と笑ったのが見えた。
オーナもにっこりと笑みを返しているのだろう。
ブラウンのシンプルな紙袋を下げ、サンジの顔からサングラスを外した。
「あれ?」
代わりにキャップを被らせる。
「うう?」
「オマエ、途中でどのみち外しちまうだろ、」
「なんで、キャップ?」
妙に幼い顔で見上げてきたサンジに微笑む。
「眩しいから」
オマエじゃなくて、周りが、だけどな。
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