最初に撮るのは”春”の着物と決めてあったので、ウールのガウンを纏ったセト氏がジェンさんと簡易メイク室に現れたところでジャンが迎えた出た。髪はまだ結い上げる他は弄る予定がないので、先にメイクが始まる。音楽はセト氏のリクエストにより、ビバルディの「四季」だ。
まずは基礎で肌を整えてから、ナチュラルカラーのファンデーションを塗り。次いで眉のラインをペンシルを使っていつもより滑らかなカーブにしてから、淡いピンクとパールホワイトでアイシャドウを乗せて、黒のアイライナーで目の淵をくっきり描く。カーリング材を使って睫を保護してからビューラーを当て。マスカラも黒を選び、足す必要もない睫をくっきりさせる。
口紅はグロスの入った渋味のあるピンク。僅かに赤みを交ぜて、清楚なだけではない色にする。
髪を結い上げるのは最後にするので、先にフィッティング・ルームにセト氏と共に移動した。待ち受けていたクローディアが静かに白い襦袢を広げる。する、とセト氏がローブを縫いだ。

仮縫いの時点でセト氏の裸を何度も見たけれど。職業モデルと一緒で下着一枚だけでも凜とした風情があって、ピンと背筋を伸ばした立ち姿が美しい。特にセト氏は調った顔立ちをしているだけに、その姿は一流の芸術家の手によって作り上げられた精巧な彫刻のようでもある。ミケランジェロでさえ惚れ込んだであろうと思わせる程にバランスのいい身体だし、ほれぼれしちゃうね。つっても見惚れてる時間なんかないけど。
クローディアと入れ代わって、セト氏に重い絹の着物を着せかける。衿の位置を直したら、紺と鴬の縞模様の帯を当てて。それをクローディアが押さえてくれている間に、両サイドに通した紺色の紐を締めていく。
「苦しい?下駄ははける?」
美しく彩られたセト氏の顔を見上げれば、セト氏は女性でも男性でもない顔を僅かに横に振った。どこか幼いような仕種だ。
「じゃあ撮影までスリッパでいてください。息苦しくなったら直ぐに言って」
ふわ、と優雅にセト氏が頷き、それから待機していたジャンの所にゆったりと歩いていった。
ほぅ、と見惚れていたクローディアに声をかけて、アンドリュウに後10分程で支度が調う旨を伝えにいってもらった。
ヘアスタイリストを兼ねるジャンとは、クチュリエ・デビュウする前からの付き合いで。実は僕と一緒に祇園まで文化研修に行った間柄だ。だから日本髪の結い方も知っているし、独特の結い方をすることもできる。いまは緩くカールしたセト氏のプラチナブロンドを緩く束ね、プラチナのピンで固定させてからフェイクの髪を詰めてボリュームを出させていた。それから金箔の散った黒い漆の簪を挿し、反対側から螺鈿を散らせた真紅の漆の簪を挿す。

「わあお、美人」
ジャンがにこおと笑った。完璧だね、と鏡の中のセト氏に語りかけている。
ちら、とセト氏が僕を見た。新妻のように清楚でいながら、祇園の芸妓より艶やかな表情をしていた。
「完璧?」
いつもの甘いフランス語で、セト氏が柔らかく聞いてくる。
頷いて、着物の位置を少し直した。ふんわり、とセト氏が柔らかく微笑み。
「じゃ、いまからオレが頑張る番だね」
そう言って目を僅かに細めた。−−−うわ、姐御だあっ、極妻だあっ!!

こん、と静かにドアがノックされ。アンドリュウの新アシスタントくんがひょいと、まるで子犬のように顔を覗かせた。
セト氏が彼を振り返り、声には出さずに短く呟いた−−−名前、かな?きらきら、とアイスブルゥが光を弾いて、まるで獲物を見付けた豹だ。
そうしたならアシスタントくんは一瞬だけ目線を鋭くし。けれど柔らかな声で、
「プリンス・チャーミングじゃなくなりましたね、……キレイなイキモノ」
そう目を細めて言っていた。うーわ、彼の声ってセクシィ?
する、とセト氏が、テーブルの上に置いてあった下駄を拾い上げ。指に引っ掛けて、アシスタントくんの方に歩いていった。彼がドアを押さえている間に、するりとセト氏がドアを出ていきかけ。
「あ、ちょっと待って。階段、危ないですから」
そうアシスタントくんが優しい声で言って。
「これもおれが、」
とセト氏の手の中から、すい、と下駄を引き取っていった。何気ない動作なのに、どこかセクシュアルな感じがして、心臓が勝手に跳ねた。
……”履物”だからかな?
小さく彼が僕たちに目礼した後に、ドアがぱたんと閉じられた。続く妙な静寂。
「……わお」
呟く。彼、セト氏を見てとっても嬉しそうだったけど、うん。すごいね、なんだか。
ぽかんと彼等が消えていったドアを見詰めていたジャンとクローディアを振り返る。
僕だって仮縫いの時には動けなかったのに、
「…動じない彼ってば、かなりの大物?」

一つ息を呑んで気分を入れ替え。次の服のセッティングをしてくれるようにクローディアに頼み、僕も撮影をする部屋に向かう。
廊下にでれば、あちこちで暖炉に火が入っているとはいえ、かなり肌寒い。
大きなカーブを描く階段を下りて、セットを組んだスタジオ代わりの部屋に向かう。そこでは板でステージを作り、桃の木をプランターごと組み込み。赤い布を黒い布の上に敷いて、茶席風に和傘を立て、茶道具を小道具として用意し。背後は茶や鴬や芥子等の反物を並べて垂らして、極力和風テイストに仕上げた。
コンセプトは”春花見”。咲かせるタイミングが合わないのは最初から知っていたので、布で作った桃の花を軽く枝に留めてある。花びらは本物をどうやってか腐らずにキープしているものを、京都の反物屋さんの知り合いに頼み込んで譲ってもらった。それを散らして、より春っぽくしてある。
服の統一コンセプトは”DIVINE”、セト氏は”春の精霊”だ。あとはアンドリュウがどう仕立て上げてくれるかだな。

カメラテストは終わったらしく。照明の真ん中で、セト氏がくすくすと笑っていた。アンドリュウがなにか変なことを言ってたらしい。
ちらり、とアンドリュウがこちらに視線を投げてきた。好きに始めてくれ、と手で合図する。
ピーターくんはアンドリュウの傍にいて、撮ったばかりらしいポラロイドを見せていた。−−−あとであれにサインが入ったやつが欲しいぞ。

「セト、木に寄り掛かれ。…お前はソレだ。そっから始めよう」
アンドリュウの深い声が響き。下駄を履いたセト氏が、それにそっと背中を預けた。いつもは強い生気を放っている目が、すい、と閉じられ。無性の美しい存在がそこに現れた。桃の木の精霊。
「お前に近しい者はなんだ?」
アンドリュウが聞き。セト氏が呟くように、鳥、と答えた。
「じゃあまずは挨拶だな」
その声に従って、セト氏が、すう、と視線を上げた。片手を袖に添えて、ゆっくりと腕を空に向かって伸ばし。白い腕が半ばまであらわになり、その透き通るような美しさに目を奪われる。
すう、とセト氏の目が愛しそうに和らぎ、ふわりと笑みを浮かべていた…うーわ、花が綻んでいくようだよぅ。
アンドリュウが一言、舞え、とセト氏に告げる。先になにか打ち合わせてあったのか、するり、と桃の木から離れ、セト氏がセットの中をゆっくりと袖を翻したりしながら回り始めた。その姿は少女のようでもあり、小鳥のようでもあり、または桃の花びらのようでもある。
気付けば、どこからか緩やかな風に乗って、薄い桃色の花びらが降り始めた。 −−−ああ、新アシスタントくんが散らしているんだ。
セト氏はふわりふわりと、慣れない下駄のまま器用に、それこそ言葉のままに”舞い”。扇を持ってもらえば良かったと思った。ああでも、指先だけの動きでも綺麗だ……。

「春は何の季節だ?」
アンドリュウの質問に、ふわりとセト氏が微笑んだ。一気に空気が甘やかになる。
「ほら、目の前に想い人がいるぜ。そいつはお前が見えて無ェけど」
ふわあ、と優しく綺麗な人が腕を広げた。限りなく優しく、誰かを包み込んでいる。けれど腕の中の人は、恋の対象でも愛の対象でもないらしい。純粋な好意だけを寄せて、抱き締めていた−−−精霊だから。

「好きな相手は茶会に招かれたゲストだ、桃の精霊ならどうやって好意を示す?」
静かなカメラマンの声に従って、精霊はするりと茶席の回りを一周してから、そうっと身体を緋毛氈の上に横たえた。ひらひら、と淡い桃色の花びらが舞い落ちる。
する、と白い足が動き。裾がめくれ、細く長い足が鮮やかな緑の裏地と白い襦袢を掻き分けて現れる。脱げかけた黒い下駄とのコントラストがなぜだか色っぽい。
する、と長い腕が伸び。落ちていた花を一つ摘み上げた。それをそのまま口元に運ぶ−−−伏せ気味の視線が、艶を帯びはじめている。
アンドリュウが移動しながら、視線を投げる先を告げていく。
すい、とライトに視線を向け、瞬いてから花を放した。ひらひらと舞い落ちる花弁が雪のようでもあり−−−紅を塗った唇がなにかを呟き、音がしそうにゆっくりと瞼が閉じられた。すう、と溶けていなくなりそうな幻覚を覚える。

「オーケイ、セト。5分休憩だ。次は裸足で少し歩くから。サンダルは指から下げてな」
ぱち、と瞼を開けたセト氏と視線が合った。にこ、と笑顔が向けられ、びし、と親指が立てられた。んん?ああ。
「ワンダフル」
呟いて、両手の親指を立てて返した。ふにゃり、と猫みたいな無邪気な顔でセト氏が笑った。うわあっ、すんげえかわいいようっ!!
ひょい、ととても身軽にセト氏が立ち上がり、軽く着物を叩いて積もった花びらを落としていた。す、とアシスタントくんが近寄り、セト氏の髪についた花びらをとっていく。ふにゃり、とまたセト氏が笑って、小さな声で、アリガト、と言った。にこ、と笑ったアシスタントくんが、
「睫に乗っからなくてザンネン」
なんてことを言って。くすくすとまたセト氏が笑った。どこか雰囲気が優しい。
「あぁ、ここにも残ってるね」
そんな声が響き、アシスタントくんがセト氏の襟元にあった花びらを指先で摘み取ってあげていた。そしてそれを掌に乗っけたままでセト氏の口元まで運び。無邪気に目線でなにかを訴えていた。…うん?
くすんと笑ったセト氏が、目線を落として、ふーっとそれを吹いていた。ひらひらと桃色が宙を舞う。
にひゃ、とまるで少年みたいに笑ったアシスタントくんが、ジェンさんの方にすたすたと歩いていき。ペットボトルを受け取り、またセト氏の元まで戻って、フタ開けて渡していた。うーわあ、やぁさしいんだ。それにしてもなんだか可愛いね、お二人さん。

すい、と辺りを見回せば、ぼーっと彼等を見詰めているうちのスタッフがいた。……全員夢心地ですかい?
「いやあ、色っぽいね〜…」
ジャンが溜息を吐いてしみじみと言った。
「横たわってる時の表情がね…ぐっときたわ。抑えた色っぽさよね」
マリエンヌが呟く。
「私はしばらく、脚の残像に悩まされそうです。色のコントラスト、布のバランス、素足の美しさ…トキは天才だよ」
ぎゅう、とステファンに抱き着かれる。んん。
「セト氏、服をミセルことは出来ないって言ってたけど、そんなことないよなぁ」
だってポイントポイントで、ちゃんと服が魅力的に見える箇所を押さえてくれてたし。最大限に服の威力を発揮してくれてたし。
「着る服だけが美しくても、それでは”服”という存在意義が薄れてしまうものね」
クローディアの言葉に頷く。
「着られて美しく、着ている人を美しくしてこそのオートクチュールだし」
相乗効果を発揮できて初めて”服”が”生きる”わけだし。
「これだからオートクチュールは古いと言われても止められないんですよ」
クローディアが深く頷いて僕にキスをくれた。にこにこ笑顔だ。
「スケジュール目一杯でも頑張ってきてよかったわ」
「今回はほんと無理させちゃったね。ありがとう、クローディア。一緒に立ち会ってもらえて嬉しい」
クローディアの頬にキスを返す。感謝の気持ち。
「貴方みたいなクチュリエだから、私たちみんな頑張れるんですよ」
だから午後も頑張りましょうね、と続けられる。他のみんなも頷いてくれた。うは、幸福だなぁ。

「ムッシュ・ミクリヤ」
呼ばれて振り返れば、やっぱり僕より背の高いマネージャのジェンさんだ。
「服に歪みがないかどうか見て欲しいそうです」
ああ、休憩はもういいのかな。ジェンさんに頷いてから、ジャンに合図。化粧直しも必要かもしれないし。

セト氏に近づけば、するりと新アシスタントくんがセト氏の手にあったペットボトルを抜き取り。
「あ、おれもオシゴト戻らないと」
そう言ってセト氏ににかっと笑いかけていた。ひょいと振り向いた彼が僕にも眉を引き上げ、にか、っと笑い。それからセト氏の傍から離れていった。別に居ていいのにね?

「ムッシュ、どうかな?」
セト氏がくるりと裸足のまま回る。足元にはヒータが置いてあって、寒くはなさそうだ。よかった。
「着物は案外温かいね。みんなもっと着ればいいのに」
「クリーニングが大変なんだ。一枚布だから干すのも大変だしね。日本の家は大概狭くて天井が低いんだよ…ああ、ちょっとズレたかな。衿直そう」
「京都、奈良、神戸、東京、…あ、あと鎌倉にも行ったよ。どこも独特な空気あるよね」
このセットは奈良みたいだね、とセト氏が笑った。服を手早く直して、ジャンに場所を譲る。メイクボックスは既に開けられていて、ささっとメイクが直されていった。んん…やっぱり美人だ。
パーフェクト?と小首を傾げたセト氏に強く頷いて、アンドリュウの方に下駄を片手に戻っていく背中を見詰めた。ううん、艶やか!
なんだか楽しげな雰囲気に視線を上げれば。なにかジョークでも言ったのか、新アシスタントくんがアンドリュウにぽかんと頭を叩かれていた。
「いってぇー!!」
声が響き。次いでけらけらと明るい笑い声が響く。わ、なんだか無邪気でかわいいぞ〜!じゃれ合う大型犬二匹。なんてこと言ったら怒られるかな。あ、でもちゃんと仕事に戻るんだね。ってそりゃそうか。

休憩の後は歩いている姿や、振り返った姿、パーツのアップ写真を撮って、午前中のセッションは終了。メイクを落としてもらって、なんだったらシャワーを浴びてもらって。髪を編んで貰いながらランチを済ませてもらったら、午後のセッションがスタートする。
冬の服のセト氏は、今度はどういう風に見せてくれるのかな?




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