通話を切って、視線を上げれば。聞いていないフリをしてノートパソコンで作業をしているライタと。
あーらら、とでも言いたそうなジェンがトレイを持って立っていた。ルームサービスが届いていたようだ。
「ベン、お待たせ。ジェン、ありがと。自分の分はなにか頼んだ?」
ジェンがテーブルに品物を置いていく。ペットボトルに入った水とグラス、青いリンゴと赤いリンゴに姫林檎が乗った皿は
セトの前に。ライタの前にはコーヒーのポットに新しいカップ、そして野菜のサンドウィッチの皿が置かれる。
使用済みのグラス等を片付けながらジェンが片眉を引き上げた。
「ケーキセットじゃなくてスコーンと紅茶。生クリームじゃなくてクロッテッドクリームにすればよかった」
「どっちでもおいしいよ?」
「知ってる。あーあ、アタシもラブコールしようかなぁ」
ひらひらと手振ったジェンが、トレイを持って戻っていった。
闇灰色の目を面白そうに煌めかせ、ライタが笑う。
「オマエもする?」
「ラブコールですか?今は遠慮しておきましょう」
「することないのに」
「オフレコは多めですが一応仕事の内ですから」
「ん、だね。でも休憩しよ。オマエもパンが渇く前に食べなよ」
ティータイムだからさ、と言えば。男は笑って頷いた。
「セトは12の時からイギリスにお住まいなんですよね」
「うん。寄宿舎入ってバレエ中心で生活してきた。だから結構アクセントもこっち交じり」
かしっと音を立てて赤いリンゴに噛りつく。甘酸っぱい味が匂いと共に広がるのを楽しむ。
「その間もマッキンリィ氏とはずっと?」
「アンドリュウ?帰省する度に会ってたよ。毎年オレのポートレート撮るのが6歳の時からの約束だから」
男がコーヒーをカップに注ぐのを見つめながら答える。
「あいつもバレエスクールに入ってたんだよ。知ってる?」
「それは初耳です」
「うん。ママに連れてこられてすげぇ嫌そうだったから、帰れって怒鳴り付けた」
ひゃあひゃあとセトが笑って、またリンゴを噛る。
「お幾つの時でした?」
「5歳。あいつも負けず嫌いだから一年一緒に頑張ったんだけどね。あいつは踊るより、写真が撮りたいって言い出して
辞めたんだ」
「貴方を撮るためだ、とマッキンリィ氏はおっしゃってますよね」
やっぱり予習はばっちりしてきてるね、と内心思いながら頷く。
「なんかねー。あいつはさ、最初オレのことオンナノコだと思ったんだよね。怒鳴り付けた次の瞬間にプロポーズされたし」
「きれいなお子さんでいらしたのでしょう?」
「そうらしいね。いい意味でも悪い意味でも、視線は常に付き纏ってた。だからアントワンがああいう訓示を早い内からオレに
する羽目になったわけだけど」
人間中身なくして何の意味がある!とアントワンの口まねをすれば、男はくっくと笑って、アントワン氏も見栄えのする方です
からそれなりの経験をお持ちなのでしょう、と穏やかに告げた。
「まあね。以外と手堅い好みの人だしね」
「それでプロポーズの後はどうなったんですか?」
男がサンドウィッチを摘みながらきいてきた。
「うん。ぶっ飛ばして罵倒したおして、先生が卒倒した」
かしっとまたリンゴを噛る。
「見たかったですね」
男が更に低く笑う。
「でもさ、鼻血垂らしながらぼうっと見つめてさ、”ぼくのミューズだ”って確信する五歳児ってどうよ?ミューズだよ?
せめてマルスとか、女神でもワルキューレとか、なんだったらアルテミスでも許したかもしれないけどさ…呆れるだろ?」
「ファム・ファタールと呼ばれなかっただけ許せたかと」
「そのジョーク、オモシロクナイ」
「失礼しました」
「あれ以来親友だからなぁ、運命って括られるのもしょーがないけどね。ちなみにあいつはシャーリィも口説いたんだぜ?」
「写真で伺うかぎり、マダム・ラクロワに似ていらっしゃいますね」
「レッスンが終わって迎えにきたところで、”ぼくの二人目のミューズ!”ってさ。バカ丸出し」
「微笑ましいエピソードではありますが」
コーヒーのカップを傾けながら男が笑った。
「まあね。けどシャーリィに”そんなに簡単に決めてしまっては駄目よ”って言われて以来、三人目を求め続ける美のハンター
になっちまったわけだけど」
しゃく、とリンゴを噛れば、それもマッキンリィ氏にとっては運命なのかもしれませんね、と柔らかに言う男の声が響いた。
「憶測ですが、マッキンリィ氏が腕の良いカメラマンになられたのは、セトの影響が大きかったかもしれませんね」
「努力せずにいつまでもぐずぐずと底辺をさ迷うような人間とは早々に縁を切ってるよ」
言い切ったセトに、男がふわりと笑った。
「手厳しいですね」
「親友と呼ぶからには、半端な馴れ合いはしない。あいつだって中身に成長がないオレだったらさっさと見限ってるだろ」
オマエだってそうだろ、と問われ、男は小さく苦笑した。
「確かに、中身が在ってこその付き合いではありますね」
「けどまあ他人だったらさっさと見限るところでも、親友なら期待して長く待てることは確かだね。それに他人の成長は結果と
して目に映るだけだけど、親友のそれならば喜ばしい。そして自分も同じ期待を相手に持たれているだろうから、自分も友の
誇りとなれるように頑張る…畑は違っても同じアートフィールドにいるからこそ、互いの成長には厳しくなりがちだけど。その分、
互いの成功は喜ばしいよ」
「昔からそういう関係なんですか?」
「そうだね。それはきっと、最初に同じ土俵で競っていたから生まれた関係かもしれないけど」
リンゴを食べ終え、手をナフキンで拭ってから水を飲む。いつの間にサンドウィッチを食べ終えていたのか、ライタも手を
ナフキンで拭い、コーヒーを飲んでいた。かちゃ、と陶器が打ち合う微かな音がする。
「マッキンリィ氏は近年のセトの変わり具合について、なんとおっしゃっていましたか?」
「アンドリュウ?−−−男が大本命っていうのがいまだに驚く、とは言ってるけど。オレが無理なく幸せそうで良かったって。
被写体としては、いまならインキュバスでもサキュバスでも演じられそうだって言われるね」
「セトの持つ魅力というのは、決してフェミニンなものではありませんよね」
真っ直ぐに男が見詰めてくるのに、セトが首を僅かに傾けて見詰め返す。
「中性的な顔貌だからね、もともと。マネキン顔とかビスクドール顔とも言われるなぁ。どっちも多分表現できるだろうけど、
性格が悪ガキだから」
すい、と頬に手を添える。そのまま口端をゆっくりと引き上げた。
「トランスジェンダーなイメージを提示したことがないんだな。求められているのは”王子”だから、その必要もなかったしね」
「性差をどのように区別しています?」
「そこが難しいんだよね、この時代だから。ただオレは古典バレエの演目を中心に踊っているから、演じるならおしとやかさで
女性を、力強さで男性を演じ分けるけど…女性を演じたことがないし、女性のパートを踊りたいと思ったこともないから、もし
やるとすれば細かい仕種は相当練習しないと自然には見えないだろうね」
「セトが演じるキャラクタは、比較的真っすぐなものが多いですよね」
「ロマンティック・バレエだからねぇ……古典を新解釈でやるのなら、もうすこしキャラクタの幅が広がるけど、オレの居る
カンパニはそうじゃないからさ。いかに伝統的な解釈で踊るかを大切にしているところだし」
なるほど、と男が低い声で同意した。
「新しい表現をしてみたいですか?」
「うーん、そうだね…後2〜3年でカンパニを移ってもいいかも、と思ってはいるよ。いままでは王子をメインで踊ってきたから、
そろそろ悪魔とか踊りたいかも。あとはフラメンコ・バレエとかね。スクールに居た頃はモダンもロックも踊ってたからねぇ、
いろいろやりたい気持ちはあるよ。ソロも含めて」
でも踊り以外でなにかを表現するつもりはない、と付け足す。
「歌や演技には興味は無いですか」
「無いねー。せいぜい親友の練習台としてモデルになるくらいだね。やっぱりオレは踊って表現することに魅力を感じてる
からさ、他は意味が無い」
きっぱりと言い切ったセトに、男はゆっくりと頷いた。
「では、踊りとはセトにとってなんですか?」
「今更な質問だね、バラード?」
にぃ、とセトは口端を引き上げた。
「”彼”と出会って、その意味が変わったかもしれないと思いまして」
「じゃあオマエにとって書くこととはなに、ベン?」
両手を組んで顎を乗せ、男を見遣る。するりと金のブレスレットが腕を滑った。
男が僅かに笑ってさらりと答えてきた。
「他人と自分と世界を繋ぐ術ですね」
「んん、納得。オマエってば、かぁなり世間を信用してないだろ」
「ええ、その通りです。実は物凄く石橋を叩いて渡るタイプなんです」
男が苦笑する。
「色々な人間と接して様々な面を見知ることで漸く折り合いを付けています」
「うん、”ベックマン”の文章を読んでると厳しいもんな。けど、まだ絶望しきってないのも解る。物書きとしてはいい位置だな」
真っ直ぐに男の闇灰色を見詰めれば、くうっと口端を引き上げてライタが笑った。セトもふわりと微笑む。
「−−−うん、良い顔。オマエも親友に撮って貰えよ」
「プライベートではよく撮られてますよ?」
「オマエならモデルでもいけそう」
にひゃ、と笑えば、男がやんわりと否定した。
「顔が変に売れると仕事がしづらいので」
あぁ、それもそうか、とセトが笑う。
「じゃあ今度はオレが答える番な。オレにとって踊りっていうのは、自分を生かす術だね。人生の統べてじゃないけど、なくては
ならないもの。オレにとっては喋ることや歌うことにイコールするくらい自然なことだね。でもって、踊るなら舞台で踊って人に
楽しんで観てもらいたいし、舞台に立てなくてもきっとこの身体が動く限り踊り続けると思う」
ふんわりと笑って組んでいた両手を解き、ゴールドのバングルを指先でなぞる。
「あいつと愛し合うようになってからは、観る世界が随分と変わったことは事実だけど、でもだからといってバレエへの関心が
薄まったわけじゃなくて。どちらかというと統べてが当たり前のように還元されていくんだ。バレエという要素が根底にあって、
その上でもっと周りを知りたいと思う」
言葉を切って男を見詰めれば、ライタは優しく穏やかな目で見詰め返してきた。
「彼と恋愛してて悪い影響なんか何一つ思い浮かばない。触れ合う時のときめきだとか、愛し合ってる時の感覚の深さだとか、
一緒にいる時に湧きおこる感情の豊かさだとか、離れている時に味わう淋しさや心許なさの全部が、オレの中を揺るがして、
深めて。それが踊っている時に魔法のエッセンスみたいに体中に広がって、舞台で昇華されるんだ」
昔より感情豊かに踊れるようになったよ、そう微笑んで言えば、男は小さく首を傾けた。
「あまり踊りには詳しくないのですが、確かにビデオ等で見比べますと、今のほうがエレガントでより落ち着いていて、それでいて
のびのびと踊っていらっしゃるように見受けられます」
「んん、やっぱり十代の頃のほうが全体的にぴちぴちして粗削りだったね。二十代で漸く細やかな表現ができるようになって
きて。今三十代に入って、全体的に漸く落ち着いてきたところ。私生活もこれ以上はないってくらいに満たされてるしね。
オレの考えとしては、今から四十代までが一番、身体も体力も表現力もバランスよく完成されているんだと思う。いつもベストで
踊る心構えで踊ってきたけどね、やっぱりいまからが踊り手としては本当の勝負だと思う」
「楽しみにこれからは観させていただきますよ」
「うん、一度は来いな」
にこ、とセトが笑えば、勿論です、と男が答えた。
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