ドアが開いた音で、視線を上げた。
現れる長身のオトコ、物騒な大型犬。
喋らなくていい、と手で動作しながら、にこやかなオーラで入ってきた。
にぃっこり、と笑みが浮かんでいた。
もう手順を知っている、ドア、きっちり閉めて、カツカツ、と近寄る足音。
瞬きで、合図。
来てくれてアリガトウ―――今までの、コトバ。

「惚れ直した、」
柔らかい低い声が、耳に心地良い。
僅かに身体をずらす。
ウッドのフロアにいつまでも寝ている場合じゃないけれど。
「コォザ、」
かすれまくった声で呼ぶと。
ぴくん、と耳が跳ね上がり、尻尾、左右にブンブン、って気配。
それでもオトコが浮べるのは、どこか上品、僅かに甘い微笑み。

バレエの神様、芸術の女神様。
先ほどまで、あんなに夢中で交わっていたのに。
すぅ、と僅かに冷えた気配を底に湛えたオトコの存在感が、それをすべて過去のものにしていく。
今日は、あと、オマエと交わるんだよな?
甘えた笑みが、勝手に口端に上ったのが解る。
ああ、ウッドのフロアはもうイイ。
オマエの腕、寄越してくれ。

すい、と身体が折られて、頬に口付け。
昨日の夜から、オレとこのオトコの関係は"偽装契約アイジン"から"コイビト"に切り替わった。
その前から、このオトコの腕で休める最終日を、実はどっかで心待ちにしてた、ってバラしたら。
未だダチの関係を棄ててない優しい甘やかしは、どうしやがるかな?

「起こせ、」
囁きを落とす。
すい、と引き上げられた。
間近に、笑みを佩いたオトコの顔。
ハンサムな年下のオトコ。
いつ、惚れたんだろうなァ?オトウトのキョウダイに。

「雪の変わりにユリで。岩の変わりにフロアか、」
落とされた言葉に、有名な一説を思い出した。
一瞬のフラッシュバック、ヴェイルの雪景色に囲まれて読んだペーパバック。
"Snows of Kilimanjaro"。
ヘミングウェイ、ねえ?文学ショウネンだったのかオマエ。

笑み、深めてみた。
いつもならここで、水、って言うところだけれど。
今日は。今日だからこそ?
求めるものを変えてみる。
「キス、」
キスしろ、コーザ。

「セト、あンたがキレイないき物なのはわかるけど。まるっきり、頂上に顔向けて倒れてる豹みたいだねェ?」
柔らかなトーン、くたびれた身体に染み込む甘い声。
落とされた囁き、
「生き返れな?」
そして続く口付け。

甘い濡れた熱を貪る。
水の変わりに、啜り上げる。
アタリマエだ、まだオマエとすることがある。
死んでる場合じゃない。
乾燥して凍り付く前に、潤して暖めろよ、なぁ?
溜め息を、零して口付けを解いた。

化粧を落として、シャワー浴びてェ。
ンでもって―――ー
「面白い味がした、」
間近で笑う声に意識を戻す。
ファンデーションか口紅。
シャーロットに最初に勧められたランコム、だっけか?
あーわかんねー、化粧品ナンテ。
けど。オレからはハジメテかもしんねーけど、味はハジメテじゃねェだろう?
ぺろ、と唇を舐められて笑った。
「コォザ」
オトコの名前を口にする。
「んー・・・、あぁ、ちょいとドーランかなんか混ざってンだね、」
のんびりとした声。
ああ、そうだドーラン、混ぜた、確かに。
だから――――
「はやく落とせよ、」

「…引き上げろ、」
笑った眼を見つめ返す。
「で、水、飲ませて」
あああ、筋肉が叫んでる。
渇いている、乾いちまう。
水、雪じゃ代用は効かないんだよな、そう脳裏に浮かんだ屍骸に語りかける。
ケド、オレはオマエにならない、なぜならオレには――――
「もちろん、」
甘い声、宥めるようなトーンが耳から染み込む。
今オレを確実に生に引き留めるオトコのもの。
「頼む、」
笑って頷いた。
知ってるか、コーザ?
オレの仮死状態のカラダを預けられるのはな、オマエだけなんだぞ?



あ、ヤバイ。いま、一瞬。
眩暈がした。この瀕死の振りをした生き物は、ぎょっとする正確さでおれの弱点を突いてくる。
ふんわりと角の取れた笑みを浮かべて、見つめられた。
あー、あ。
頼まれちまったよ。
奇跡じみたバランスと、想像したくもない鍛錬で出来上がったフタツトナイモノ。
至上のもの、それを預けられちまった。

好きな演目だ、と。言っていた。
確か最初に観に来いと誘われた時も「海賊」を踊っていたんだった。
おれは批評家でもないから、感じるままに思うだけで。「イイ」「悪い」ではなく、「美しかったか」「否か」。
ミューズに愛されたものがいま目の前で愉しんでいる、その感情は多分、きょう観客席にいただれもが感じ取ったものだろう。
踊ることが至上、と言い切るから、ますます惚れるわけだ、おれはこの生き物に。

とんでもない預かり物を腕に抱いて、引き起こす。
ミラー横に適温に冷やしてある水、腕を伸ばしただけで捕まえられる程度には、おれも慣れているわけか。
柔らかな重みを預けられ、勝手に笑みが上った。
さて。
アイジン遊びのころは、胸に抱いたままで水を渡していた。
となると、立場が昇格した今は。
大人しくイスの立場にいる必要はねェよな?まあ、キモチが良いから預かりモノは手放す気はゼロだけれども。

「セト、」
「なー?」
柔らかな金色、髪の間にハナサキを埋めて耳もとに唇で触れる。
すこし返事にわらった。
1音で伸ばすのと、2音にするのと。あンたの中ではいまじゃそれさえ重要事項なんだ。
御疲れサマ。
確かに、何かを容に変えて、あの場にいた全員があンたの視線一つで震えていたのをおれは知ってる。

「はい、ドウゾ」
顔の前に、薄いガラスに注いだ水を擡げる。
囁き声が返される。
「ん?」
「あまやかせ、」
「あー、微妙なんだよ、セト」
正直に直球で。
「あまやかしたら。この場であンたのこと襲いそう」
冗談めかして返しても。
「四の五の言うな、」
王子様が笑って言った。
あーあ、セート。
飛んで火にいる瀕死の豹、じゃねえの。




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