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 得難い瞬間というものがあるなら、いま、この時間のことをいうのだろうと。セトを見上げて思っていた。
 頬に落ちてきた涙のかすかに、肌に弾むようにしてはじけていった瞬間であるとか。
 染透るように記憶に仕舞い込まれて行った言葉が齎された時間、そういったすべてが。
 セトの浮かべた表情のどれひとつをとっても、響いてこないものなど皆無で。
 幸せだから泣くのだと言っていた。
 ほんのわずか、戸惑ったようにそれでも瞳が揺れて、ゆっくりと笑みを刻んでいっていた。
 涙の味、それが「あまい」など。
 知らなかった。
 
 セト、あンたを通してならきっとさ?
 おれが偶に覗く、半歩先の深い裂け目だとかちょっとばかりどこかを磨耗させるようなコトも、少しはその冷たさを
 減らすのかもしれないね。
 ただ、まあ。
 この瞬間を覚えていられたなら、どうとでもなるだろう。
 誓ったから?誠心誠意、これほどまでにない真剣さで、それこそタマシイを引っくり返して残っていた真摯、って
 ヤツを探して集めて。
 紛うことなく、ぜんぶがホンモノ。
 
 クリスタルに、黄金の粒を閉じ込めたみたいに。セトが寄越した言葉はぜんぶがどれも。掌の中に納まった気がした。
 セト、なんどでも。おれは自分の中で誓うと思うよ。多分、あンたの笑い顔をみるたびにさ…?
 「セート、」
 「ん…?」
 ちゅ、と眦あたり、まだかすかに涙の名残りを感じさせる火照った肌に唇で触れる。
 ぱちぱち、と何度か瞬きし、そして笑みを作っていっていた。
 「―――ありがとう、」
 唐突?しょうがない、他に表わしようがない。
 「…うん、」
 柔らかい音色に、どうしようもなく気分が良い。
 両腕をまわされて、抱きしめられた。
 
 頬に口付けを落として、ゆっくりと、指にさらさらと絡みつく黄金色をくしゃりと握る。
 それから、抱きしめ返した。
 さらり、と頬あたりを髪がくすぐっていって。首筋に顔を埋められた。
 背中を一層に引き寄せて、鼓動を重ねるようにし。髪に口付けた。
 「起きるか?」
 「うん」
 
 
 
 離れがたい、できればずっと腕の中にいたい。
 ニオイに包まれて、熱に抱かれて。
 けれど、時間は流れるもので。
 
 身体が、先に騒ぎ出していた。
 しなければいけないことがある、と。
 ダンサーとしてのオレをもスキになってくれたというから。
 甘い感情に流されるわけにはいかない。
 
 ソファから身体を起こして、柔らかな笑みを交わした。
 キスしたいな、と思いながら、そのキモチを飲み込んで。
 なんだか、やっぱり。
 ティーンエイジャの頃より恐ろしく純粋なキモチで恋しているのだと思った。
 
 目を閉じて、立ち上がろうとした瞬間に、コーザに口付けられた。
 とん、と優しく。
 笑って立ちあがった。
 甘酸っぱい、とすら思えない程に、さらさらと甘い感情。
 
 わざとク、と伸びをしてから、リヴィングを見渡した。
 低いガラスのローテーブル。
 それをどかしたら、充分に場所が取れるかな?
 「コーザ、手を貸して?」
 テーブルを指で指し示す。
 「オーケイ、」
 する、と立ちあがったオトコに、サンクス、と笑いかけた。
 一緒にガラステーブルをどけて、リヴィングに広い空間を作った。
 
 「窓のあたり、全然ひろいのになんでココ?」
 「そしたらオマエ、ソファに寝転がって見てられるだろ?」
 手でひらひら、と示しながら、にこ、と笑ったコーザに肩を竦める。
 「なるほどね、」
 ちゅ、とキスを貰って、くすぐったくて笑った。
 あーあ、ガキンチョの恋みたいだ。
 
 「あ、オレの鞄ってここにあるのかな?」
 「あ?あー、クロゼットのなか」
 「音、かけてイイ?」
 「ドウゾ」
 「それと、」
 クローゼットに向かいながら声を出す。
 「ン?」
 「プールもジムも、今日は用が無いから。今更だけど、キャンセルしといて」
 に、と笑う。
 「フフン」
 にぃ、と威張った風に笑った。
 あ、なンだよ、もう手配済み?
 「ランチのときにね、ついでに伝えといた」
 …はっはー!!やってくれるね、オマエ。
 
 「褒めろ」
 ふざけた口調、きらっと光るキャッツアイ。
 チュ、と音を立ててキスを送る真似。
 「Sugar, you're wonderful!」
 オマエってば、サイコウ!
 
 笑ったままクローゼットから荷物を取り出した。
 中にいつも入れっぱなしのCDプレーヤ、そしてCDケース。
 練習の時に使うものの中から1枚選んだ。
 ピアノ曲を集めたもの、ショパンがメインで入ってるヤツ。
 ステレオにセットして。
 
 タオルを一枚、側に用意した。
 着ているものは、Tシャツにスウェットのボトムだから、着替える必要はないか。
 足、下はカーペットだし。
 裸足でいっか、ストレッチだけだしな。
 
 「ダーリン、オマエどうしてる?」
 広いカーペットの真ん中に立って、コーザを見遣った。
 ソファにすとん、と腰を下ろし、半分ねっころがっているところだった。
 「豹の観察。生ディスカバリー・チャンネル。」
 にこっとコーザが笑った。
 「退屈したら、全部に付き合うことないからな」
 笑ってすい、と身体を伸ばした。
 足、爪先からゆっくりと天に向かって指先まで伸び上がる。
 時間をかけて、ゆっくりと。
 
 「退屈したら、どうしろって?」
 「寝ててもいいし、本読むとか。多分、オレ、意識半分くらいシャットオフしてるから」
 両手をサイドに伸ばして、ピン、と指先まで線を通す。
 「ふうん、」
 すこし暢気に言ったオトコに笑いかける。
 「個人的には、」
 首、軽く回して。両手首、両足首も回して解す。
 「オレが見える範囲内で、優雅に酒でも啜っててくれたら嬉しいけどな」
 
 「退屈するはず、ないだろ」
 そう言ったコーザが、すう、と目元で笑った。
 どうかな?魅せるための運動じゃないからねえ。
 ま、うん。退屈しないっていうんなら。
 「じゃ、のんびりしててな」
 オマエにだったら、ずっと見られているの、気にならないから。
 
 
 
 
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