ひと
とき




 書斎の大きな窓から明かりに満ちた庭を眺めながら、ショーンが溜息を吐きました。
 手にはノーマンが淹れていってくれた紅茶の入ったカップがあります。
 たくさんの本や素材が乗せられた机の上には、ノーマン手作りの焼き菓子が乗ったプレートが置かれています。
 精霊に着いていって森の奥に踏み込んだ挙句、迷子になって深い大きな穴に落っこちていたノーマンは、1日経てばもう元気っぱいになっていて。先ほど番犬のケロベロスを連れて出掛けていった所です。
 玄関の真上に突き出たガーゴイルが、そうっとその旨を告げましたので、ショーンはぱちりと指を鳴らして、ランタンに一同の後を追わせました。
 そして、ショーンが告げたことの恐らく10分の1くらいしか理解していないノーマンのことを考えて、ため息を吐いたのでした。
 伝わっている唯一のことは、ショーンがノーマンを愛しているということです。それがいちばん大切なことなので、ある意味問題はないのかもしれません。
 けれど―――今朝のノーマンのセリフを思い出すだけで、溜息が零れます。
 最近、低学年用の書物が漸く読み書きができるようになってきたノーマンですが、実際の年齢の子のレベルにはまったく到達していません。
 それどころか、考え方や物事の捉え方も、森でたった一人で暮らしていたせいか、まだまだ実際の年齢の半分くらいなものです。
「―――なんだよ、名誉の戦士って」
 どこでその言葉を拾ったかは解りますが、それに飛びつく精神性は、ちょっと問題です。
 ショーンのコイビトのノーマンが純粋で好奇心旺盛なのは美徳ですが―――魔法学校を歴代トップの成績で卒業した偉大なる魔術師のショーンにしてみれば、ちょっとどころかノーマンは随分なお馬鹿さんです。お勉強ができるできないというレベルではなく。
「―――意外と聡明な子供だと認識してたんだがなぁ」
 ノーマンが行方不明になってしまう数年前のことを思い出してみても、今よりもう少し考え方が聡明だったように思います。
 ノーマンがショーンのように魔法学校に通ったり、王宮に召し抱えられて王に仕えるようなことは万が一もありませんが、それにしたってもう少し考え方を進歩させなければなりません。
 一番良いのが、自分の師のような人間に師について貰うことです。
 堅実な考え方と、緻密な計算方法、情報を分析し、判断を下し、指示の出せる能力を、ノーマンにもいずれは付けて貰いたいと思っているのです。
「けどな、師匠は忙しい」
 いっそのこと、荒野の魔女に来てもらって、行儀作法だけでも身に付けて貰うのがいいのかもしれません。
「……まぁバカンス先から戻ってきたりとかはしないだろうがな」
 それに、よくよく考えれば先代の魔女は大変有能でしたが、男気に勝る魔女は多少乱暴者っぽく、口調もざっくばらんであまりノーマンに真似をして貰いたいとはいえない人物でした。
「―――家庭教師、か」
 作法の先生でも、勉学の先生でも構いません。
 ただ、そろそろノーマンにはだれか師として着いたほうが良いような気がしてならないのです。
「困ったなァ」
 紅茶を飲みながら、窓の外を眺めつつ、ショーンが呟きます。
 本当なら、ノーマン以外のヒトの存在がこの城にあることを望ましいとは思っていないショーンがそう考えるのには、理由があります。
 今朝の痣を戻すことにしろ、そのほかの読み書きのレッスンに関してにしろ、自分ではノーマンを甘やかしすぎます。
 時々ノーマンには厳しいショーンですが、師がしょっぱい顔を作るくらいに自分がノーマンに甘いことを自覚しているショーンなのです。
「―――あーあ、参ったねえ」
 的確な家庭教師の人選が思いつかず、ショーンは手の中の紅茶を啜りながら、溜息を吐きました。
 けれど、紅茶を飲んでケーキとサンドウィッチを平らげてしまう頃には、今悩んでも仕方がないか、との結論に達しており。ショーンは午後も充実してお仕事をこなすために、気持ちを入れ替えていったのでした。


***


 精霊さんたちのことはもちろん、気になるノーマンでしたが、今日は湖に行くことに決めておりましたので、まっすぐに森の奥ではなくて反対側のほう、これも遠くにある湖まで向かいます。ショォンの魔法がなくても、がんばって歩いてはいける距離にあるのです。
 ですから途中で2回ほど休憩を取って、木の実を摘まんで食べたり、食べられる花の咲いているのを見つけて花びらを齧ったりしながら、自分の好きなように歩いてやってきていました。
 イーニィたちは木の実も花びらも食べませんから、お星様のかけらをあげていたので、子犬も元気なようでノーマンはますます楽しくなったのでお歌をうたいながら到着したのです。
「ぬーしーはいますかしら」
 湖には龍のおじさんが住んでいますから、ノーマンはきょろりと辺りを見回します。
 湖の主でもある龍がノーマンはとても好きなのです。
「こんにちはー」
 そうゴアイサツをします。
 そうしたなら、反対側も見えないほど大きな湖のちょうど真ん中あたりから波紋が岸辺まで広がってくるのに、ひゃ、とノーマンが笑い声を上げました。
 きょうは、主はあんまり遊びたい気分ではないようです。
 湖の表面から霧のような煙があがっていくのをじっと見詰めて、すごいですねえ、と感心します。
「おじさんはすごいですねえ」
 そう、まっくろの子犬をよいしょと抱き上げて、よろけます。子犬はまた少し大きく重たくなったようでした。

「あら」
 大きくなって前より少しずしりと重たくなってきた子犬をよいせよいせと抱き上げて、ノーマンが結局水辺に座り込みました。
 そして、かちんとリーシュを外します。ほんとうは、リーシュはいらないほどお行儀の良いお手柄ぺっとなのですが、憧れていた子犬を連れてのお散歩には欠かせない「おどうぐ」ですのでノーマンはそれをくるくると丸めて大事にポケットにしまいます。
「じゃあ、石投げっこをしましょう」
 そう宣言します。
 ぴょん、と子犬が跳ね上がって岸辺を走っていきます。モーも勢い良く揺れています。
「ぬーしーにはあたらないようにしますからね!」
 そう、湖の真ん中あたりにいる龍に大きな声で叫んでから、さて、とノーマンが物色します。
 石投げにはルールがあります。ノーマンが投げた石を子犬が拾ってくるのです。
 そして、ノーマンの石よりもっと面白そうなものがあったときは、イーニィたちが好きにそれぞれ二つ、ノーマンの石のほかにもくわえてくるのです。
『お得なこたちだから、こうやって遊べるんですよ』とノーマンはいばってショォンに説明したことがありました。
「石」といってはいますが、小枝でも木の実でも、何でも良いのです。
「ん、」
 ちょいど良い、ひらべったい小石を水辺から拾い上げて、精一杯遠くにノーマンが投げれば、少し離れたところまで走っていってくるくると跳ね回ってまっていたこいぬが、素晴らしいジャンプをして空中でそれを捕まえました。
「マイニー!すごいですねえ!」
 ひゃあ、とノーマンが手をたたきます。イーニィとミーニィもひゃうひゃうと吠えます。
 くるっと地面に降りる前に回転をしてくれたので、ノーマンは大喜びです。
 そしてあっというまに子犬が足元まで戻ってきて、ぽとりと石を手のひらに落としていきます。
 3対の目はぴかぴかとしていて、それだけでノーマンも楽しくなります。
「じゃあ、いきますよ」
 ゆらゆらゆらっと手を揺らせば、いつのタイミングでダッシュをしようかと子犬のまっくろのお尻が揺れてそれもとてもかわいらしいのです。
 えいっとまた思い切り投げて、イーニィが上を見上げて、マイニーはまっすぐ前を向いて、ミーニィはノーマンの方を振り向いてそれでも全力疾走です。
 小石が足元で跳ね上がるほどのはやさで子犬が遠ざかるのをノーマンはわくわくして見守ります。
「かわいいですねえ」
 大満足です。
「―――あら?」
 けれど、ミーニィが小石をぱしりとキャッチして、それから顔をみんながみあわせていました。
 そしてノーマンの方へは戻らずにそのまま同じスピードで大きな岩陰まで走っていきます。ざっくざっくと何かを掘っているようでした。
「なにをしているんでしょう」
 うーん、とノーマンが背伸びをして目の上に手をかざします。
 けれども、子犬の姿の半分以上は岩に隠れてモーと後足しか見えません。
「あたらしい石をみつけたのかしら」
 ぴょん、とその場で飛び上がってみますが、あまり良く見えません。
「いーにぃ!みーにぃ!まいにー!!」
 呼んでみますが、モーがぴるんと丸く揺れただけです。
「うーん」
 なんでしょう、とノーマンもだんだんと気になってきます。
 けれど、ぱ、と岩陰からとても得意そうに三つの頭が覗きましたので、ノーマンもおいでおいでをします。
 子犬の全身からなんだかとてもうれしそうな気配が感じられて、さっきよりも早く走って近付いてきてそれがよけいに伝わってきます。モーなど千切れそうに揺れているのです。
「あんなに揺れたら大変ですよ」
 そうノーマンが心配するほどでした。
 そして、ざっくざくと岸辺の小石を蹴散らして子犬がやってきて、ぶるんと喜んで身体を揺らします。
「どうしたんですか」
 なにがたのしいことありましたか、と頭を撫でれば、さっきの石を一つと、それから、ぽとん、と不思議なものがノーマンの手のひらに落とされました。
「んんん?」
 はっはっと三つのかわいい真っ赤なお口と尖った牙の間から、まっかな舌が覗きます。
 イーニィたちが持ってきたのは、まっしろで、平らで、つるんとしてるものです。
 大きさはノーマンの手のひらの半分ほどで、石のようにも見えますが、しっとりとした触り心地です。
 ドリームキャッチャーに使った宝石よりは、軽いかもしれません。
 石とは違って、縁はつるんとまるくて尖ったところもありません。
「すごいですねぇ…!」
 ノーマンが感嘆の声をあげます。
 そうでしょう、投げっこにはぴったりでしょう!!と子犬の顔がぱああっと三つ、輝きます。
「こんなにきれいな小石があるんですねえ」
 ほう、と溜息をつきます。でしょう、でしょう!!とモーまでぶんぶんと揺れます。
 そのつるんとした感触を指で辿って、くん、と匂いをかぎます。
 水のような匂いがします。
 そして持っていても小石のように冷たくはないのがますます不思議でした。
「これ、きれいですねえ」
 陽射しに透かしてみます。縁がうっすらと半透明に透けました。
「ぼくのだいじなみんな!」
 ノーマンが子犬の頭を三つとも、ぎゅうっと抱きしめます。
「いいこですねぇ、すてきなお石見つけましたねえ」
 すりっと頬摺りもします。
 子犬の毛皮は上等のベルベットよりも滑らかでノーマンは大好きなのです。
「これはね、」
 なぁに?という風に、三つの頭が同じ方向に傾きます。
 目はもうキラキラと、いつ投げてくれるのかと期待に溢れています。
「あのね、これは、きれいだから持って帰ってしょぉにみせましょうねえ…!」
 ふわふわの笑顔を浮かべて大好きな「ごしゅじんさま」が宣言したのに、「ひゃんっ?!」と子犬が声を上げました。
「んん、そうでしょう?いいアイデアですよねえ」
 それを同意と受け取ってノーマンがますますうれしそうに笑みを深くします。
 きゅううう、と子犬が鼻を鳴らしたので、ノーマンがその額を三つとも、柔らかくさすります。
「こんなふしぎ石はだってみたことがありませんもの、きっとしょぉんだって観たことがないですよ」
 やっぱりぼくのお手柄ぺっとはすごいこたちです、と早くショォンにお話したくてノーマンはたまりません。
 三つの頭がお互いを見詰め合って、くんくんと鼻を鳴らしているのにお構いなしなノーマンはにこにことうれしそうです。
実は。
「おもちゃ」として素敵に珍しい「骨」を地獄の番犬は嗅覚で見つけ出していたのです。
 魔物でもあるノーマンのこいぬたちは、これはそんじょそこらの石ではない、すばらしい『骨=魔具』だと分かっていたのです。
けれどまさか、ご主人がそれを持って帰ると言い出すとは予想もしていませんでした。だってノーマンや自分たちのために素敵なおもちゃを見つけただけのつもりだったのですから。
 クン、と袖を引かれて、ノーマンはマイニーを見下ろしました。
「なんですの?」
 くん、くん、とイーニィとミーニィも袖を同じように咥えてひっぱってきます。
「あ、投げっこですね、そーれっ!」
 そう最大級の笑顔でノーマンが投げたのは、当然のように普通の石でしたが、うっかり子犬たちはそっちに夢中で走りだしてしまったのです。
 くるくると回転して小石を捕まえる子犬を満足気に見詰めながら、ノーマンはその「ふしぎいし」をきゅっと握りこみました。
 あともう4回ほど投げっこをして、お茶を飲んだらお城にかえることに決めます。
 休憩は一回だけにして、早足で戻るのです。
 そして、ほどなくして。仕事中だった大魔法使いは、ごんごんどんどんとドアを叩き、
「しょおおおお、たいへんですよ、だいじけんですよ!!」
 そう大きな声で知らせてくるノーマンの声に邪魔をされることになったのです。