目に馴染んだ部屋を、ゆっくりと見回した。広く開けられた窓からは風が僅かに入り込んでいた。
空間の取り方が元来大きいせいで、閉ざされた場所といった印象は与えないだろうと思う。
眼を伏せてみた、室温。それほど高くはない。
リカルドが、緩やかな歩幅で離れていってカメラを取り上げたようだった。
目を上げれば。
「暫く好きにこの中を歩き回って。ポーズも取りたければいいよ、」
声が返ってきた。
「ん、リカァルド」
く、と首を傾けてみせる。
「ここってさ、"自分の部屋"でいいわけ…?」
「好きな設定で。ただ、思ったことは口にして」
ふぅん?あくまで被写体の表現を写していく、って……?
合わせた目線の先には、冴えた眼差しがあった。
「―――どうしようかな、」
姿見、クラシックに大きな鏡がはめ込まれた方へ進んだ。
シャッターの音が聞こえた。
ケープの襟元を止めている、金の細工を指先でゆっくりと外すようにして。
姿見の中に向かって言葉を続けた。
「逢瀬に待ち草臥れて自宅へ戻ってきたのか、それともいまから誰かが来るのを待っていようか、」
「どちらがアンタらしい?」
「リカァルド、おれが誰かにすっぽかされると思う?」
金の留め金を一つ外し終えて、口端でわらった。
ぱしゃ、と。また切り取られていく音がした。
「さあ、相手がキングならば…?」
「―――ハ!」
「クイーンでもプリンスでもプリンセスでも、」
そう真面目な声が続けていた。
外した金細工に口付ける。
「あぁ、それはあるかもしれないね…」
シャッターの音が絶え間ない。
「それにアンタ。プロ意識のない相手は嫌いだろ、」
「―――うん?」
目線を投げる。
静かなトーン、声の存在自体を意識させることなく、それでも直接に語りかけてくるかと思う。
「仕事とか、投げ打ってでもアンタに夢中になる人間、実は嫌いだろ、」
唇が笑みで吊りあがる。
「おれに不実なニンゲンは好きだよ、少ないから」
指先で弄んでいた金細工を落とした。
「試すのも好きだろ、」
「うん。だけど、おれのために滅んでくれるニンゲンも好きだよ、愛せないけどね」
二つ目の留め具、これは金と真珠を繋いだ細い鎖、それを引いた。
「ふぅん。なぜ?」
「連中を好きなわけ…?」
生地を刺しとめる金の針を外した。
「おれのことを、忘れないだろ」
そのニンゲンは、と微笑んで。針を引き抜いた。
「忘れられるのは怖い?」
金の鎖が真珠の欠片を煌めかせて長い軌跡を描いて白の生地を滑っていった。
「忘れて欲しいよ、おれは天邪鬼なんだ」
姿見に向き直る。
鏡越しに話し掛けた。
「どちらが本当?」
「オマエの眼に映るおれが本当、」
姿見に頬が触れるほどに顔を寄せ、吐息を零した。
鏡越しに自分が映りこまない位置に立って、リカルドがまた空間を切り取っていった。
「アンタが在りたいのは…?」
「おれでしか在り得ないよ、それが何かはわからないけれど」
ケープの襟元を寛げる。
「いまは、」
振り向いたなら、裾がゆるく流れていった。
「反故にされた約束を、それでも待っているモノにでもなろうかな」
瞬間瞬間を切り取りながら、見つめてくる者に向かって低く話し掛けた。
「アンタは誰?普段は何をしている?」
ゆっくりと、低い声が問いを投げてくる。
「こんな馬鹿げた衣装を作らせるくらいだ、宮廷のニンゲンだろうね、」
羽毛の柔らかな房を指で掬い上げる。
「血筋は?」
「王の直系じゃあ面白くない、女王の系列にしようか」
生家の放蕩息子、甥あたりはどう?と笑いかける。
「何番目の?」
「おれが長男のハズは無い、」
ひら、と指先で天井を指す。
「性格は?」
「悲観的な享楽主義者」
椅子に凭れかかる。
「悲観的、とは?」
金の長く落ちていた鎖を片手でぜんぶ取り、床へ落とす。
光が眼に入ってきた。
フラッシュ、―――あぁ、もう外は暗くなり始めているんだ。
「約束の相手が王であれ王子であれ、姫であれ。選ぶ相手が悪すぎるだろう?」
破滅したがりの悲観主義者、と。
ケープを脱ぎ落とした。
「ワザと相手を選んでいる、と?」
フロアにゆっくりと広がっていく。
「誰でも選べるのに、選ぶモノは―――」
目線を落とし、ばしゃ、と。
奇妙なほどシャッターの音が耳についた。
「けれど、自分の破滅は厭うんだろうね、きっと」
リカルドを眼で探した。あぁ、あそこにいる。
「世界は"寒い"?」
夕闇が落ちかけている窓辺へ立つ。
レースがゆらゆらと風に揺れていた。
「人肌が恋しい程には、」
そのなかに半ば身を沈める。
「外の世界には"興味が無い"?」
風がゆっくりと頬を撫でて過ぎて行く。
意識に低い声がじわ、と染み込んで来る。
レース越しに声を見据える。
「無い、よ」
「"見た"ことは?」
「見て、目を閉ざしたんだろうね」
だから、コレはヴォイド、かもしれないよ?と。閉じた片目の上を指先でなぞった。
また開き、笑み。
「迷惑なオトコだね、"コレ"は」
「何に絶望したの、」
僅かに柔らかな声が響く。
「己の無力さに、」
腕を指し伸ばし、指先を揃えて招く。
「どうして、」
ひやり、と。冴えた塊が内のどこかに居座り続ける、絶えず感じるソレがまた一際温度を下げていく。
同じ距離を保つ声に、僅かに感情が揺れる。
「触れれば、わかるよ」
招く指先。
喉を反らしてわらった。
「オレは"無い"ものだよ、」
「―――うん、しってるさ」
柔らかな声に返す。
は、と息を零して笑い。
リカルドが一歩踏み出して近付いたのを視界の隅で確かめた。
「だから、焦がれているんじゃないか」
「埋めてもらえないのに?」
窓の外からの外界の音は遠い。
聞こえるのは、催眠術師めいたこの声だけだ。
「そう、不毛だね。渇き続ける」
喉元を掌で覆う。さらりとレェスが流れていった。
「―――アンタを埋めてくれるのは、なに?」
「愛している、と告げてきたモノ」
幾つかのソレを思い出す。
「ちっとも、足りない」
く、と。指先が肌に僅かに埋められる。意識せずに。
「―――理由を知っているか、」
首を横に振る。
見つめながら。
「知りたいか、」
手で、半顔を覆う。
身体で、本能で、学習で知っている、計算された指の角度と開き具合、肌の見える割合。
どのようにでも取れる仕種。
切れ間の無いシャッターの音を、いま意識した。
躊躇い、戸惑い、僅かな恐れ、微かな期待、そして―――媚び。
矜持と、脆弱さ。そういったモノを混ぜ合わせて放り出す。
「知恵をもったばかりに、楽園から追い出されたモノらしく」
知りたい、といえば。蛇は何をみせる気なんだろうな……?
そんなことを囁いた。
「オレは何も見せない。見るのはアンタだ」
襟元に広がるレェスを指先で撫で。見つめればそう言葉を返された。
「蛇はおれのなかにいるんだよ、知ってる……?オマエ」
静かに、すこし遠のいた声に告げる。
「いつだって餓えてる、蛇。おれと同じ」
「誰の中にもいる。そして何所にもいない、」
全てのなかに宿り、そしてどこにも属さないもの。その概念は、「神」と同じ。
あるいは、宿る、無とも同義語。オマエのなかにもある、暗くて深い場所。
おまえはなにを写し取っているんだろう、いま……?
おれはただの媒体で、共鳴して返す、それだけ。
その揺れ幅が、掴めない。
「絶望の味は?」
声が、するり、と潜り込んできた。
「あぁ、それは良く知ってる」
窓辺から一歩離れた。
「どんな味?」
この窓からはきっと「これ」の待ち人は見えない。
「口中と、舌にひろがる血の味、そしてそれに混ざりこむ涙の味、」
最初の、絶望の味だ。
おれの知っているもの。
「最初に味わったのはいつ、」
「うたってわらっているだけが似合いの頃だね」
掌を広げ、払う。
「何を引き換えた、」
「子供時代の終わりと、永らえたイノチ、」
あぁ、あと。
「シロ、もかな……?」
す、と。リカルドに微笑みかける。
「絶望の色は?」
「眩しい光、」
眼が灼かれるかと思うほどの。闇に切り込んできた光。
「恋しい?」
縫いとめられた宝石の一つをなぞった。
「絶望が……?」
問い掛けるものを見つめる、暗がりに溶け込むような。
「そう、」
纏う白が淡く浮き出るのに、それに反して問い掛ける者はその輪郭を無くしていく。
「内をすこし探れば、すぐに出てくるのに。恋しく思う閑など無いヨ、」
おれは、追ったり追われたりするのに忙しい、と。
「傷口と同じだと思う?」
首を横に振る。
「開いたまま、閉ざされないものはもう身体の一部だ。傷とはすこし違う、奥に潜めて隠しておくのに」
一つ息をついて、声の主を見つめる。
「まだ痛む?」
「触れてくる指先には二種類ある、無遠慮に撫でてから引いて行くものと。あとは、」
また少し柔らかくなった声に向かって続ける。
「気付いて、柔らかく覆うものと、癒そうとはせずにただ慰撫する」
ただ、と。
シャッターの音だけが響いた。
「そうされて、痛んでいたことに気付いたよ」
腕を引き上げて、カフスのバールを歯に挟んだ。軽く引く。
「―――そのどれでもない指先、アンタは知っているだろ、」
レェスに焚き染められたインセンスの香りがふわ、と広がった。
うっとり、と目を閉じてみせ。その香りを味わう。
イトオシイひとから齎された想いの移り香。
「指でさえないかも知れない、」
瞳を閉じたまま答えた。
「何を知っている、」
「引き出せよ、オマエが、」
やんわりと笑み。
閉ざしていた瞼を上げた。
「オレは知っている。だから、アンタの答えが知りたい、」
「リカァルド、」
静かに囁くような声にそうっと音に乗せた。
「おれはね、」
「なに、」
「誰かのために死んでもいいと思ったことなどなかったんだ、」
シャッターが空間をまた切り抜いた。
「ハジメテ、唇で触れられて。漸く眠れたよ」
カフスを袖口から取り外した。歪んだ真珠。
それにも口付ける。
「―――息を吐けた、」
目許に乗せる笑みで返し。
答えの代わりにした。
二つ並べて、カフスを窓辺に置く。
ゆらゆらと頼りなげに袖口のレェスが一層ひろがった。指先まで覆われる。
「眠りはどんな気分だった?」
「忘れていた暗がりだったよ、」
鼓動が低く響いて、安心できた、と。
微笑む。
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