「ふぁ、あっちー、」
温室に入るなり、独特の濃い湿度とむっとするような緑の匂いに深い息を吐いた。
着ていたセーターを脱げば、ぴったりとフィットした黒のTシャツにヒップハングデニムとブーツの組み合わせを来たジェンさんが、す、とミネラルボトルの水を手渡してくれた。
「ありがとう」
「タオル、首に巻いておいた方がいいですよ」
簡易テーブルの上を指し示されて頷いた。周りを見渡せば、衣装を着たセト氏以外はほとんど夏服を着ている上に、間近にタオルを下げていた。---水分補給を含めて、自己管理しないと倒れそうだ。

カメラテストはいつの間にか終わっていたらしい、アンドリュウと視線を交わしてセッションをスタートしてもらう。
「随分と男前なサラスヴァティだな?」
くくっとアンドリュウが笑う。
「明らかに男性体なのに女性っぽく見せたらオカマチャンになっちまうだろーが」
にぃ、と牙を剥き出すようにしてセト氏が笑った。まるで野性の豹のような。---そういえばアシスタントくんは、いまみたいなのが一番彼の知っているセト氏の本質に近いとかなんとか言ってたもんな。案外戦闘的なのかもしれない、”王子”でないセト氏は。
「まあ色気は充分にあるけどな。なぁ?」
アンドリュウが斜め後ろに居たアシスタントくんに、面白半分に同意を求めていた。答えようにも彼はセーターを脱いでいる真っ最中で…カーキ色のカットソー姿になった彼はやっぱりモデルみたいな体型をしていた。眼鏡は外したまま?曇るからかな?あ、ほらやっぱり。結構シャープな目をしてるよ、彼。
くすっとセト氏が笑う。
「アプサラの時よりはレベルが上がってると思うぜ」
「おーお、自分で言っちまってやがんの。ピーター!暑さと色気に負けて鼻血出してぶっ倒れるなよ!」
けけけけっとアンドリュウが意地悪く笑う。
「気ィ付けるっす!」
真面目な声でピーターくんが返した。アンドリュウはオヤ?とでもいう具合に片眉を引き上げ、セト氏はくくっと笑って、頑張らなきゃねー、と歌うように言っていた。…案外セト氏は、悪戯者なのか?
アシスタントくんは悪戯っぽく、けれどどこか自慢げに、
「質が違うでショ、センせ」
なぁんて言ってたけどねぇ。---どう違うんだろ?

「まぁずは緑のトコな。足元、気を付けろよ」
明るい光が差し込む濃い緑の中に、白い肌と鮮やかな布が映える。異質な組合せだ、と南国のイメージをよく理解している頭が告げるのに、セト氏はすぅ、と表情を抑え、一瞬で溶け込んだ。立っているのは人ではない存在に見える。
す、とセト氏がポーズを取り。見たことも無い踊りをゆっくりと舞い出した。多分インドとかインドネシアとかタイとかそんな国の踊りを。

 ”バレエが好きで、特にクラシックな演目を好むんですけど。他の踊りも好きなものですから、結構色々やりました。夏休みに父(アントワン)と行った旅行先で、とか。友人の家族に頼んで、とか。機会があればなんだってチャレンジしてみましたよ。だからアジアの踊りも型を知っていたり、中東の踊りもそこそこ踊れたり。社交ダンスは必須科目でしたけど、フラメンコも踊れたりします。ヒップホップもブレイクダンスも噛りましたし、結構踊りに関しては浮気者なんですよ。”---バレエダンス関連の雑誌に掲載されていたセト氏のインタビュウ記事が頭を過ぎった。
目線の先で踊るセト氏は、なんだか楽しそうにステップを踏んでいる。指先一つの形にまで神経を行き届かせ、流す眼差しは澄んでカメラでない何かを見詰め、優雅に、そして精霊かなにかと戯れるように身体を踊りに任せている。
セト氏がゆっくりと回る度に麻の膝下まであるスカートがエレガントなラインを浮かび上がらせ、手をくねらせ、足を踏み鳴らす度に”シャン”と澄んだ金属が触れ合う音が響く。長いプラチナブロンドは空に揺らめき、強い色彩の羽根はセト氏の白い肌の上で弾み。左腕に描かれた鳳凰は、鮮やかな緑の中で生きているかのように舞う。深い緑の中、セト氏の周りだけがキラキラと眩い光を弾いているように見える。

 ”踊ることは神に祈りを捧げる術であり、または生きている喜びや苦しみや愛情を表現する術でもあります。そして人間が磨き上げた、誰にでも、どこででも出来る娯楽の一つでもあり、鑑賞しがいのある芸術の一つです。---オレはパートナと踊るのも好きですが、一人で何も考えずに踊るのも大好きなんですよ。ラナーズハイじゃないですけれど、純粋に踊るという行為に没頭するのが好きなんです。神を降ろすとかそんな崇高な目的は無くて、唯身体が赴くままに踊る。そうすると、踊りの神が一緒に踊ってくれているような気がしてくるんです。女神でも精霊でもいいんですけどね---自己陶酔ってわけではないのですが、踊りに溺れているのは確かです。舞台ではそこまで自我を手放さないようにするのが大変なんですよ。観客に観て貰うために舞台にいるわけですからね。”
---これもバレエ関係の雑誌に載っていたインタビュウ記事だ。いまきっと、セト氏はそんな忘我の境地に達しつつ在る。足場が悪いにも関わらず、足は絶えずリズムを刻み。しゃらしゃらと腕と足のバングルを鳴らしながら、ターンをし続ける。
回るしなやかな身体の上で弾む金色のジェム、空を舞う白い肌の上の鳳凰、色が溶ける程に揺れる長い羽根飾り、ふわりと浮いた長い淡い金の髪…うっとりと目を細めて踊るセト氏の肌は朱く染まり、緩やかに唇は笑みを象り、恍惚とした表情はエクスタティックだ。
夢中で見詰めていれば、す、とセト氏が足を止め。タン、と足で最後のリズムを刻んでからぺたりとひざまずく。ゆっくりと両手を合わせて、すぅ、と息を納めた。半眼のアイスブルゥアイズが誰をも写さないまま、真っ直ぐにカメラを捕らえていた---恐ろしく澄んだ深い眼差し。全てを見通す”神”の眼差し。

誰も言葉をかけられずにいた中、ゆっくりとセト氏の眼差しにいつもの力強い光が戻る。
「あっつー」
 はふっとセト氏が浅く喘いだ。慌ててジェンさんがタオルと薄く色の付いた飲み物をアシスタントくんに手渡していた。それを持った彼と、メイク道具とブラシを持ったジャンが駆け寄る。
タオルを渡してあげながら、アシスタントくんがセト氏に、
「美しいね、誰より」
と言っているのが聞こえた。彼の目元にはやさしい、セト氏を誇るような笑みが浮かんでいた。うん、同感!

すい、とアンドリュウが視線を投げ掛けてきた。強くキツい眼差しをしている。本音を明かせば、ちょっと恐い。
「よお、トキ先生」
「なに、アンドリュウ?」
す、と太い指先が滝がプールしている場所を指差した。そこはこのシャトーのオーナの趣味なのか、プロデュースしている人間のアイデアなのか、アクアテラリウムのように本物に近づけて作り込まれてあった。いってみれば、南洋諸島かなにかのフォレストに紛れ込んだような感じなのだ。
「…あれがどうしたの?」
「アイツ、あそこに入れたいんだが」
「---え」
アイツってセト氏以外の誰でもなく。つまりは衣装ごと水に濡らしたいということだ。
「ここの水は綺麗なんだろ?」
「え、うん。植物のために近場で濾過機に通して、あそこの滝のところが最初の放水口。あとは小川に沿って水が回っていくって」
「なら問題無ェな?」
す、とアンドリュウの目が切れ上がった。
「あー…ちょっと!ステファン!来てくれないかな?」
「それくらい一存で決められるようになれ」
ちょっと水飲んでくる、と言って汗を拭きながらアンドリュウが離れる。
代わりにステファンがす、と傍に立った。
「どうしました?」
「あ、と。アンドリュウがセト氏を水の中に入れて撮りたいって。…濡らしても平気かな。クリーニングに直ぐ持っていかなくて大丈夫かな?」
くすっとステファンが笑った。
「クローディアがおりますし、なんとかしましょう」
「ありがとう」
ぽん、とステファンが僕の肩を叩いた。頷いてからアンドリュウに歩み寄る。
「ハナシ付いたか?」
真顔でカメラマンが聞く。切れ上がった琥珀色の目が少し恐い。
「付いた。濡らしてもいいよ」
真っ直ぐに目を見返して言えば。にぃんまり、とアンドリュウがいつもの顔で笑った。頭をぐしゃっと撫でられる。

「よっしゃ!でかしたトキ」
「でもセト氏は平気?」
「あ?あーあ、平気だ。よおジェン、バスタオル三枚程用意しておいてくれ。セト、水遊びは嫌いじゃなかったよな?」
てきぱきとアンドリュウが指示を出していく。ジェンさんは静かに頷き、コートを羽織って温室を出て行った。セト氏はちらっと視線を跳ね上げて指でカメラマンを呼んだ。
「アーンドリュ?サラスヴァティは芸術の神であって水の精霊じゃあないんだよ?」
…なんか喧嘩を吹っかけているようなトーンだ。目がキリキリと吊り上がって、鋭い目線に光りが走る。まさしく豹みたいに見えるぞ。
けれどアンドリュウは気にすることなくまたにっこりと笑い。
「いーんだよ、お前自信がそこんじょそこらの芸術品より貴重な存在だし、その服、濡れた肌の方により映える」
きっぱりと言い切った。
すい、とセト氏の真摯な光りを宿したアイスブルゥアイズが向けられた。
「ムッシュはそれに賛成?」
「僕は…僕は、アンドリュウのセンスを信じていますから」
言い切れば、にぃ、とアンドリュウが笑った。セト氏はちらっと彼を軽く睨むように見遣ってから、僕を真っ直ぐに見た。
「アイデアとして、貴方は共感できるんですか?」
「ハイ」
あくまでデザイナの僕の意思を訪ねてくる所に、セト氏がいかにプロフェッショナルであるか、また周りにそれを求めているかが見て取れる。
ふぅ、とセト氏が息を吐き出してから、ゆっくりと口端を引き上げた。

「確かに水遊び好きだけどね、オレ」
それからくっとアンドリュウを見て物騒に笑った。
「高くつくから覚えていやがれ、テメェ」
にぃっと笑ってアンドリュウがカメラの前に戻る。
「明日のディナーでどうよ?」
「嫌だね。明日はオレのスウィートハートとアントワンとでランチ食ったら、さっさと二人きりンなっていちゃいちゃすンだから」
---わーお、男らしいコメントだぁ。
「ジェンは?」
訪ねたアンドリュウにセト氏がにっこりと笑った。
「彼氏がアルプスにいるんだと。だから一週間のお休み」
おや太っ腹だねェ、なんて言ってカメラマンが笑った。
「いいんだよ。オレも恋人と一緒に過ごす予定だから」
にひゃ、とセト氏が猫みたいな笑みを浮かべた。いつもの明るい表情の。
「だからさくさくっと撮影に取り掛かりますかね?」
どこに行けばいい?滝の所?無邪気に首を傾げて聞いたセト氏にアンドリュウが頷く。
「じゃ、どぼんと行きますかね?」
にひゃ、とまたセト氏が笑った。
「センセー、”どぼん”の前に一応水温チェックお願いしまーす」
そうアシスタントくんが声を張り上げていた。お前行け、って何故かアンドリュウが笑うように言う。
「じゃ、おれお願いされますね」
そう軽い口調でアシスタントくんが答え。ランウェイで歩くモデルのようにかっこよく、軽い足取りで水辺まで行っていた。すい、と屈んで水の中に手を入れ。僅かに片眉を引き上げてからすこし口端引き上げ、
「ん、許容範囲」
とか言っていた。んん?彼ってばセト氏のメディカルスタッフ兼ねてるんだ?
あっさりと戻って来た彼がセト氏に、”バリの滝くらいかな、ちょうど、”なんて言ってた。一緒に旅行に行くくらいに仲良しなんだ?…人目引いて大変だろーなー。でもきっとセト氏は喜んで傍にいて欲しいくらいにきれいな人だから、それすらも嫌じゃないんだろうけど。っつーか、気にするようなタイプじゃないよね、きっと。




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