― アフター後・オテル・オクシデンタル・ミゲル・アンヘル ―

どさ、とキングサイズのベッドの上に身体を投げ出し、目を瞑った。
アフターに出席する為にシャワーと着替えに戻った時には部屋に無かった青い薔薇のアレンジメント。それはスパニッシュ・モダンな部屋を随分と明るく彩っていたけれども。

「――――なんでいないんだよ、コーザ」
さらさらと髪や背中を撫でてくれる、あの大きな掌が恋しい。
柔らかく名前を呼んでくれるあの声が聴きたい。
「……ちぇ、」
薔薇のアレンジじゃちっとも心躍らない―――心を尽くしてくれているのは嬉しいけれども。花じゃ恋人の代わりにはならない―――だから、少しの間、見たくなかった。

どうやら自分はサミシイサミシイ病にかかってしまったらしい―――しかも重度の。こんな酷いのは、親元を離れて寄宿学校に入ってからでさえ罹患していない。
それだけコーザという一人の人間を愛しているということだと解ってはいるけれども……。

携帯電話を取り出し、録音されていたメッセージを聞く。
『セート?デンワありがとう、ミューズには会えたかな。セトの笑い顔が見られないのはやっぱりツライけどそれより、力出し切ったあンたを抱き締められないのが一番悔しいかな。あいしてるよ、お疲れ様。またあとからデンワ入れる』

アフターに出る前に、ジェンが運転する車の中で一度かけた時にも留守番電話だった。
機械的なメッセージの後に、自分的には“失敗”だった舞台のことや、どんなにコーザに会いたいか伝えたかったけれども―――それを声にしたら泣いてしまいそうで、結局止めた。

アフターに出席し。関係者の人には重いディナーを、自分たちダンサァには軽いサパーが供され。方々から声をかけられ、ジェンに通訳してもらいながらその場を切り抜け。
2次会が始まる前に、ホテルに戻ってきた。
その間に新たな着信はなく―――もうすぐ日付変更目前だ。

アフアーでは散々賛美された―――共演したダンサァたちには、ドゥエンデが降りたあの十数分の時間のことを、見守っていた関係者たちには傍から見ていた感想を。
一様に“素晴らしかった”と絶賛されてしまった―――溜め息が出る。

ミューズたちと交歓した後であれば、どんな賛辞も嬉しいものだけれども―――ドゥエンデ、あれに呑まれている間は音とリズムと踊りが感覚の総てになっていて、自分がどんな踊りを披露したのか客観的に判断できる材料が“記憶に無い”のだからタチが悪い。最も、時間が経ち、ダンサァたちと言葉を交わしている間に、どんな風に踊ったか追憶されていったけれども。

「―――――くそぅ」
ほぼ全員にエクスタティックな経験だったと言われた。ドゥエンデに呑まれたことは、ジェンの言った通り彼らにとってプラスだったのかもしれない―――今の所は。
ただ自力であの高みまで登れなければ、後で苦しむだろうことは予想できる。恋人と最高のセックスをした時の恍惚感と同レベルの感覚の高揚感だから―――彼らは一生、あの感覚を追いかけて踊り続けなければならない―――ダンサァに齎される祝福と同じだけの呪い。
魔の来訪が吉とでるか凶とでるか―――それはセトの手から離れたことだけれども、できれば彼ら自身が自力でミューズと交歓してほしかった。もちろん、彼らはNBSの選ばれたダンサァたちであるのだから、充分に素質はあるのだろうけれども……。

疲労した身体は、踊りきったことを覚えている―――けれど、セト自身にとっては、ドゥエンデとの対峙はエクスタティックなものではなかった。ポーズから入ってあとは一直線、長い曲がほんの一瞬に思えるくらいの没頭具合だったから、魔にあの時間をごっそりと持っていかれた気分だった。だから喜ばしいどころか哀しくさえある。

溜め息を吐いて、しばらく頭を休めることにする。
過ぎてしまったことについてだらだらと考え続けるのは好きじゃない。自分の感覚的に“失敗”したのは取り返しのつきようもないけれども、今のところ他のダンサァたちにとってはマイナスでなく、興行的にも成功だったというのなら、今なにを悩んだところで仕方が無い。
後日公演の生ヴィデオをダビングして送ってもらう手筈になっているから、その時にまた悩もう。
ひとまずは身体も頭も休めて気分を入れ替えないと、これ以上どこへも進めなくなりそうで怖い。

持ったままの携帯電話にコールをかける―――すぐに留守番電話に繋がった。まだまだ仕事中らしい。
「―――コォザ、会いたいぞー…」
溜め息を吐くように本音を吹き込んで、メッセージは登録せずに通話を切った。
一つ深い息を吐いて、再度コールする。

もう一度、留守録に繋がった。
「コォザ、仕事お疲れ様。オレはアフターに出て帰ってきたところ。もうちょっとで寝る。今日の出来は―――帰ったら話す。ちょっと今は感想どころじゃない」
こほん、と咳を入れて、少し揺れてしまった声を立て直す。
「コーザ、花、今日もアリガトな。でも花も果物ももういいよ。オマエに会いたい―――あと残り5日?長いナァ……あー、ダメダ。頭揺れてきた。もう寝るから、オヤスミ。愛してるよ。明日起きたら一応コール入れる。Good night, darling」

メッセージを録音させてから、布団の中にもぞもぞと潜り込んだ。
目を瞑ったら、ラヴェルのあの単独音から次第に膨れ上がっていくオーケストラの音が耳元で聴こえた。単調なリズムに乗って繰り出されるシンプルなフレーズ、ダイナミズムを次第に帯びてクライマックスへと駆け上る――――取り込まれやすい曲といえなくもない。
きっと、多分。今日という日をもう一度やり直せたとしても―――いまの状態じゃあ結局はドゥエンデに捕まっていたのだろうと思う。
いつの間に、自分がこんな寂しがりやになったのかは知らないけれども、もう少し自分を鍛えなければいけない、と思う。
こういう生活を選んだのは自分なのだから―――もっとちゃんとしなければ……。


 ― A Day Passed ―

朝8時に起きて、コーザに電話をしてみた。相変わらず忙しいのか、また留守番電話に繋がり。一日の予定を一応吹き込んでおく。
シャワーを浴びて、服を着替えて。部屋の電話機で起きていることを確認してきたジェンを呼び寄せて、部屋でブレックファーストを取った。

9時になって、インタビューを受けるために別のホテルに赴く。2時間ほど話しをしてから、プラザ・マヨールの方へ写真撮影のために流れ。市内の教会などを2時間ほどかけて回りながら、話しをしつつ写真を取られていく。
1時半に予約の入っていたレストランに入って長い食事をインタビューのスタッフたちと取る。
4時に帰ってきて、電話の着信を調べるけれど。スケジュールを考慮してくれたのか、本人も酷く忙しいのか、履歴にはなにも残っていなかった。
シャワーを浴びて、着替えて。
2時間ほどホテルの部屋で集中してストレッチをして。
それからまたシャワーを浴びて、着替えて。

7時に、公演で一緒だったダンサァやスタッフたち全員と待ち合わせて、貸し切りにされていたタブラオで長いディナーになった。
それが自分やリリアンといった海外からの踊り手たちに対する感謝なのか、それとも全員がそもそも踊りというものが好きだから選ばれた場所なのか。プロのダンサァたちがプロのミュージシャンたちと出会えば、ディナーとは言え誰もがパルマを打ち、足を踏み鳴らして、思い思いに飛び出して踊り出す。
演目は、よりクラシック・テイストを省いたドン・キホーテの中からの2幕と、セビーリャ・デ・アルベニス、そしてボレロだったから、NSBに所属していない人も含めフラメンコに誰もが親しんでいて。お酒を呑まないダンサァたちも、結局はリズムと音と掛け声に抗いきれず、開けられていたステージに飛び出しては踊っていた。
誘われてアレグリアを踊れば、事情を話してあったディレクターを除く全員にびっくりした目で見詰められた―――実は小さい頃に、アントワンの仕事の関係で招かれていたヒターノの踊り手たちに一度だけ、短い期間だったけれどもかなりみっちりと教わったことをバラせば、ぜひセビーリャのほうのタブラオにも踊りにいけ、と言われて苦笑した。その内機会があれば、バレエ化したフラメンコではなく本物を見に行く、と告げれば。ついでだから踊りを覚えてくればいい、と言われた。かなり筋がいいらしい。踵にちゃんと釘を打ったのを買ってきなさいね、との笑い交じりの命令付きで。

カンパニーリーダには、ロンドンに飽きたらいつでもマドリーに移籍してくればいい、と言われたけれども、それは丁重にお断りしておいた。
ロンドンに飽きたら、確実に戻るのは本国だから―――そう告げたらとても残念な顔をされたけれども。最愛の恋人を選ぶに決まっているのだから、しょうがない。どの道自分が踊りたいのは、フラメンコではなくてバレエなのだし。

いろんな人からのいろんな誘いを断って、日付が変わる前にホテルに戻ってきたら。
またメッセージが残されていた。折り返し電話をしてみたけれども、やっぱり恋人は捕まらず。おやすみ、と、あいしてる、のメッセージを吹き込んでメッセージの録音を終了させた。
表層では寂しさはナリを潜めていたけれども―――代わりに腹の底のほうでマグマの吹き溜まりのようにグツグツいい始めたことに気付いた。
そろそろ本格的にヤバいのかもしれない。


 ― Two Days Since ―

朝、寝起きの状態のまま電話をしてみた。
やっぱり繋がらない。
諦めて、オハヨウのメッセージをいれて、一日のスケジュールを吹き込む。
ジェンの部屋に電話を入れて、二人で朝ご飯を済ませ。2時間ばかりストレッチをしてから、友人のところに泊り込んでいるリリアンと待ち合わせ。先にランチを軽く食べてから、テレビ局に行く。
今日は夕方まで二人でゲスト出演だ。生番組で、踊りはない。過去のヴィデオを流しながらのトーク番組だった。近々、先日の公演の編集されたものが放映されるからなのだろう。

夕方。
リリアンと別れてから、ジェンにお願いして日にちを早めて貰える様手筈を整えてもらったインタビューを済ませる。こっちは先日とは別の雑誌だ。
インタビューを3日後から今日に移してもらったことの理由を訊かれた―――素直に、どうしても家に戻らなければならなくなった、と言っておいた。恋人に早く会うため、とは言わずにおいたけれども、本当はそれだけが理由だ。
仕事帰り、プライベートでディナーでも?とインタビュアの女性とフォトグラファの男性に別々に誘われたけれども、丁重にお断りしておいた―――ジェンが待っているし。早く帰りたいし。

帰りがてら、レストランで晩御飯を食べる。またメッセージでしか繋がらなかった恋人に、早く帰る旨を告げようか告げまいか迷って―――黙っていることにした。気を使わせたら悪いし、それにいきなり飛びついてびっくりさせたいし。
そんなことをジェンに言ったら、腹を減らした豹みたいな顔つきになってる、と笑われた。
“目がきらきらとしていて、少し好戦的。”なるほど、インタビュアが最初に会ったときに“印象が変わった”などと言ってきたワケだ―――ってことは、このカオが表紙になっちゃうワケ?……失敗したかも。

「インタビュアもフォトグラファも、セトに気があったね」
ジェンに言われて両肩を竦めた。
「昨日も一昨日もいろんな人に誘われた。店員含め男女問わず」
「セトの心は揺らがないね」
くすくすと笑って、災難だったね、と言ってくれたジェンに、溜め息交じりの笑みを返す。
「誘われるたびに、なんでアイツがいないんだろう、なんでアイツじゃないんだろうって思うよ、本当に」
くすくすとジェンがさらに笑う。
「“なんでアイツじゃなきゃダメなんだろう”って思わないところがセトらしいよね」
「そー?だって、アイツは世界でたった一人じゃん。アイツじゃなきゃダメなのは当たり前デショ、アイツに恋したんだから」
「セトは絶対に浮気しないタイプだよね」
ヴィールをワインで煮込んだものを食べながらジェンが言った。

「浮気、ねえ…?」
魚介類のスープを食べながら考える。
「……アイツじゃなきゃ満たされないのが解ってるのに、他に手を出す心理がワカラナイ。素直にアイツのこと考えながら、かかってこない電話かかえて布団潜ってるほうがマシ」
ジェンだって浮気しないでしょ、と言えば。アタシは不器用だから、とにっこり笑顔付きで返される。
「要するに、オレもジェンも一番欲しいもの、一番大切なものが解る人間だってことだよね。アイツの代わりなんて、いないんだからサ。クライドくんだってそうでしょ?」
訊けばあっさりと返された。
「あんなバカ、探したってそうそう居ませんから」
にこにこ笑顔が素直で可愛らしい。

「ねーえ、ジェン。オレさ、ルーに電話して迎え寄越してもらうからサ。ジェンはクライドくんのトコへ飛んじゃいなよ」
今どこ?と訊けば、メキシコ、と告げられる。
「だからセトをLaxまで送って、そっからトランジットする」
「わかった。じゃあLaxで別れるまで一緒だね。結構スペイン、長かったねえ!」
「セトのスペイン語も少し上達したよ」
「うーん、最近イタリア語と交じってきた」

くすくすと笑いあって、食事を終える。
食後に店のオーナに頼まれて、プライベートの空間にしか飾らない、という約束を取り付けて写真に一度だけ収まった。
なぜかワインを1本お土産で持たせてくれたので、ジェンに手渡した。この店を選んで入ったのはジェンのチョイスだし。

ホテルに戻って、携帯に入っていたメッセージをきく。
コーザはまだまだ仕事が大変そうなカンジだ。今日も遅くまで帰れないらしい―――溜め息。
シャワーを浴びて一息吐いて。ぼんやりと部屋に届けられていた新聞などを見る―――公演のクリティックにさっと目を通して、寝る前のカモミールティーを飲んで。ベッドに入ってから電話をかける―――やっぱりダメか。
「ダーリン、そんな仕事きつくて平気?もう直ぐで会えるのに、すっげえ待ち切れないヨ……せめて夢で会えるかな。おやすみ、コーザ。愛してるヨ」

メッセージを吹き込んでから、枕に顔を埋めた。
ぼんやりと短いクリティックに書かれていたことを思い出す―――『誘惑的な“ドゥエンデ”のエロティシズム溢れるバレエ。蠱惑的かつエレガントなセト・ブロゥの確かな技術と演技力によって、新たなナシォナル・バレエ・デスパーニャの“ボレロ”の解釈がその振り付けによって裏付けられた―――それは苦悶と歓喜を取り混ぜた恍惚の世界を開き、群舞へと展開した後の一体感が更なる高みへの挑戦を生み出した。同じだけの表現をできるダンサァを今後NBSが揃えられるかが楽しみである』
――――自分が納得できない踊りならば、それは“失敗”なのに。こうも周りからベタ褒めされると、哀しくなるよなぁ…。

溜め息を吐いて、頭からクリティックのことを放り出した。
忙しく働いているだろう恋人のことを想う―――今、どんな仕事をしているのだろう?危険な目にあってないかな……?早く抱き締めて、間近で笑顔がみたい。言葉を交わして、口付けて……。
――――コーザの、なにもかもが足りない。声も、腕も、眼差しも。煙草と香水の交じった匂いも、なにもかも……。
とくん、と寂しさと一緒に、焦燥じみた飢餓感を自覚した。ベターハーフ、側にいないことが空ろとなって感じられて、早くそこを満たして欲しいと願っている。不在を埋め尽くすだけの濃密な時間が欲しいと感じている。コーザに溺れたい、なにもかも放り出して……。

じわ、と。泣きそうになって、唇を噛んだ。
コーザに会えなくなってから、どんどん脆くなっている自分が歯痒い。むしろ悔しい。セト・ブロゥという人間はこんな人間じゃなかった筈だ。

「……くそ、」
子供みたいに寂しがっている自分がちっぽけで情けなく感じて、枕を抱き締めてうつ伏せになる。
ふ、と。たった1時間の不在のあとでも、ゾロが出現すれば喜び勇んで、ぴょい、と飛び付いていこうとする弟のことを思い出した。
―――そういえば公演中、一度もサンジや家族のことを考えなかった……。
いつの間にか恋人の存在が自分の中で不動の一番になっていたことに、改めて落ちた恋の深さに気付く。
もしバレエが踊れなくなっても、恋人が側にいる限り耐えられるとは思うけれど。恋人がいなくなったら、きっとバレエを踊る意味も無くなる―――それが事実、なのだろう。
ミューズとは別れられても、コーザとは別れられない。
今更な事実を噛み締めて、意識を眠りに手放した。
―――恋人の夢は、見れなかった。




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