負け
ない
こぐま




 穴底の枯れ草のほんの少しあっただけの場所に、上の方からノーマンが転がり落ちてきました。
 ずいぶんとがんばって、土壁をよじ登っていったのですが、この穴はちょうど深い花瓶か壷のようになっているのです。
 穴の入り口に向けてまっすぐに上ってはいかずに、ぐうっとそのずっと手前でアーチのようになってどうしてもそこから先へ進めなくなるのです。
 それでもがんばって途中まで上ったのに、手を掛けた土壁と爪先を支えていた石かぼろりと崩れたのです。
 ひゃああ、と声を上げる間もありませんでした。
 だからノーマンはお口を「あ」の形に大きくひらいて、まっさかさまに穴底へ落っこちていったのです。
 あんなに大変な時間を掛けていっしょうけんめいのぼったのに、落ちるときはほんの数秒しかかかりませんでした。
 魔法の掛かったお城と違って、穴底に身体を思い切り打ちつけてしまってノーマンは痛みにしばらく声も出せません。
 それでもおっこちてくる途中に、そこはもとは森で暮らしていたので、身体をなるべく丸めてぼうぎょしていました。肩と背中から落ちましたので、ノーマンは身体を丸めて涙を堪えました。
 地面にぶつかったときに、ブーツは片方跳ね飛んでしまって裸足からは血が出ています。
「ぅう、」
 痛くないほうの手をついて、ノーマンが身体を起こしました。両手は泥だらけです。
 けれど、ぼろっと涙が零れてしまってノーマンは手でごしごしと目元を擦りました。
 これで、落っこちるのは二度目でした。
 そして、ノーマンはまた、ぽかりとのぞく穴の入り口を、き、っと見上げました。口許はまっすぐに引き結ばれています。
 さっきと、もういっかい前のとは違う場所からまた土壁を登るつもりなのです。

「き、っと。べつの方からなら」
 嗚咽をがまんしてそう呟きます。
 がんばりやさんなだけでなく、果敢な挑戦者でもあるのです。そしてノーマンはとても頑固なのです。
 よし、と小さく言うと、ノーマンは赤いケープの端をきゅっと握りました。二度も転げ落ちているので、草や泥やらが着いて汚れてしまっています。
 けれど、泥のついた手でまたフードをしっかり被りなおすと、ノーマンは土壁にかじりつきました。
 そして登っていきます。途中まではそれほど難しくないのです。
「もう、すこし」
 自分を励ますように、手を伸ばすたびに呟きます。
 あんまり上を見るとバランスが崩れてしまいますし、目に土くれが入って痛たくて、一度目は転げましたので目の前にしゅうちゅうします。
「あら」
 右の、裸足のほうがしっかりと土をつかめる気がします。
「はっけんですよ」
 そうこっそり言うと、ノーマンは左足のほうもぶらぶらとさせてブーツを脱ぎ落として、それからソックスも落とします。
「ぉおおと」
 バランスがあぶなっかしくなって、しっかりと両手で大きな石くれを掴みます。
 大きな岩が土に隠れているようで、ノーマンの重みがかかった程度ではびくともしません。
「これならうまくいきいきそうですよ」
 しっかりと声にだして、ノーマンがよいしょと身体を伸ばして、その石に足を掛けてもっと上の方の土に手を掛けます。
 二度目のときより、高いところまでこれています。
 もしかしたなら、こんどはうまくいくかもしれない、とノーマンが思って、もう一歩、二歩、と登っていきます。
 手が、しっかりとした土の窪みにかかります。
「んん、」
 これで安心です、あとは右足を―――
 そのとき。
 左足を預けていた土のでっぱりが、ぼこりと崩れました。
「っひゃ?」
 ぶらん、と身体が一瞬だけ宙吊りになります。
 両方の手が急に熱いお湯につけたようになります。びりっととても嫌な痛さがノーマンの頭のてっぺんに突き刺さります。
 けれどそれもほんの一瞬のことで、足元が崩れて手も土壁から離れたノーマンは三度目はもっととても高いところから、まっさかさまに転げ落ちてしまったのです。
 どおおん、とこんどは穴底の端の方まで落っこちたはずみで転がっていきます。
「ひゃああああ」
 こんどこそ、ノーマンはびっくりして大きな声をあげていたようです。
 転がって壁に一度正面からぶつかって、ごろんと跳ね返ってお背中をこんどは打ち付けて、息ができなくてくらくらします。
 ケープがお顔にかぶさって、よく前も見えません。いたたたた、と言いたいのに、声もだせません。
 目の前がくらくらとして、なんだか気持ち悪くなってきてしまうのに、お口をまっすぐに引き結びます。そうしないと、泣いてしまいそうだったからです。
 お手手もなんだか痛みます。それでもがんばって身体を起こします。
 そのときに、ぼろりとほっぺたを涙が転がり落ちました。ノーマンは自分が泣いていたなんて、知りませんでした。
「し、しぉおおおお、」
 ぼとぼとと泣きながら、ケープをはたこうとして、ひゃああああんと大きな声をあげてしまいます。
 さっきまで熱くてびっくりしていた両手の先が、いまは血だらけだったのです。
 それに、ずきずきと痛くて心臓が跳ね上がりそうです。なにかにすこしでも触れると、飛び上がりそうに痛むのでノーマンはびっくりしてぶるぶると震えはじめました。
「ぉおおおん」
 こぐまのように大声を上げてしまいます。
 ぼとぼとと零れる涙をそれでも手で擦ってしまって、どろんと血で濡れてしまうし、指は千切れそうに痛いしで、ノーマンは跳ね上がってしまいます。
「し、しぉおおおお」
 おいおいと泣き声をあげて、それでもノーマンはあきらめません。
 泣きながら壁にぶつかります。
 肩からぶつかって、跳ね返って尻もちをついてしまいます。
 手が地面に擦れてまた悲鳴をあげて、身体を縮めて丸くなってどこかへ隠れてしまいたくなります。
 けれど、ノーマンはまたおいおいと泣きながら壁を登り始めたのです。
「ひー…っん」
 あまりに痛くてお星様が目のすぐ前でチカチカします。
 お爪がなくなってしまったように手がぐにゃぐにゃで力が入りません。
 ほんとうに、爪を剥いでしまっていたことは、ノーマンはしらないのです。
 だからぶるぶると震えてぐにゃりとしてしまう指のお腹のほうを土壁に押し当ててがんばろうとします。
 体重を支えるほどの握力がノーマンにあるはずもありませんから、不安定な足場だけでとうてい身体を支えることなどできません。
 こんどは、どの挑戦のときよりも低い位置から、落っこちてしまいます。
 そして、身体をまるめて「ぼうぎょ」することも忘れるくらい、指が痛かったのでそのまま落ちてしまったので、低いところといっても今度は全身を硬い底に打ち付けてしまいまいした。
 ごぼりとなんだか嫌な音がしました。
 ほっぺたが土に当たります。
 ひんやりとした土と、枯れ草のちくちくして痛いのがほっぺたに当たります。
 小石もちょっとだけ刺さっているようです。お膝までじんじんしてきます。
 こぐまだったころ、高い崖から落っこちて身体中が痛くて二日、動けなかったことがありましたが、そのときと同じくらい身体中が痛みました。
 そして、10本とも指は、ノーマンがこぐまだったころを入れてもこんなに痛い思いをしたことはなかったほど、酷い痛みようなのです。

「おっこちました」
 ぼろぼろとノーマンの目から涙が零れます。
 それが小さな傷や切り傷にあたって滲みるのに、ぎゅううとノーマンが口許をひん曲げました。
「おきないと、」
 がんばって身体を起こそうとして、指で地面を引っ掻いてしまってノーマンはまた大きな声をあげて飛び上がります。
 手を、「ぐー」の形に握ってがまんしたくても、そんなこともできないほど手が痛くて痺れます。
 だから、手を「C」の形にまげて、おんおんとノーマンは声を上げて泣きながらよろよろと立ち上がりました。
 お膝もがくがくとしてしまってまっすぐに歩けなくて、目の前までまっくらになって何度か瞬きします。
 穴の底にいても、森はもう夕方になってきているのがわかります。さっきよりもうずいぶんと暗いのです。
 ふらふらとおぼつかない足取りでノーマンが穴底の真ん中まで歩いていって、上を見上げました。
 ぽかりと遠くに暗い空が見えます。
 ひぃいいいく、と嗚咽を飲み込んで、ぐ、とノーマンが手で目元をまた拭いました。泥と血でまたまだらに線が顔に模様を追加します。
 C字型にした手をじっと見詰めます。
 指先にしんぞうが移ったようにずっきんずっきんと痛みます。
 森のお家のドアに、指を挟んで痛くて大声を上げて飛び上がったときと同じくらいか、もっとずきずきします。
「あのときは、」
 ひぃーく、とノーマンがしゃくりあげます。
「すこし、おゆび、ぶらんってなりましたものねえ」
 そうなのです、森の魔女の魔法のせいでその程度で済んでいたのですが、ほんとうなら千切れていてもおかしくないほどの重症でした。
 しかも、くまの手をしていてそれなのです。
 ふううう、と震える息を指に吹きかけてみます。すこしはずきずきが薄まるかと思ったのですが、あまり効果はありません。
 ひりひりとします。
 そしてよせばいいのに、また土壁に向かって歩いていきます。
 手をケープの下に隠すようにして、手袋の代わりに生地を使おうと考えたのです。
 指先が生地に触れるだけでびりびりとして涙が零れますが、それでも何歩かよじ登ります。
 お口はまっすぐに引き結んで、泣き声を上げないようにがんばります。
 でもこんどはケープの生地が邪魔で前が見えませんから、ほんの数メートル必死になって登っただけでまた穴底に壁を滑り落ちてしまったのです。
「ひゃああああああああああああ」
 ゴン、と地面に頭を打ち付けて、ノーマンが悲鳴を押し込みます。
 くらっとします。
 目の奥が熱くなって、七色のお星様が見えました。
 足が震えます。手に力がもう入りません。

「うぉおおおおおおん」
 哀しくなってノーマンが声を上げました。
 もうずっと穴の底に閉じ込められたままでいなくてはいけないのかもしれません。
 二度と外へは出らなくて、大好きなショオンにももう会えないかもしれません。
 お手柄ぺっとの大事なこたちとももう遊べないかもしれません。
 森のおともだちだって、だれもノーマンがここにいることをしりませんからお城まで助けを呼びにいくことはできないでしょう。
「ぉおおおおおん」
 どんどん哀しくなってノーマンが大きな声で泣きじゃくります。
 手のひらをつかって四足で這うように、ノーマンが土壁の方へのろのろと進んでいって、丸くなります。
「し、ぉおおおおおん」
 咽喉がいがいがとして声が枯れそうになっても、おいおいと泣きつづけます。
 お星様ペンダントがぼうっと柔らかな光りを放って、どうにか穴の底はまっくらにならずに済んでいることも、ノーマンは気づけません。
 おいおいと泣きながら、それでもどうにか外に出れないものかと考えて、は、と気づきました。
 ぶるぶると震えながら、それでも首を回して背中側の土壁を見ます。
「あ、」
 ひぃいいく、と嗚咽が洩れます。
「あなをほって、上に行けば…っ」
 決意を固めて、ノーマンがごそごそとブーツを履きに戻ります。
 手は痛くて使えませんから、まず最初は足で穴を掘り拡げていくつもりでした。
 ぼとぼとと涙を零しながら、ノーマンがブーツのつまさきで土壁をけり始めました。
 足首までの深さに掘れたとき、けれど。
「ひゃああん!」
 どご、と岩に爪先を打ち当ててノーマンが背後に転がります。
 じんじんとする足を抱えて、ノーマンが呻きます。
「ぃ、いわ!」
 反対側の壁を掘り進まなければいけないでしょう。
 ぼろっとまたノーマンの目から涙が零れました。
 こんな意地の悪い穴は見たことがありません。もしかしたら、ぐるっとぜんぶ岩に囲まれているのかもしれません。
「ひ、」
 自分の考えに、ぶるりとノーマンは震えてしまいます。
 そして、またとてつもなく哀しくなって、おんおんと穴の真ん中にしゃがみこんでこんどは泣き止めなくなってしまったのです。