Epilogue: Rose Noire



窓の外は優しい景色だ。見慣れたパリの風景とは違って、空気が甘そうに見える。
ダックスフンド、と実父のアントワンが呼ぶリンカーンのリムジンの豪華な革張りの広いシートにはオレとコーザの二人きり。下げられたパティションの向こう側からルーファスの鋼のような目がちらりと合わされた。業務連絡はどうやら終わったらしい、刃物を思わせる風貌が僅かに和らいだ。笑みを返す、オレのダーリンの後見人だという事実を抜きにしても、ルーファスみたいな人間は好きだ。ただし恋人や家族向きではない。
横に座っているコーザに視線を遣る。残念ながらオレが触れるのが好きな傷痕は反対側にあった。だから端正な横顔に目がいった。仕事の話しをしていたからなのか、少しシャープな顔付きをしていた。
す、と双眸が合わされる−−−キャッツアイが和らいだのを見て、口端に勝手に吊り上がる。キャッツアイに映る自分の顔がとろけてンなァ、と我ながら思う。

「報告と打ち合わせは終わった?」
声まで甘いなァ、今朝も愛し合ったせいカナ、なんてな。
「あァ、お待たせ」
おなじくらい甘い声で恋人が囁く。けどオマエ、まだちょおっとシャープさが残ってるぞぉ?
ふ、とコーザがなにかを思い出し、またルーファスに小声で何かを指示していた。ルーファスも頷いて返す。
それからコーザがにこっとして、指でルーファスにパティションを上げるように指示していた。命令は遂行され、ゆっくりと空間が閉ざされる。
す、とコーザの手がこちらに伸ばされ。頬から耳元、後ろ頭まですうっと撫でて髪を梳いていく。
勝手に目が細まる。うっとりとなっちまうのはショーガナイよな。気持ち良いんだから。
「綺麗だね、」
柔らかく告げられ。昨夜から今朝にかけて、メイクラブしている最中にも何度も甘く囁やかれ、黒髪を梳かれたことを思い出した。リネンに散ったそれに鼻先を埋め、または見上げてきながら一房摘んでそれに口付けてきたことも。
いまもやっぱり、そうっと髪に口付けられ。くうっと抱き寄せられる。

「けど、」
と甘いままの声が続ける。
「まだ、正直言うと慣れない。ブラック・プリンス、っていうよりは黒バラ、だけどね」
セトがほんとにブルネットなら、惚れるのにあと1ヶ月くらい余計にかかったかもな、と告げてきながら、キャッツアイがきらきらと煌めく。
「…こーざ、」
手を伸ばし、頬を撫で上げ。そうっと眉の上の傷痕を撫でる。正直な話し、なんでコーザが黒髪が苦手なのか解らない。ただそういうこともあるだろうとは思っているけど。

「…目を閉じてるか?なんだったらひざ枕でもしてやろうか?」
眉を撫でた手で恋人の頬を捕らえ、親指の先で魅力的な唇を辿る。
「パリまで寝ていてもいいぞ?」
キャッツアイを覗き込む。そうっと身体を起こして、掠める距離で唇を合わせて名前を呼ぶ。
コーザが柔らかく眼を細め、そうっと触れるだけ唇を合わせてき。軽く押し当てて、
「それはとても魅惑的なオファ、」
と触れるか触れないかの距離で囁いた。柔らかく擦り合わせれば、そうっとあまく唇を啄ばまれ。
「眠くはないけど、セト良い匂いするし、」
そう言ってまたそうっと啄ばんできて。目元にも優しくキスが落ちてくる。
その間にも髪を指が何度も梳いていき、背中もやさしく掌が辿っていく。その間中、手はコーザの項に預けておき、手触りの良い襟足を指先で遊ぶ。
頬にも、ちゅ、と音を立てて軽いキスが落とされ、耳元にもそうっと唇で触れてくる。そして齎される返事。
「ウン、させて?」
耳元で甘い声が落とされる。

「なんだかさ、」
くぅ、と首筋に柔らかく鼻先が埋められる。
「セトのこと少しばかり、おれ独り占めしたいかも、」
甘えている、と自覚しているのが解るような甘い声が続く。さら、と指先で砂色の髪を撫でる。
「たくさんの、”あなた”を見せてもらえたけど。おれはやっぱり”セト”が好きだよ」
僅かに鼻先が押し当てられる。
「だから、ブルネットでも構わないはずなんだけどね?」
柔らかな口調に、年下の恋人が持つ傷の一つを知る。そうっと横顔に唇を押し当てる。−−−ごめんな、オマエの傷を思い出させちまって。夜には落とすから。そう音にはせずに語りかける。
ゆっくりと身体が離れていき、力強い鞭のような身体がそうっと膝の上に降ろされる。
す、と優しく腕が伸ばされ、頬をまた柔らかく撫でられ。僅かに引き寄せられるままに上半身を折れば、ぺろ、と唇を舐められた。

くしゃん、と少し照れたように微笑んだ恋人の頬に指を滑らせ。唇を合わせて自分から啄む。
「ダーリン、愛してるよ」
さらりと髪に指を滑らせ、落とした言葉を口付けで閉じ込める。そうっと啄んで、甘く舌でノックして。迎え入れられ、とろりと絡ませ、目をそうっと閉じたまま、深く優しいキスをする。
ちゅ、と口付けが解け、目をそうっと開ける。柔らかな色みをキャッツアイが浮かべていた。頬と目尻、そして額にもキスを落とし。くすぐったそうに目を細めたコーザの髪を指先で掬う。一つ、提案。
「…アントワンとランチ食べたら、リッツにでも飛び込んじまうか?」
「ロンドンに今日中に戻らなくて大丈夫?」
じ、と見上げられて笑う。コーザも、ふわん、と柔らかな笑みを浮かべた。

「大丈夫だよ。ランチから戻ったらシャワー浴びて、オマエと愛し合って。ゆっくりしたら、二時間ばかりストレッチして、身体解して。その後にディナー食べて、またオマエと愛し合うだろ?で、朝が来たらロンドンに戻ればいい。ど?良いプランじゃね?」
指先で恋人の傷痕を慰撫しながら、落とした声で言葉を綴る。口端には勝手に甘い笑みが刻まれっぱなしだ。
「なぁ?」
ふぃ、と真面目な表情を浮かべた恋人の顔を覗き込む。
「おれ、幸せ者ってヤツだね」
じぃ、と見詰めてきて、ふわん、とまた目元で笑ったコーザの言葉に破顔する。
「あいしてるよ、セト」
とても真摯だけれど甘い声に、小さく笑いを零す。
「オマエはこぉんなにオレのこと幸せにしてくれてンだから、もっと幸せになったってイイくらいだ、コーザ」
とん、と唇にキスを落とす。
「オレができることがあって、それでオマエが幸せになれるんだったら。それをするに決まってるだろ?」
ぺろりと笑みを刻んだままの恋人の唇を舌先で辿る。
「本音言えば、いまからオマエと抱き合いたいくらいだけどな、さすがにそう出来る程溺れちまえない」
冗談でもあり本音でもある言葉を、笑いに含んで落とす。
「アントワンも、かなりオマエのこと気に入ってるしナ」
ふわ、とコーザが破顔した。

「それはほんとうに、嬉しい」
「うん、今回もランチに誘われた時、”コーザくんも当然一緒なんだろうな?”って言ってたからな。オレ一人で顔出すと、妙に戸惑った顔するんだよ」
だからこそ、溺れちまえないんだけどな−−−アントワンもエディもシャーリィも、オレの大切なダーリンのことを好いていてくれている。だから、大切な人の評価を下げる事態には陥りたくないのが本音だ。
「じゃあ夜はリッツで決定?」
それともオマエ、他に泊まりたい場所あるか?
「リッツもいいけど、いっそコンパクトに」
そう言って、コーザがにこっと笑った。
「シャトーに泊まったばっかりだしな。ビュシ・ラタン、とかどう?」
ビュシ・ラタン?ああ、サンジェルマンに在るこぢんまりしたトコか?
「そうしたら、ゆっくりおれの好きなブロンドに戻ってくれる間もおれが楽しい、」
あそこのバスルーム、日当たりはいいしテラスからの景色も良いしね、と続けていた。
「いいよ、オマエが落ち着ける場所ならどこでも」
じゃあそこに決まりな、と笑顔で付け足す。

「あぁだけど。アントワンに会えるのも楽しみだな、」
嬉しそうに言葉を弾ませた恋人の頬を指先で辿る。
「きっと待ち構えてて、いつもみたいにちっから強いハグと頬にキスで挨拶だね。そのうち、髭でうりうりされるんじゃないか、オマエ」
オレが拒否した分、と付け足して、にやりと笑う。
「万が一頬がひりひりしたら、納まるまでキスしてようか」
最近アントワンと合う時は、余程のことがない限り個室を押さえられているから、きっとそれくらいなら出来るだろう。
「ア、そのオプション付でぜひお願いします」
そう言った恋人が、くいっと伸ばした腕でオレの頭をまた少し引き寄せ。
「アリガト、」
と機嫌良く囁いた。
そしてキャッツアイがまたすうっと見詰めてきて。
「重くない?」
と訊いてきた。へいき?と首を傾げて訊く子犬のような風情だ。
「ぜぇんぜん」
かわいいから目元に口付けちまおう。
「むしろオマエの重みは好きだし」
ふふ、と笑いが零れ出る。

「撮影の時、オマエが直ぐ傍にいるってのに、手を伸ばせなくて辛かった」
だから撮影が終わったらたまらなくなって、オマエをシャワーに連れ込んだりしちまったんだよなァ…うーん、結構煽られてたよな、オレ。
「良いアシスタントだったろ、」
にぃ、とコーザが笑い、
「そりゃ、真面目にシゴトさせてもらいましたとも」
と、自慢げに笑顔になる。
「ああいうセトのカオ、観るの好きだし。けど、観るだけじゃ終われなかったけど」
抱きしめるだけじゃ済まなかったし、と嘯かれて笑った。
「観るだけで終わられてたら、オレは引退するしかないなァ」
くくっと笑いが零れ落ちる。
「最も魅了したい相手に技も表現も通じないなら、舞台になんか立てない」
さらさら、と砂色の髪を指先で梳く。じいっと見詰めていれば、キャッツアイがゆらりと揺れた。んん、綺麗だね。口端が笑みの形にまた勝手に引き上がる。
ひとつ柔らかな口付けを落としてから、思い出して問う。

「…そういえば、ムッシュからどの服を買い取るか決めた?」
「セト……?」
わざと心配そうな顔と声をコーザが作る。する、と頬に触れられ、うん?と首を傾げた。
「−−−熱、ある?何言ってンだ、最初に言ったろ?」
全部イタダキマス。そう言い足して、コーザが悪戯っ子のように笑う。
「ムッシュ・ステファンとはもう契約済み、ぜーんぶ、無理言って”スポンサー”が買い上げました、ジュエリー込みで。トキせんせには、その我侭なヤツが誰かは、まだバラシテないけどね」
お披露目までは、せんせのアトリエにあるんだけどさ、そう言って、にこ、と笑った。
「わーお、本気だったのか!」
くすくすと笑って、頬に触れてきていた指先を軽く口付ける。
「だぁからステファン氏とあんなに親しかったのか。いつの間にそんな商談を纏めてたんだ?まあどの服もすごく着やすかったから、オレとしても嬉しいけどさ」
年が年だけにあと何年も着られるってモンでもないけどさ、と心の中で続ける。やっぱりそういう自覚は大切だしな?

すい、と目を覗き込まれた。んん?
「お披露目のときは、どれが着たい?」
キャッツアイがきらきらと煌めいている。
「麗しのサラスヴァティは有り得ねェけど」
「あはははは!あーれはなァ。舞台の上でなら問題は無ェけど、確かに人込みの中では着たくないなァ」
オマエ以外のオトコには触れられるのは御免だしな。
「そうだなァ、お披露目は早くても秋って言ってたもんな。じゃあ秋のチャイナ風か、寒けりゃ雪の女王だな。一番見応えがあるのが冬のヤツだから、インパクトのためにもアレがいいかな」
それにさ?
「雪の女王役なら、特定多数の知り合いだけに愛想良くして、知らない人間にはつんけんしてても大丈夫そうじゃね?」
にいっと笑いかける。
「オマエがエスコートしてくれたら気も楽だし、なんだか結婚式の披露宴みたいで笑えるんだけど、ちょっとそこまではオマエ目立ちたくないだろ?」

あははは、と本当に楽しそうにコーザが笑った。
「あのさ、」
キャッツアイが僅かに剣呑に細められる。ん、かっこいいぞオマエ。
「トキせんせ、おれのことたまにじぃいって観てたンだよね、特にセトをエスコートしてるときとか、で、」
なんだろうと思ってマリエンヌに訊いたんだ、と悪戯っ子の笑顔で続けられる。
「そしたらな?”ごめんなさい、アレはきっと採寸なさってるんですわ、”だってさ」
マイッタネ、とコーザが明るく笑う。へええ、結構ムッシュ、熱心にコーザのことを見ていたかと思えばそういうことだったのか。ちょっと芸術家病の激しい有能なあのセンセならそれもアリかもな。無意識に目測してそう。
「悪ノリついでにトキせんせにオトコモノでも作ってもらうかなー、」
口端を吊り上げて恋人が続ける。
「どうしようもねぇイカレタフォーマル」
あ、あのセンセの男性モノは見てみたいな。しかもクチュール。
「あ、それか。変装ありってせんせが言ってたから。おれ化けようか?」

…そういえば。
「ムッシュ・ミクーリャ、オレの結婚式には喜んでドレス作ってくれるって言ってたからなァ。お願いすればもしかしたら、作ってくれるかも。アンドリュウとは賭に負けたから、メンズも考えなきゃってパリのアトリエで仮縫いした時に頭抱えてたし。きいてみる価値はあるかもな」
しばし考える。
「…ヴェニスの仮面舞踏会みたいにしても面白いし、頭だけ狼のきぐるみもかわいいなァ。それだとかっこいいオマエが見えないケド」
に、と笑って恋人の耳朶を擽る。
「コーザ、オマエはどんな風になって女王に並びたい?」
逆に言えば、どんな風だったら人前にオレと並んで立ってもいいと思える?
ははっと陽気にコーザが笑った。
「それだと、あンたのベイビィにむしろ惚れられそう。」
狼?と言ってキャッツアイをきらきらと笑いに煌めかす。
「あのコの狼は足りてるよ。庭で放し飼いにしている番にちびが四、五匹生まれたらしいし。浮気している暇なんざないって」
まあもしかしたらマスクだけとって、オトウトに被せ…るわけないか。本物の狼の標本だったら激怒する癖に、作り物は”ちっとも似てない!”って憤慨するような厳しいコだし。

ふ、と思い付いたようにコーザが口を開いた。
「あぁ、それにこういうのも面白くねえ?トキせんせの解釈の”アンダーグラウンド”。」
にぃい、とコーザが牙を剥いて狼笑いをしてみせる。
「ナンだっけ、葉は森に隠せ、だった?」
そう言って、すい、と傷痕の残る眉を引き上げる。や、オマエそれは木だろ?木を隠すなら森に隠せ。
「表のカオはセトのパトロンでイカレタ小僧だから、それくらいしても許されるだろ、」
セトの仮面とおれの本性の組み合わせで何を披露するんだろうね、トキせんせ。そう面白そうにコーザが言っていた。
「んー、マフィアちっくかジェームス・ボンドか。雪の女王をタラすんだったら後者か?」
くくっと笑って返す。もしかしたらあのセンセのことだから、雪の女王に惚れたロシアン・マフィアなんて解釈をしてくれるかもしれないけどな。

「それか、ヴェニス風だといっそ幻想的でせんせも喜ぶかな」
「んん、イメージしやすいといえばそっちだな。マスク・オブ・ゾロみたいシンプルなので攻めてくるかもしれないけど」
その分、きっと衣裳は華美を極めそうだけどね。
「明日あたり、オフィスに電話かけてきいてみようか」
さらりと砂色の前髪を梳きあげながらきく。
「善は急げ、って言うしな?」
ふふ、と笑いが勝手に零れる。
「ちなみにオレがかけるのとオマエがかけるの、どっちの方がセンセ驚くと思う?」
うーん、と少し考えてからコーザが口を開く。
「じゃあ、難しい方をせんせにリクエストしよう、−−−だけど、」
すぅ、と甘い笑みを恋人が浮かべる。少しだけ”悪く”崩して、誑かしてきそうなカオだ。勿論これも好きなカオの一つだけどな。

「明日は無し、朝?トンデモナイ、」
声が僅かに低められる。
「セトの声をせんせに聞かせる?駄目」
おれが独り占めしてンだから。そう続けて、くしゃん、とコーザが笑った。その笑顔につられて、それもそうか、なんて納得する自分がいるのに笑う。
「だぁから、おれが掛けます、オーケイ?」
「ん、いいよ、ダーリン」
全面的に任せちまおう。
「それに、セトの声だけ、なんてせんせが果たしてデンワの中身を記憶してるかどうか怪しいぜ」
「んん?それはさすがにないだろ。なんたってデザインの話しなんだし」
くくっと笑って恋人の髪に指を軽く絡める。
「でもまあセンセ、結構オマエにも見惚れてたからな。オマエから電話貰ったら喜ぶかもな、コーザ」





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