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「エエと…おまえは…」
「お手紙を、お持ちしました」
クセのある、黒い髪。
漆黒の、強い瞳。
今は少し、困惑しているようだ。
記憶の中から何かを探し出しているかのように、視線が揺れている。
胸のポケットに手を入れて。
もう迷うことは無く、薄いそれを差し出した。
シンプルな白い封筒。
宛名は、目の前に立つ男の名前で。
大きな手が、す、とそれを受取り。
一瞬の戸惑いの後、微かな音を立てて、封筒を開けた。
小さく息を呑んで、読み始めるのを見守る。
その手紙に、特に封はされていなかったが。
フェルーシアはそれを読むなどという失礼なことはしていない。
けれど。
字面を追う男の表情を見ているだけで、なんとなくどんなものが書かれているか、解ったような気がする。
酷く真剣な眼差しが、端麗であろう字をなぞっていくのがわかる。
訝しげだった表情が、やがて険しくなっていく様が、つぶさに見て取れる。
不意に、透明の雫がいっぱいに満ちて。
少年の名残を残す、そばかすの散った頬を。
静かにすぅ、と伝い落ちていった。
音も無く、それはあとからあとから溢れて。
上質の絨毯に落ちては、吸い込まれていく。
フェルーシアは目を閉じて。
感情の波が伝わってくるのを感じていた。
硬く強張った感情。
少し触れただけで、それは脆く崩れ去りそうに張りつめていて。
波の様に押し寄せる哀しみに。
信じたくないという想いが抗おうと足掻く。
けれど。
どうしようもない喪失感は、ふわりと何かに包み込まれて。
静かに、とても静かに。
心に呑まれていった。
目を開けて、これ以上感じる必要はないと、思考を切り離す。
そして、自分の心でも。
思い浮かべるのは、もう手の届かない所まで行ってしまった人のこと。
ステキな恋をしたんだ、と、少女のような貌で微笑んだ人のこと。
赤髪の魔女、リヴェッド。
大好きな、マスター。
母のようだった人。
そして、目の前のこの人が。
リヴェッドが最期まで心を寄せた人であり。
逝ってしまった人と同じくらいの強さで。
あの人に恋をしていたのだと知る。
5年経った今でも、あの人を愛しているのだと知る。
強く、穏やかに。
心のとても深いところで。
それは、感応しようとせずとも伝わる、強い想い。
永遠に逝ってしまった人に、語りかけている眼差し。
その気持ちを感じるだけで。
自分がこの手紙を届けたことがムダでなかったと、フェルーシアは知った。
心のどこかで、安堵する自分を感じた。
* ****
零した涙はそのままに。
一つ溜め息を吐いた男が、強い眼差しを和らげ、フェルーシアを見た。
「…手紙、ありがとうな」
はたん、と柔らかく瞬いて。
エースが少し擦れた声で言った。
エースは。泣きそうな時も、笑うんだ。
そう言って笑った人も。
見守っていたフェルーシアが泣けてしまいそうなくらい、澄んだ瞳であどけなく笑った。
とても、幸せそうに。
慈しむように。
愛しそうに。
そんなリヴェッドを思い出しながら、そうっと近寄った。
労いの言葉に、小さく首を振って。
「…今更、甘えてしまうのは卑怯かもしれない、と仰っておりました。5年の歳月は…あっという間に過ぎるクセに、
その実、酷く長いから、と」
もう、傍にいてくれる人を、手に入れたのかな。
歌うように、そうなっていればいいな、と祈るように告げた美しい人の、細い肩が脳裏を過ぎった。
「オマエの…なに?マスター?」
無理に笑みを引き出したと解る顔で、エースが笑った。
「すげぇ、強情な。もっとはやくさぁ、言えっての」
小さな溜め息。
「リヴェッドさまは…」
どういう関係なのか、説明に困る。
生後直ぐに死んだ、名も無い赤ん坊の彷徨う魂。
傍にいた鴉のヒナの、死にかけの肉体に誤って入ってしまったところを、リヴェッドに見付けられ。
ヒナとして一度死んだ後、使い魔として再度命を貰った。
それから15年の間。
仕えるべきマスターとして、偉大なる魔術の師匠として、…愛すべき母として。
尊敬していた。
「…ボクの最愛のマスターで…」
慕っていた。
「…お母様です」
愛していた。
何を犠牲にしてもいいほどに。
まだ若い男は、すい、と腕を伸ばして。
「…そっか。おまえもさ、よく我慢したな」
ぐい、と引き寄せられた。
予想していなかった行動だけに、どうしていいのか解らず。
引き寄せられるままのフェルーシアの頭上で。
あーあ、おれダメだ。まだ泣くぞ。悪ィな、そう低い声が呟いた。
言ってしまっていいものか、解らなかったけれど。
この人が寄せる想いは、とても純粋だから。
総てを、知って欲しいと。今フェルーシアが思うから。
傷つけるかもしれないことを承知で、告げる。
「リヴェッドさまの体調は…お会いになる前から、少しおかしかったのです」
告げる必要はない、と、あの方は決めていたことだったけれど。
「…なんだか、時間が狂ってしまったと仰っておりました」
どうしても、声が揺れる。
きちんと、お伝えしなければ、と思うのに。
「ああいう職業の方でしたから、通常かかる負担とは比べ物にならないほどのものを、抱えていらっしゃいました」
声が掠れる。
いつでも。その巨大なる魔力ゆえに。
使う魔法が微々たるものであっても、暴走しないように細心の注意を払っていた。
魔法なんて、本当には力が無い、と言いながらも。
使い方によっては総てを破壊できる力を持つものだから。
不注意に、周りに影響を及ぼさないように。
溜めすぎないように、ほんの少しずつ、流して。
エースが小さく、そうか、と呟いて。
「それであんなに、脆いくせに…強かったんだな」
フェルーシアを抱く腕に、少し力を込めた。
フェルーシアは、小さく息を吐いて、先を進める。
「リヴェッド様のお体の調子が…急激に酷くなったのは、お亡くなりになる1ヶ月ほど前からでした。あっという間に
…弱ってしまわれまして」
「…崩れたのか?」
「それでも、少し霊感のある方なら、ハッして振り返るほど、霊力だけが増しまして」
「…ああ」
低く、くぐもった声。
一瞬、強い悲しみが、波の様に自分を抱く人を襲ったのを。
フェルーシアは自分のことのように感じ取った。
小さく息を吐いて、言葉を告ぐ。
「小さな島に寄っていらっしゃったのですけれども…一度お倒れになって、それから…ずっと病床におりました」
「最後まで…?」
「いえ、お亡くなりになる2,3日前は、少し体調がよろしかったようで…散歩などにも行かれていたのですが…」
美しい小さな島の岬で。
陽の光りを浴びて、空に溶けるように笑ったリヴェッドを思い出す。
軟らかに弾んだ声で、いい天気だな、と笑った、優しい人を。
「…そうか」
ほんの少しだけ、安心したようなエースの声。
今でも優しい気持ちで、リヴェッドを愛すこの人には。
しっかりと伝えなければ、と心を決める。
* ****
『いいか、フェルーシア。今はとても気分がいいから。今のうちに、オマエにこの魔力を渡してしまおうな』
小さな島の端に借りた家。
ちょっと立ち寄るつもりでここに来てから、2ヶ月目。
長い赤い髪を緩やかに垂らして。
燦々と輝く太陽の光りを背に、1週間ぶりにベッドから起き上がったリヴェッドが言った。
『そんなことをなされたら、リヴェッド様が…』
『こら、泣くんじゃない。どうせ、この肉体は、もう限界なんだ。今は魔力で、保っているだけなのだから』
『それならば、いっそうのこと…』
とうとう泣き崩れたフェルーシアに、リヴェッドはやさしく微笑みかけて言った。
『ルシーア。オマエは聡い子だから。そんなことはできないと、知っているだろう?
ワタシが死んだら。今のままでは、オマエだって、1週間と保たないだろう』
『それでも構わないのです、リヴェッド様。リヴェッド様がいなくなったら、ボクはどうしていいか…!』
本心からの言葉に、リヴェッドは笑みを深くして言う。
『コラコラ。そんなことは言うもんじゃない。オマエはちゃんと一人で生きていく術を身に付けていると、何度も言って
あるじゃないか』
そうして、やさしい指で。
フェルーシアの頬を伝った涙をそうっと拭った。
『フェルーシア。15年も、使い魔として働いてきてくれたんだ。ご褒美くらい、貰ってくれないか?』
『リヴェッド様、ボクは元々…』
死んでいる者なのです、と囁くように言ったフェルーシアに、からりとリヴェッドは笑って。
『ああ、そうだな。だけどな、フェルーシア。15年も、オマエをワタシのワガママに付き従わせたお礼くらい、させてくれ』
そして、歌うように、悪戯っ子が内緒話をするように。
刻んだ笑みを深くして言った。
『それに。生きてるってのは、悪いことじゃなかったぞ?中々、楽しめたものだったと、最近になって思えるようになった』
無言で見上げるフェルーシアの前髪に、リヴェッドは手を伸ばして、そっとかき上げた。
宝石より美しい緑の瞳が、フェルーシアの灰色の目を覗きこんだ。
『オマエはまだ若い。もちろん、楽しいことばかりじゃないだろうが。今度は自分の為に生きて、生きる楽しみってヤツを
味わってくれ』
堪え切れなくて、目を伏せて首を振ったフェルーシアに、小さく溜め息を吐いて。
『ルシーア。このままオマエにこの力を渡すのが、一番いいんだ。このままワタシが持ち続けたら。魔力だけで生きる、
意識のない人形になってしまう』
そうしたら。またどんな霊に使われてしまうか、わからないだろう?
優しく諭す声に、項垂れたフェルーシアを、やさしく引き寄せて。
『出来るだけオマエに、渡してあげたいから。多くオマエに渡せば、オマエは鳥の容を取り続けることは難しくなってしまうが、
それだけ人型でいられるだろう?オマエは元々人なのだから。人として、生を楽しんでくれ』
そうしてその日の内に。
魔力をフェルーシアに譲渡する術を行った。
それが、自らの死期を早める事を承知の上で。
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