暫くした後、コン、とドアがノックされ。ひょい、とセト氏が扉を開けた。
「お待たせしました」
「いえいえ。きちんとお昼は食べられました?」
クローディアがにっこりと笑う。セト氏もまたふわりと笑った。
「美味しくいただきました」
「それじゃあトキ、ブロゥ氏はジャンのところへ?」
「あ、うん。先に髪を染めて貰って。メイクが終わってから着替えです」
僕の言葉にセト氏が頷く。じゃ、こちらへどうぞ、と促すマリエンヌに連れられ、簡易メイクルームに向かっていく。
「ねえ、クローディア」
「どうしました、トキ?」
「セト氏の恋人って…」
その先を聞こうとして、言葉を失う。セト氏の恋人が誰だろうと、それが同性だろうと、例えばそれがアシスタントくんだったとしても、僕がどうこう言う筋合いはない。セト氏が本気で、しかも楽しんで撮影に挑んでくれているのは確かだし、セト氏が気持ち良く仕事をしてくれることがアシスタントくんがいる意味だとしたら、これ以上に無く仕事をしているわけだし…。そもそも確証もないしなね。

「トキ?」
黙り込んだ僕を覗き込む。優しい灰色の目を覗き返して、小さく笑う。
「セト氏の恋人はきっととても幸せだね」
だってさ、セト氏があんなに幸せそうなんだからさ。そう言えば、ふんわりとクローディアが笑った。
「そうですね、きっととても幸せですわね」
きっとこの場にいる人間は。全員アシスタントくんがセト氏の恋人である可能性に気付いているのだろう。ただ誰もそのことについて問い質そうとする程不粋な人間ではないし、言い触らすような性根の人間もいない。セト氏がセキュリティにこだわったのは、例え恋人さんがアシスタントくんでなくとも、きっとその人のことを慮ったこともあるだろうし、本当に心行くまで撮影に没頭したかったってこともあるだろう。なにしろ相手は、セト氏の本気の”魅了”を軽く流せるカメラマンで親友のアンドリュウなのだから。
そういえばセト氏が、バレエ雑誌やちょっとした社会面の記事以外で被写体になる仕事を引き受けたのってアンドリュウ以外のカメラマンではないことなんだよな。前にランウェイで踊ったって時だって、セト氏がメインで特にフィーチャーされていたってわけでもないだろうし(もしそうだったらどこでそれに行き当たっている筈だから)。

はた、と気付いた。セト氏が個人で、しかもバレエ関連以外でモデルとなる仕事を引き受けてくれたのって、僕のだけだ…!あ、や、なんかのコマーシャルもあった気がするけど、あれは数人と一緒だったような気もするし。
でもこんなにきっちりとしたモデルの仕事をセト氏が引き受けてくれたのは、間違いなく僕のが初めての筈だ。予定しているメモリアル・フォトブックの一冊が僕の服の歴史で、別冊で付けるフォトブックの丸一冊がセト氏がモデルの今回のセッションで撮ったアンドリュウとの連名の作品集になるわけだから。いってみれば、全く別のセト氏個人の写真集でもあるわけで…。
アンドリュウが、思いっ切りゴージャスに作って、その変わり発行部数をケチしろ、と言っていた理由が解った。付属のこの写真集は、僕の作品集であり、アンドリュウの作品集であり、セト氏の写真集でもあるわけだから…。

戻って来ていたマリエンヌを捕まえる。
「あの、マリエンヌ」
「なにかしら?」
「出来上がった写真集、出席簿の代わりにならないかな?」
「え?」
「段取りとしては、会場で専属のモデルと、いつも出てくれていてノーギャラでも出てくれるって言ってるモデルたちで服のお披露目でしょ?その後でセト氏に一着着て登場してもらうわけじゃない」
「ええ、その通りよ」
マリエンヌが頷く。
「そこまでは招待客と、あとは応募で集めた見物客が限定で二百五十人、プレスが百人入るわ」
「でもその人たちはアフターまで来ないだろ?アフターは会場を隣に移して、モデルと招待客だけでやるわけだから、パーティ会場の入口にセキュリティゲートを設けて、出席してくれた人にだけ、名前入りの写真集を手渡すっていうのはどう?」
ちらり、とマリエンヌが考え込む。
「出席してもらえなかった人の分は郵送すればいいし」
「招待状と引き換えにするなら、本に刻印しておくのも手ね。ゲートで混雑させないように、アルファベット順に並べておいて…そうね、入るゲートを最初から指定しておけば、混雑は少ないわね」
「連れの人数は他一名だけだから、案内状を出した時に、出席するって返信カードを返してもらうでしょ?そこに同伴者の名前を書いて貰えれば、その人の名前も刻印できる」
「ゲートを潜る時は同伴者と一緒が原則だものね、それで混乱と写真集の流出は防げる筈だわ」
「モデルにも感謝の気持ちを篭めて、名前入りで手渡せばいいし」
マリエンヌが頷く。
「ステファンと協議するわ。プレミアを付けるって意味では充分意義のあることだし」
「夕方帰ってからでいいよ。でもそうすると、返信を貰ってから名前を刻印していかなきゃならないから、写真集の完成日とか、実際に搬入できる日にちだとかがおしてくるだろうし…」
そんなことを話し合っていたら、がちゃりと扉が開き。
「びっくりするよ〜!ほら、見て!絶対絶句するから」
ジャンが得意げな顔で入ってきた。そして続いたのは−−−

「………!」
目元も涼しげでシャープな風情の黒髪の”美形”。プラチナブロンドのナチュラルヘアの時には感じたふんわりとした柔らかさは掻き消え、ストイックに引き締まった凜とした青年がいた。色香も抑え気味に、より深く色っぽさが引き立ち、黒い髪と黒い睫の間から覗くアイスブルゥが際立って美しい。
メイクも目の回りに薄いのピンクのアイシャドウと黒のアイライン、マスカラと眉ライナーで眉も睫も黒くして。チークは薄く塗って、口紅もナチュラルな渋めの淡いピンクとブラウン、ファンデーションも薄く叩いて、ほとんど解らないくらいだ。
だからこそ解る、いかにセト氏が表情だけで優しい王子様を装うことができるかが。今のセト氏はきりりと表情の引き締まった青年だ。男装の麗人でも通るかもしれないけれど。それに今はナチュラルメイクだけど、例えばアイシャドウをパールグレイにして、口紅を深い緋なんかにしたら−−−凛々しい悪魔でもいけるかもしれない。目がアイスブルゥだからかな、コントラストが冴えてきっとすっごく栄える。それこそ軍服とか着せても……!

「ムッシュ・ミクーリャ?」
ひょい、と顔を覗きこまれる。さらさらとまだ流し放しの髪が目の前で音を立てている。すっごい、すっごい”美形”だあっ…!
「にゃ?あまりにイメージチェンジしすぎた?」
「や、かっくいいです!」
「そ?オレも鏡見てビックリした。すっごい他人みたいーって」
ひゃあひゃあと笑うセト氏は、けれどいつもの明るいオニイサンだ。僕と同じ様にぽかんとしていたクローディアとマリエンヌにも、にかあっと笑っていた。んー…あっかるいなあ!
「じゃあ着替えましょう」
ふにゃっとセト氏が笑って慌てて仕度を始める。
「じゃあこちらの服から着てください」
「ズボンからだね。このデザイン、オレ好きなんだ」
にっこりと笑ってセト氏が着替えを始める。
裾の外側に金糸で薊の刺繍が入った白い綿ストレッチのブーツカット。それに白いぴったりとしたチャイナ風の細みのウールのノースリーヴ。臍丈でサイドにスリットが入っていて、セト氏が腕を上げる度に綺麗な肌が覗く。
ズボンの上からウールのスカートを穿いてもらう。タイトだけれど、深くスリットの入った長いスカートだから、動きは制限されない。横に垂らしているチェーンは飾りだし。
腰周りにシャンパンゴールドのフォックスファーが付いた長いヴェロアの布ベルトを回す。ファーで縁取りした丈の短いヴェロアのジャケットを最後に着せかける。アクセサリは房と真珠の付いたファーのイヤリングだけ。腕の鳳凰には紫と黒と金を重ねて、さらに鮮やかに仕立ててあるから、ブレスレットも不要だ。

「後は髪を結わくだけです」
「オーライ、じゃあスリッパ履いていこう。ジャン、よろしく」
「ハイ、いきましょ」
す、とセト氏が立ち上がり、ジャンと部屋を出ていく。
「マリエンヌ、アシスタントくん呼んできて貰えるかな」
「いいわよ」
「直接メイクルームの方に来てもらって」
「わかったわ」
ふわりと微笑んだマリエンヌが部屋を後にし。クローディアとメイク室に向かう。
す、と黒い髪を結い上げられるセト氏が、鏡越しにひらりと手を振ってくれた。まだ見慣れないせいか、インパクトがあるなぁ!
前髪を長く垂らし、サイドはきつく後ろに流して白いリボンで結わいた姿は、チャイナ風の服を着ているにも関わらず、まるで騎士のようでもある。清廉で伸ばした背筋の美しい武人。
コンコン、とドアがノックされ。マリエンヌに連れられてアシスタントくんが、ひょい、と笑みを浮かべた顔を覗かせた。
「よ!」
ぴし、と手で挨拶をしながら、セト氏がアシスタントくんにウィンクをした。ヤンチャなニーサンそのままだ。
そんなセト氏が珍しかったのか、アシスタントくんが一瞬、ンー…?と訝しげな顔になった。すぐに笑みに戻っていたけれども、どこか冴えた光りは残されたままだ。
そんな凛々しい風情のまま、アシスタントくんは冗談めかして、騎士が王子に謁見しているかのように一礼していた。セト氏はくすっと笑って、アシスタントくんの腕を貴公子のように取っていたけど……面白い二人だね?

アシスタントくんに連れられて、楽しそうにセト氏がスタジオ代わりの部屋に向かう。
今度のセットは真紅や茶、深緑等の布地を壁にかけた、ただそれだけのシンプルな部屋だ。フロアにはディープグリーンの深い毛足のカーペットが敷かれていて、全体的に秋色で統一されている。
紅葉でも散らそうかと最初思ったけれども、春と被るのもどうかなと思って考え直した。シンプルな服にシンプルなセット。それもいいだろうと思ってあまり華美にしないでおいたんだ。黒髪のセト氏にはそれだけのインパクトがあるから、いまは間違った判断じゃないと思っている。




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