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 水を口に含んだ刹那、コレを欲しかったわけじゃないと知る。
 壊してしまったときよりも、その存在さえ忘れた頃に。……ソレをどれだけ自分が好んでいたか思い出すのと一緒だ。
 
 眼を閉じて、誰もいなくなった部屋で思い出していたことは形に成り切らない感情の欠片ばかりだった。
 例えば。
 どんなキスをされたのかももう忘れた、おれの部屋で死んじまったピアニスト。愛情の示し方が不器用だったロマンティスト。
 好きだよと告げたとき、『それは至上の音階だね』と静かに笑っていた。どこかでその残された音を聴く度に、変わらずそいつの
 奏でる音色が一番好きだったりする。些細な餓えと渇き。
 渇きはあなたの懺悔なの?プレシャス、と。昔ロビンが微かに表情を歪めておれに問い掛けてきたこともあった。それは違う、
 と傲慢なガキは答えることはせずに笑みで返していた。
 
 無くしたくないと思うモノなどなかった、イラナイ。
 けれど―――。
 胸元に顔を埋める。伝わる鼓動と一緒に、一口だけ含んだ水が染みていくのがわかった。
 齎されるやわらかい音。
 耳に溶け入る声が語るソレ。
 常とは違う抑揚を素直に受け入れる。
 
 例えばオマエの乗ったジェットが海の上で消えちまったら……
 そのときは、さっさと「世界」に見切りを付けちまった方がきっとイイ。触れたものがすべて黄金になる呪の話めいて。この世界で、
 触れるものがハシから砂になっていくだろう。
 ―――渇き。
 オマエだけじゃあ消えないけれど、オマエがいないと消えない。
 
 オマエはおれが掌から降りて行ってもいいと言う。それは本心だと知ってる。
 見栄からでもプライドからでも無く、それが真意なのだということもあわせて。
 けれど、オマエが。愛してる、と言うとき。
 渇きが薄らぐ。
 “あまい水”。
 額を、鼓動を刻む上に押しあてた。
 衣擦れ、やわらかな音を耳が拾う。
 
 瞬間を切り取る音がしないことに、その音に慣れきった意識が僅かに躊躇った。
 さら、と。その掌に髪を滑らせていた、コイビトが。
 息を零す。
 触れたいと、思っていた。この腕に焦がれていた。
 リカルドがおれを「抱ける」ニンゲンだったなら、巣食った餓えは薄らいだのか、それとももっと深くなったのか、
 コイビトの背中にいっそう腕を回して、ふと思う。
 
 「あいしてるんだ、」
 唇から零れ落ちる言葉。
 抱きしめられた。優しく、強く。
 もういちど、言葉が押し出されて行った。
 「あいされてる、ってことも。信じているかもしれない」
 髪にやわらかく口付けられる。
 「信じなくとも、感じればいい、」
 低い囁きが告げる。
 
 「―――ベン、」
 「Si?」
 優しく返される。
 「リカルドにも、訊いた。……オマエはおれの、何が好きなんだ」
 身体を少し浮かせて、銀灰をみつめる。
 「―――あンたの翠の中を過ぎる光」
 柔らかな声が、指先まで通り抜けて行く。
 腕を伸ばし、頬に触れた。
 目許を指先でなぞる。
 「……なぜ、」
 そうっと微笑を浮かべたコイビトに問う。
 す、と何度もその線を慈しみながら。
 
 「フェイクできないあンたの感情だから」
 真摯な声。
 「そこを過ぎる光で、あンたはオレに語りかけてくる」
 「いまは、全部がほんとうだよ」
 消え入りそうな囁き声で返し。
 する、と指裏で頬を撫でられて眼を伏せる。
 「覚束ないジブンがいる、驚いてる」
 だけど、と。
 穏やかな指先に顔を傾ける。
 「水よりも欲しいものがあるのに、」
 やんわりと笑み。
 
 見つめられる視線を受け止め、味わい。眼差しをあわせる。
 「おれを満たしてくれるのは、オマエしかいないのに、ここに」
 真っ直ぐに見詰めてくる双眸に映りこむ自分を見る。
 「いまはオマエのことを想うのに、他の誰でもなく」
 オマエはおれの大事なヒトだから、と。
 静かに見詰めてくるコイビトに告げる。
 「誰に抱かれていても、抱いていても。オマエに愛されてることは忘れないけど。オマエといるときは、オマエだけで満たされてる」
 ふわ、と。
 とてもやさしい笑みをコイビトが浮かべた。
 
 「オマエの掌から降りないんじゃないよ、思いつきもしないんだ」
 とん、と。
 心臓の上を指先でノックする。
 「―――これだけ言わせておいて、なァんで押し倒さないわけ」
 く、と目許で笑み。
 「せっかく、まっさらで告白してるのにな、」
 コイビトを見詰めてみる。
 溢れた愛情、そんなモノが語りかけてきそうな目が見つめ返して、それが僅かに細められていくのを見ていた。
 
 「愛されることより愛することの方が満たされるって知ってたか?」
 そう、言葉に乗せていた。そして、
 「あンたを押し倒しちまうのは簡単だが、オレはあンたと愛し合いたいんだ、だからあンたに求められたい、」
 そう続けられて。
 感情が揺らぐ。
 「これ以上?」
 くく、と笑い声が勝手に毀れて行く。
 「欲しければ手を伸ばせよ」
 齎されたその続きに、笑いを推しとめる。
 「オレの腕はあンたのものだと、言ってあるだろう?」
 静かに、穏やかに。甘えてもいいのだと許諾する口調。
 
 す、とシルクの滑らかさを唇で味わう。胸元、鼓動の響く場所に口付ける。腕をやんわりと掴まえて。
 体温と馴染んだシルヴァのチェーン、首元にも同じように触れて。
 そのまま耳元に滑らせる。
 頬を寄せるようにしながら、名前を呼ぶ。抱きしめられながら。
 「もう一度、オマエのにして欲しいよ」
 
 
 
 
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