す、とセト氏が一歩を踏み出す。しゃらん、と歩く度に涼やかな音が響く。場違いに禊ぎという言葉を思い出した。長い淡い金の髪がすらりとして力強い真っ直ぐな背中の上で揺れる。羽根飾りが花のようにも見え、どこか神々しい。可憐に見えないのは、セト氏の身体がしなやかな筋肉によって出来上がっているからだろう。小さな筋肉まで見事に鍛えあげられたセト氏の身体は、弱々しさには縁がない。感嘆するしかないその美しさは、真っすぐな気性と相俟ってむしろ清廉だ。
「あ、気持ち良いーや」
爪先をたぽんと水に着けたセト氏がふにゃりと笑った。そのままさぱさぱと水の中に入っていく。
す、と水面が波打ち、鮮やかな色が薄い青に沈んでいく。
「なーアンドリュウ、深さどれくらいあるか知ってる?」
水浴びをしている豹が喋れたらこんな声を出すのかもしれない、と言った風な弾んだ声でセト氏が聞く。
「腰より上は無いはずだぜ?」
水に浸かりつつあるセト氏をカメラに納めながらアンドリュウが答える。
「ふーん。でオマエ、オレにどれくらい濡れてほしいわけ?」
…アンドリュウ相手だと”オマエ”なんだ。結構口が悪い、というか、普通に男の子な喋り方するんだな。僕相手だと優しく喋ってくれているんだ。やっぱりセト氏は優しい−−−けど、そんなに気遣われたくない気もする。うー…。
「一度ざぱっと潜ってくれ。ゆっくりと水面に上がってくる所が撮りたい」
「りょーうかい。バックショット?」
す、と首を巡らしたセト氏が弾むように聞く。
「ロン毛じゃなかったらな」
あっさりとアンドリュウが答える。
「けどフロントってアリキタリじゃね?」
ゆっくりと振り向きながらセト氏が聞く。
「バカヤロウ、天才のオレ様をナメんな」
けけけけっとアンドリュウが笑った。
「プレイメイトよりセクシィで、そこんじょそこらの同業者にゃ撮れねェくらいに上品に、職業モデル顔負けに美しく、ハリウッド・ビューティなんぞ裸足で逃げ出すくらいにエレガントに撮るに決まってるだろーが」
−−−当たり前のように言い切るお前はすごいよアンドリュウ、ある意味。
感心していれば、ははっとセト氏が笑った。
「オマエはオレにどんなカオして貰いたいわけ、アンドリュウ?」
「んー?いやなに、極上な獲物にありついて、腹一杯に満たされた後とか」
「ばっかじゃねーの、オマエ。センセのメモリアル・ブックレットにヘンなプレミア付いたらどーすンだよ。片手のお供になるようなら願い下げだぜ」
中指を綺麗におっ立ててセト氏が口端をニヒルに吊り上げて笑った。つうかなんの心配してるんだ、セト氏は!?
直ぐさまアンドリュウが反論する。
「阿呆、オレ様が撮った作品がオカズに供されるようなモンに仕上がるわきゃねーだろうが。手を伸ばしたくなるほどエロティックに!触るのを躊躇う程ビューティフルに!脳内を呪う程にインプレッシブに仕上げるに決まってるだろーが!」
……誰かこの男気に満ち溢れた間違った会話を止めてください…しくしくしく。つーかセト氏、アナタ男前過ぎます…。
ひゃあひゃあとセト氏がガキみたいな顔で笑った。これが幼馴染みの二人の天才の会話?…がっくし(脱力)。
漸く笑いを納めたセト氏が、にやりと笑った。
「で、なんだって?腹を満たした後のカオ?サラスヴァティから程遠いじゃねーかよ」
「踊り子の神様ならそんなに遠くも無ェだろ」
あっさりとアンドリュウが言う。ふン、とセト氏が笑ってひらりと手を振った。
「寝首掻かれそうな展開だな」
「物騒にエレガントなのも捨て難いねェ」
にや、とアンドリュウがタチの悪い顔を作る。挑発しているのかもしれない。
「サラスヴァティの像の中にゃあ色っぽいのもあっただろ?」
「あー?鎌倉の方にあった弁財天はセクシィだったな。乳白色の肌に薄い衣とビワ」
…それって江ノ島の弁財天様ですか、セト氏?つーかよく行きましたね、そんな所まで。
「それは知らねェけどよ。男神誑かす勢いで来いよ」
ああ、アンドリュウは知らないだろうなあ、江ノ島の弁財天なんて。とか思ってたら、なんでアシスタントくんの腰叩いてるんだ?ほらみろかわいそうに。ペットボトルから水飲んでいたのに、零しちゃってるじゃねーかよ。
「引き続き、獲物候補だ。こいつが掻っ攫いたくなるような顔してみろよ」
……なんつー挑発していやがる、バカカメラマンめ!
「実際に掻っ攫われたらどうすンのよ、責任取ってくれんの?」
にやり、とセト氏がなにやら物騒に目を煌めかせた。
「あー考えておく」
にぃっとアンドリュウが笑った−−−何考えとんじゃお前。
とか思ってたら、喉元まで零れた水を男らしく、ぐい、と拭いていたアシスタントくんが、かぁなりセクシィな低音で、
「へぇ?だったらガンバロッかな。でも10分休憩じゃ、おれ嫌だヨ?センセー」
なんてしれっと言っていた。−−−10分休憩って……一体どんな休憩を希望してるっていうんだーっ!!あんたも男前すぎ!!うわあんっ、映画の主人公みたくかっこよくセータ腰から落としてる場合じゃないよっ!つーか汗ひとつかいてないしっ!
お腹イッパイ、ねぇ?そう言いながら、セト氏がちらりとペットボトルを床に置いていたアシスタントくんを見遣った。それからにっこりと笑う。
「オーライ、満腹括弧ハートマーク、の顔な」
「まだまだ足りねェ、もっと食わせろ括弧ハートマーク、の顔はその後にな」
−−−だからっ!いったいどんな会話なんだそりゃ!?
そんな絶叫を脳内で響かせていたら、アンドリュウがこともあろうか、にっこり笑って、ぽん、とアシスタントくんの腰を叩いて言った。
「じゃ、頑張ってセトを煽るように」
……どんなアシストだそりゃあっ!!!(大絶叫)
けれど勝手に大物と確定させていただいたアシスタントくんはあっさりと、
「へーい、任しとき。でもセンセ、」
なんて、にか、って爽やかな笑みで軽く請け負った。それでもってきらきらと目を輝かせながら、
「煽りすぎ、ってクレームはナシな?あとー、ムッシュ・ミクーリャのスタッフのみなさーん、おれ、元X−ratedフィルムの俳優とかじゃないから誤解しないでくださいねー」
なんて言いやがった。あんた一体なにする気なんだよう、何者だっていうんだよう、しくしくしく。
そして、どこか唖然と光景を見守っていた僕のスタッフたちに構うことなく、犬というよりは狼みたいな優雅な仕種で水辺まで、軽く伸びしてから近づいていっていた。フレームから外れる位置をちゃんとアンドリュウに確認している所は、さすがっちゃあさすが、だけど。いや、当たり前の事項か?元モデルなら聞いて当然のことだしな。−−−謎な男、だなぁ。
こちらもアンドリュウと立ち位置を確かめた後、す、とセト氏が実際には腰下までしかなかった水の中に、静かに身体を沈めていく。先ほどまでのティーンエイジャさながらの会話の時の顔を引きずることなく、目線は水面に達する直前まで熱っぽくアシスタントくんに釘付けになったままだ。
ケルトの神話に出て来た湖の貴婦人、それが存在していたらきっと今のセト氏のように美しいんだろう。まさかそういう絵をアンドリュウが撮りたいとは思ってないけど。
でもセト氏の目はきらきらと煌めいて。雪の女王のような圧倒的な気高さはないものの、”来い”と誘ってでもいるかのように、なんだか艶っぽい表情をしている。…自制心が相当あるのか、あんな顔で真っ直ぐに見詰められても動かずにいられているアシスタントくんは、すごい。あの色っぽい表情のセト氏にあんな潤んだ目で誘われていたら、どんな人間だってセクシュアルにアクティブなら、ぐらっとよろめいても不思議じゃないのにな?
波紋を描いて。美しい蒼氷色の艶を帯びた目が閉じられ、セト氏の全身が水面に沈んでいった。そして水音だけが強く響く中、息をなぜだか潜めてセト氏が上がって来るのを待つ。
長いようで短い時間が過ぎ。ゆっくりとセト氏が現れた−−−うわ。いつもは目を閉じたままのセト氏はビスクドールのように端正で美しいのに。いまは重く濡れた髪と頬を伝う水滴がそう見せるのか、息を飲む程エロティックだ。宝石の間を伝い落ちる雫は妄想を沸き上がらせるには充分に色っぽく、濡れた白い肌は目を反らしたくなる程官能的だ。
す、と細長い指が濡れて灰を帯びた前髪を額から退かし。ゆっくりとセト氏が瞼を開ける。とくん、と自分の心臓が跳ねる音が聞こえた。まわりでも息を呑んでいるのが解る、それ程に官能的な表情でセト氏が佇んでいた。
アイスブルゥはとろりと熱っぽく潤み。口元はけだるげに、けれど満足げにゆうるりと引き上げられ。肌を伝う水滴は差し込む光りにてろりと煌めき、情事の後を思わせる。
ゆっくりとセト氏が鳳凰が宿る腕を引き上げ。真っ直ぐにアシスタント越しにカメラに目線を当てたまま、僅かに顔を傾けて、ぺろりと手首を伝う水滴を舐めた。濡れた紅い舌が白い肌の上をなまめかしく蠢く−−−そのフィジークにぞくりとする。豹が毛繕いしているようにも見えるのに、もっと遠慮無くエロティックにも感じられる。あの肌を伝うのはもしかしたらタダの水ではなく(だったら何なのかは言えない)、もしかしたらいまは腕を舐めているけれど本当は別のところを舐めたいのかもしれない(例えなんて出せない)。
ちらり、と自分の内に沸き起こったセクシュアルな欲望にうろたえる−−−そんな目でセト氏を見たこてなんか一度もなかったし、そんな欲望が存在することも知らなかったから。尊敬するセト氏に対して失礼だとも思うから、必死で打ち消そうとあがく、例えそれがセト氏の狙いであったとしても。僕は淡泊な性質だから、余計にこの衝動に戸惑う。だってこんな気分になっても、その先を自分でどうしたいのか想像も着かない。女性に感じる衝動より生々しくないのに、それは遥かに強烈だし。
けれど大物アシスタントくんは、うっすらと笑みを刻み、セト氏の口唇辺りに視線を置いたまま、ただ、すぅ、と目を細めていた。熱く潤んだセト氏の目とは対象的にキャッツアイは熱を帯びることは無く。淫靡な表情にも拘らず、飢えてはおらず。すとん、と腰を地面に落としていた。長い足を投げ出してどこかだらしなく、けれど優雅な姿勢で。……これって、長期戦覚悟ってこと?なんてこったい、まだ序の口なのかもしかして?−−−理性が試されそうだ……。
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