* ****
一つ息を吐いて、記憶の海から舞い戻る。
あの時に、魔力を受取っていなければ。
あるいはこの人に、最後に逢わせてあげられたかもしれない。
そう思うと、不意に切なくなった。
責められることではないと、知っていても。
ほとり、と涙が零れて。
エースの大きな手が。
ぽんぽん、とフェルーシアの頭を撫でた。
「スミマセン」
取り乱したことを誤り、言葉を続けようとする。
「リヴェッド様は、ボクに…」
しかし、言葉を続けることが出来ず。
嗚咽交じりの声で、先を続ける努力をする。
「ボクに…持っている力を…お渡しになるから、と…」
ほとほとと零れ落ちる涙に、一つ息を深く吐いて。
「残っていた力を全部使って…ボクを、この姿に…してくださいました」
最後まで、言い切った。
「…ハ。リヴェらしいや」
呟いたエースが、小さく息を吐いて。そしてそうっとフェルーシアを抱き込んでいた腕を緩めた。
にこりと笑って、フェルーシアの目を覗きこんで。
「おまえさ、あのとき。リヴェ迎えにきてたチビだろ?」
不意に5年前の情景が脳裏に浮かんだ。
懐かしいブッシュミル島の、小さな港。
大好きなご主人様を抱いていた、若い男性。
満点の星空。
「…そうです」
リヴェッドを抱えて船を下りてきた男性に。
確かにフェルーシアはお辞儀をした。
遠くから、ご主人様を大切に愛しんでくださいまして、ありがとうございました、と。
しかし、覚えているとは思ってもおらず。
一つ、瞬きをして、エースを見上げた。
あの時と同じ男性を。
「あー、やぁっぱり?」
少しおどけたエースの声がして。
それから、内緒話をするように、くすん、と笑って言った。
「おれさ、ガキがいるからな、無理矢理カッコつけてたんだぜ?ハハ。じゃなきゃあぜってえあのヒトのこと、腕から
降ろさなかったさ」
一つ息を吐いて、今度は小さく呟くように。
「じゃあなきゃあ問答無用でサ、あんまま船に戻ってたな」
それでは。
もしかしたら、自分は大切なご主人様を。
知らず知らずの内に、自分に縛り付けてしまっていたのだろうか。
この人と過ごせたかもしれない時間を、奪ってしまっていたのだろうか。
そう思うと、また別の意味で、胸がいっぱいになって。
「…それは…大変、申し訳ないことを…」
新たな涙が、ハタハタとフェルーシアの目から零れ落ちていった。
「バーカ、おい」
エースが手で、そんなフェルーシアの頭をグシャグシャと掻き混ぜて。苦笑を混ぜた声で、言葉を続けた。
「元チビ。泣くんじゃねえよ、感謝してるんだからさ、おまえには」
フェルーシアには、確かにこの男性が自分に感謝の念を寄せていることを、感じ取れたけれども。
それでも、悪い事をしてしまった、という思いを打ち消すことができず。
視線を落として、静かに涙を零した。
そんなフェルーシアの様子に、エースは更に小さな頭を掻き混ぜて。
「おまえが来てたおかげで。おれはリヴェに酷いことしなくて済んだんだから」
そう告げた。
意味が解らず。
酷い事ですか、と問い掛け、視線を上げたフェルーシアに。
エースは、ああ、と頷いて。
「おれの方から、あのひとをあの場所に。還してやることが、できたんだから。そんなこと、おれがいつまでもあのヒトを
抱いてたら。リヴェが自分から、おれから離れなきゃいけないだろうが」
そして小さく息を吐いて。
「そんなこと、させなくて済んだんだ。…アリガトウな」
ふんわり、と笑った。
礼を言われる筋合いではない、と、フェルーシアは思い。
小さくフルフルと首を横に振った。
そんなフェルーシアに、エースは肩を竦めて。
「いまなら。自分からあのヒトのことを腕から降ろせるかもしれねェけど。5年も前なんだ、おれだってただの若造だったからさ、
できやしないって」
自嘲に近い苦笑を、頬に刻んだ。
* ****
涙が引いて、少し落ち着いて。
フェルーシアは小さく息を吸ってから、次の言葉をそうっと舌先に乗せた。
「リヴェッドさまは…何度も、何度も、繰り返し、ステキな恋をしたんだ、と…仰っておられました」
「リヴェが?」
面白そうに、そしてとても幸福そうに、エースは笑って。
フェルーシアは目を閉じて、そう告げた人の面影を思い出した。
「時々涙ぐまれて。時々、それは幸せそうに微笑まれて」
そんなフェルーシアの言葉に、エースは小さく笑って。
「クソ、あーいかわらずイイオンナだな、あのヒトは」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
「ステキなヒトを…心からスキになったんだ、と」
繰り返しフェルーシアに告げた、軟らかな光りを湛えた緑の瞳。
「あのヒトに会えただけで、心から自分の生を祝福できるよ、と」
口元に刷かれた、うっすらとした微笑み。
魔女と呼ばれた人なのに。
いつでも優しく、力強く。
そしてどこまでも、透き通るように透明な人だった。
告げられた言葉に、エースは僅かに目を細めて。
「…驚け。それはおれなんだぜ?」
ちらりと笑った。
フェルーシアも同じ様に笑みを浮べて。
「…存じ上げております」
潤んだ瞳を、ゆっくりと閉じた。
「…おれもさ、いつもいつも思い出してた」
エースの言葉に、フェルーシアはそうっと見上げた。
「あのヒトのさ、わらったカオ。すげえ、綺麗だったろ?」
エースの、懐かしむような笑みに。
フェルーシアは少し、首を傾げて。
「リヴェッド様は…不思議な方で。時々…ふわりと笑っておられまして。どうかいたしましたか、と訊ねると…」
「うん」
「愛しい人が、幸せでいるような気がした、とお応えになられました」
笑ったままの、エースの双眸に。
さぁと涙がまた満ちたのが見て取れた。
フェルーシアは、小さく笑みを浮べて。
「マスターは。どんなときでも、美しいお方でした。お亡くなりになられる瞬間も…お亡くなりになられてからも」
エースがそうか、と呟いて。
それからゆっくりとした沈黙が、二人の間に落ちた。
けれど、それは悲しみだけに溢れたものではなくて。
ふう、とエースが息を吐いて。
空咳を零してから、口を開いた。
低い声で、そうっとフェルーシアに告げる。
「おれな、リヴェの。笑った顔を思い出す度に。胸の中で話し掛けるたびに。生きてるのも悪かねぇな、ってさ…そんなことを、
思ってた」
フェルーシアも、軟らかな笑みを口元に刻んだまま、エースにそうっと言う。
「リヴェッドさまは、なにも仰らずに…息をお引取りになったのですが…最後に、満足げな溜め息を、お零しになられまして」
うん、とエースが相槌を打って。
宥めるように、とんとん、と軽くフェルーシアの頭を撫でた。
「微笑みを浮かべたまま……」
お亡くなりになられました。
囁くように告げた瞬間、ほろりと涙がフェルーシアの頬を伝った。
エースはそれを、すいと指で掬い取って。
「…ありがとうな、おれにそれを、伝えに来てくれて」
そして小さく、軟らかに微笑んだ。
* ****
何週間か前に飛び立った、小さな島の岬の先端。
大理石の墓石が、昇ったばかりの太陽の光りを弾いていた光景を思い出す。
美しい人が眠る場所。
リヴェッドが眠る場所。
フェルーシアは少し声を強めて。
エースの出方を見ながら、言葉を紡いだ。
「…小さな島の端っこに、お墓を立てさせていただいたのですが…ボクの独断で、お遺髪を少し、戴いてしまいました」
その言葉に、エースは僅かに首を傾けた。
胸元の、心臓に近いポケットに入れておいた小さな包みを、そっと取り出す。
「…お受け取りになられますか?」
エースはふわ、と微笑んで。
「…ああ」
少し頷いて、ゆっくりと手を差し出した。
「いいのか…?」
こくん、と頷いて。
フェルーシアはその包みをエースの手の上に乗せた。
「どうぞ」
受取ったエースは、包み紙を開いて。
5センチほどの長さで切り取られた一房の赤い髪に、そっと口付けを落とした。
リーヴェ、と小さく、名前を呼んで。
そんなエースを見守りながら。
「島の方が…埋めてしまうのが勿体無いと仰るくらいに…お美しい死に顔でした」
フェルーシアが告げた。
元通りに遺髪を包みなおして内ポケットに収めながら、エースはキラリとした光を目に浮かべ。
「ハ。アタリマエだろう?おれの、オンナなんだからよ」
ちょっと自慢げに、からかうような口調で言い放った。
フェルーシアはふわりと笑みを浮べた後に、真摯な眼差しを浮かべ。
「ご遺体は、遺言どおりに…土葬にいたしましたので。肉体は土に、心は海に、想いは空へとやがて消え行く、と」
ゆっくりとリヴェッドの口調を思い出しながら、エースに告げた。
「…そうか、リヴェらしいな」
くすん、とエースが小さく笑って。
「空、か…」
ぽつん、と言葉を繰り返した。
「生前、リヴェッド様が、そう仰っておりました。そうしたら…いつでも、どこでも。愛しい人のそばで、笑っていられる、と」
死ぬってのも、そう悪いことじゃないかもしれんぞ、フェルーシア?
肉体という魂を縛る容れ物が無くなれば。
好きな人の傍で、いつでも笑っていられるじゃあないか。
…ルシーア、愛しいルシーア。オマエの傍にだって、いつもいるよ。
だからオマエは。この世に生を受けたことを、楽しみなさい。
イイ時も、そうじゃない時も。それが生きるということなのだから。
白くて長い指が、柔らかく頬を撫でた感触が甦る。
ひんやりと冷たい指先。
長すぎない爪。
染みとおるような、軟らかな笑みを含んだ声。
和らいだ、緑の双眸。
キラキラと輝いていた、透き通った瞳。
整った貌を華やかに縁取った、赤い髪。
太陽の紅炎の、色。
「ボクは…ほんとうに、リヴェッドさまを…お慕いしておりました…。あんなマスター…望んでも、他にいらっしゃいません」
ふんわりと笑ったフェルーシアに。
「だな、チビ」
エースがにこりとして。
そうして、フェルーシアは。
この男と、愛しい人についての思い出を分け合う事が。
赦されているのだと、知った。
目を伏せて、ステキな人なんだ、と笑った人を、思い出す。
今でも胸が温かくなるような、そんな微笑みを。
そうですね、リヴェッド様。
そう心内で呟いて。
溜め息のように声を潜ませて。
「やさしい…やさしい、おかあさまでした」
そうっと呟いた。
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