ティ

タイム



 かちゃ、とティーカップがソーサに触れ合う音が僅かに響きました。
 耳触りではなく、それすらも管弦楽団の四重奏が奏でる優雅な響きに味を添えているような音です。
 それもそのはず、シンプルでも高価なマスターピースの作品である茶器が立てている音だからです。
 ショーンは僅かに舌に残る紅茶独特の苦みにほんの少し目を細めながら、視線を横へ投げ遣りました。
 黒く塗られた金属でできた大きめの釣り鐘型の鳥かごの中には、金色の小鳥が止まり木に停まって首を傾げております。
 ショーンが薄っすらと口端を吊り上げて、カナリヤから視線を目の前に戻しました。
 ショーンの魔道の師と、王の従妹のレディ・ジェーンが和やかに歓談をしております。
 王宮の庭で咲いた虹色の薔薇と、その花弁から抽出した香水のことについて語っているのです。
『もーそろそろ帰りたいんだけどなぁ』
 そう内心でショーンは思いますが、虹色の薔薇はショーンがレディ・ジェーンに頼まれて細工した魔法の薔薇です。
 そして、その花を積んで香水を作ることができるのも、ショーンやいま同席している師匠、そして国内でもごく少数の魔法使いだけです。
 始めて作る魔法の虹色薔薇の香水ということもありまして、今回は特別にショーンが作ることに同意をしました。
 そして、今日王宮に立ち寄ったのも、出来あがったその香水を届ける為だったのです。
 ショーンの住んでいる魔法のお城の庭にこれでもか、と咲き誇っている薔薇を、『とってもきれいですねえ』と満面の笑顔を浮かべたノーマンに朝露がまだ残っている時間に摘んで貰うのは楽しいことでしたし、新しい魔法のレシピを編み出すことはショーンにとっては楽しみであります。
 ですので、香水を作る過程をショーンは無駄だとは思っておりませんでした。
 が、こうしてレディ・ジェーンと師と三人で揃ってお茶をすることはショーンの本意ではありません。
 チーピッピと麗しい声で囀るカナリアの声にストリングスの柔らかな音色がアルファ波をどっぷり出させようと密かに頑張っておりましても、ショーンの心はここに在らず。にこにこと見送ってきていたノーマンのことを思っていたりしているのでした。
 レディ・ジェーンに嫌われようと、王御本人に嫌われようと、ショーンにとってはたいしたことはありませんが、ぶしつけであるように思われるのは心外です。
 ですので、ショーンはこっそりと欠伸を噛み殺しながら、レディ・ジェーンたっての願いだったというこの面談時間が過ぎ去るのを、耐えているのを悟られないように気取りつつもじっと待っているのでした。
 そんなショーンはそもそも大変麗しい外見をしているので、表面的にはちょっぴりアンニュイな雰囲気が漂っており、レディ・ジェーンの心は『ぎゃー!この面談捻じ込んで良かったぁ!』と絶叫の嵐です。
 王宮トレンド・ファッションや虹色薔薇の香水でのビジネス展開、または国賓への特別な賜り物としての価値などをサリンベック師匠とお話なさっている間も、心はドキドキ、目はばっちり、たまに齎されるショーンの柔らかな口調でのコメントを一言も聞き逃すまいと高性能脳内記録装置をフル活用していらっしゃいます。
 そして、二人のそんな状態をきっちりと理解していらっしゃるベン・サリンベック師匠は、王の従妹へのサービスと、部下であるショーンの仕事ぶりとを秤にかけつつ、心の中で大いに溜息を吐かれています。
 戦争大好き『領土絶賛拡大中!』な王が今頃何をしでか…いえ、計画なさっているのかそろそろ気にかかる頃ですし、この面談に幕を引くタイミングを狙っております。
 かちゃ、と紅茶を飲み終えられましたレディ・ジェーンがソーサごとカップをローテーブルにお下ろしになれるのと同時にストリングスの音が途切れ。ポーン、と奥の部屋に置いてある柱時計の音が丁度響きました。
 カナリヤを見遣っているフリのショーンの心がとっくに森の居住に戻り、唯一の“家族”のところに飛んで行っているのを見遣って内心しょっぱい顔をしつつも、もう十分だな、と見切りをつけてサリンベック師匠が口を開きました。
「レディ・ジェーン。申し訳ありませんが、そろそろ王との謁見の時間と相成りました」
「まあ、もうそんな時間ですの?」
 大きく目を開いたレディに、サリンベック師匠が頷きました。
「御説明申し上げるのに、予想以上にお時間を頂戴してしまいました。申し訳ございません」
「こちらこそ、お忙しいサリンベック様のお時間を割いて頂き、恐縮ですわ。あと―――ペンドラゴン様にも御同席頂けて」
 優雅なトーンで柔らかな微笑を浮かべて告げたレディを振り向き、ショーンがにこりと笑いました。
「今回は特に良い出来でしたので」
「まあ!本当に貴重なものになりますわ」
 さらりと首を傾げたショーンの金髪が軽やかな音を立てたのを、心のレコードに録音して、レディ・ジェーンがゆっくりと立ち上がりました。
 サリンベック師匠とショーンも倣って立ち上がります。
 する、とシルクの手袋と大きな宝石の指輪を嵌めた手がショーンに差し出されました。慣れた手付きでショーンもその手を取り、軽く口づけるフリをします。
 にっこり、と微笑んだレディが、それでは本日はこれで、と仰るのに、サリンベック師匠が「ドアまでお送り致しましょう」と先を促しました。
 部屋の中で控えていたレディ付きのメイドがそれは美しい箱に納められた一品ものの香水を大事にドアまで持ち運んでいくのを見送りつつ、ショーンはそのままじっと二人を見送ります。
 ちら、と視線だけ流して寄こしたレディに優雅に会釈をし。二人と侍女と部屋付きのメイドたちが出ていくのを待ちました。
 何やら朗らかに言い交わしながら、政治的な駆け引きを最後まで繰り広げている二人の声が聞こえなくなったところで、ふー、と大きく息を吐き出しながら、ショーンがとさりとソファに腰を下ろしました。
 ぱちん、と指を鳴らして、ショーンの持ちモノである箱だの包み紙だのをあっという間に片づけてしまいます。
 そして懐から紙巻きを取り出しますと、チッと爪を鳴らして火を付け、ふー、と煙を吐き出します。

 戻ってきたサリンベック師匠が、あっという間にリラックスムードになっているショーンを見て、しょーがねーな、オマエ、という顔を浮かべられました。
「師匠」
「なんだ」
「明日は城まで来ませんよ、オレ」
「そうか」
 同じように紙巻きを取り出したサリンベック師匠も、チ、と指を鳴らして煙草に火を点けます。
 暫く二人で黙って煙草をふかします。
 横からそっとメイドが紅茶を継ぎ足してくれようとするのに、サリンベック師匠が手で押し止めました。
「もういいよ、ありがとう」
 コイツも帰るから、また後できて片付けてくれ、と続けられ、かしこまりました、と膝を折ったメイドがまた持ち場に戻っていくのを見送らずに、ショーンはサリンベック師匠を代わりに見上げました。
「また明日からは通常の研究に戻りますが」
「ああ、そうしてくれて構わない。ショーン、よくやった」
「ありがとうございます」
 ぎゅ、と煙草を灰皿でもみ消して、ショーンが立ち上がります。
「では何かありましたら、また御連絡ください」
 頷いたサリンベック師匠が、立ち去ろうとしたショーンを呼びとめました。
 ちら、と視線を遣りますと、師匠がポケットの中に手を入れ、何かを取り出し、それをショーンの方に差し出しました。
「なんですか?」
「金貨チョコレートだ。ノーマンくんに」
「……どうされたんです?」
 苦笑して受け取ったショーンに、師匠が肩を竦めました。
「隣の国の使者が土産物として持ってきたものだ。キャンディが散っている珍しいものらしい」
「吃驚しました。この間ウチにいらした時にお土産としてお持ち頂いたエンドレスわたがし壺みたいに、食べても無くならないのかと」
「そのほうが良かったか?」
 眉を跳ね上げた師匠に、イイエ、とくすりと笑いながらショーンが言いました。
「物凄い気に入り様なもので。あれ以上甘いものがいくらでも出るものは、さすがに」
「甘やかしているクセに締めるところは締めるな、オマエ」
 くくっと笑った師匠にショーンが肩を竦め、金貨チョコを黒いスウェードの子袋の中に入れました。
「あれ以上甘くなっても困りますからね」
「――――――」
 く、としょっぱい顔を遠慮なく浮かべた師匠に、ショーンがくすりと笑いました。
「とはいえ、有り難く頂戴していきます。では師匠、また後日」
「ああ。ノーマンくんによろしく」
 ひら、と手を振ってそれを挨拶とし、ショーンがベランダに向かいます。
 今日は正式な方法でお城まできたので、帰りも途中までは空を歩いて帰ります。
 町の小高い丘の天辺に立つお城の、サリンベック師匠に与えられた部屋のベランダからは城下町とその周りを囲む深い森がよく見えますが、ショーンがノーマンと住んでいる魔法の城までは随分と距離があります。
 今日は城下町にショーンが持っている一軒家まで戻り、そこのとある部屋を入口として繋いだ空間を通って居住しているお城まで帰らなければなりません。
 羽根を豪奢にあしらったコートを肩に引っかけるようにし、茜色に染まりつつある空を渡って一軒家まで向かいます。
 眼下に見える素晴らしい景色とは裏腹に、なぜか嫌な気がするショーンです。
「―――なんか、しでかしやがったか?」
 ぼそ、と呟いたショーンがノーマンに施している守りは完璧ですので、ショーンが不在の間にノーマンがイノチに係わるような重大な事故に巻き込まれていることは絶対にあり得ません。
 ですが、真綿に包んだようにして育ててしまえば、強く健やかにノーマンが育たないことも知っているので、過保護になりすぎないように気を付けているショーンでもあります。(とはいえ、ショーンの内に潜む魔のルーにしてみれば、「大概甘ェよ」ということになりますが。)
 ショーンの領土が他の魔法使いや事象に襲われていれば、ノーマンのボディガード代わりに召還したケロベロスやショーンの魔法のお城自体が何かしらの警告を発してきます。
 ですので、この胸騒ぎはそういったものの類ではありません。
「…オーブン爆発させやがったかなァ」
 こり、と優雅に額を細長い指で掻きつつ、いま思い悩んでも致し方がない、と自分に言い聞かせ。
 それでも、自然と早くなる足取りを止めることはせずに、ショーンは家路を急いだのでした。